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礼拝説教「光の来た日」ヨハネ1章1〜5、9節
 

序.

クリスマス、おめでとうございます。皆様とご一緒に、救い主イエス様の御降誕を祝い、礼拝をお捧げできますことを感謝いたします。

さて、今朝はヨハネの福音書を開いていただきました。最初のクリスマスに何があったのでしょうか。クリスマスの出来事に関しましては、マタイの福音書とルカの福音書がそれぞれ書き記しています。馬小屋でお生まれになったことや、羊飼いたちや、東の国から博士たちが来たことなどです。それに対しヨハネの福音書は、クリスマスの意味について語っています。先ほど、司会者の方に1章の冒頭部分を読んでいただきましたが、そこで著者のヨハネは、イエス・キリストのことを「ことば」であり、「光」であるお方、として紹介しております。この「ことば」とは、原文のギリシャ語では「ロゴス」と書かれています。ロゴスとは世界を成り立たせている原理、といったもので、このロゴスを探求するために、古代ギリシャでは哲学や自然科学の元が発達しました。ヨハネは、そのようなギリシャ文化の人々に対して、世界を成り立たせているのは、人間が考えた理屈ではなく、世界を造られた神様ご自身を知ることが大切だと教えたのです。ですから、ロゴスは、生きている「ことば」であり、神様なのです。そして、この「ことば」は人間にとっては光であった、と書かれています。今朝は、クリスマスとは、この光であるお方がこの世界に来られたことなんだ、ということをお話しさせていただきます。どのような光でしょうか。それは、命を与える光であり、闇に打ち勝つ光であり、今、来ようとしている光である、とヨハネは語っています。

1.いのちを与える光(4節)

光とは何か、学校でも習います。光は私たちにとって無くてはならない、大切なものです。太陽の光が植物を育て、それを食物として動物が育ちます。光は命を与えます。また、暖かさや明るさ、と言った、私たちの必要を満たします。光がまったく無くなってしまったら、どれほど大変でしょうか。また、光によって私たちは正しい道を歩むことができます。大昔の人も、太陽や星の光を見て、正しい方向を知りました。イエス・キリストを光に例えたのは、様々な面で、この自然界の光と似ているからです。

イエス様を信じるとき、その人には新しい人生が始まります。その新しい人生のことを、聖書では永遠の命と教えています。永遠とは、天国にまで続く生き方のことです。今朝は、説教の後、洗礼式を行いますが、洗礼式とはイエス・キリストを信じて新しい人生を歩みだしたことを、公にする式です。この方たちは、新しい人生を一歩、歩み出します。一歩、二歩、と、これからクリスチャンとしての歩みが始まります。転んだり、失敗することはあっても、また立ち上がることが出来ます。でも、間違った方向に進んだら、大変です。どうしたら神様の御心に従った、正しい道を進むことが出来るか。それは、光であるイエス様をいつも見つめることです。具体的には、「ことば」であるイエス様は聖書の御言葉を通して知ることができますから、聖書の言葉によって歩むなら、神様が心の中に光を射してくださり、正しい道へと導いてくださいます。

新しい命、正しい生き方を与えるために、イエス様はこの世界に来てくださいました。それがクリスマスの本当の意味です。私たちには、この光が必要です。それは、この真の光が無かったなら、私たちは闇の中に生きることになってしまうからです。

2.闇に打ち勝つ光(5節)

さて、皆さんは、真っ暗な闇を体験したことがありますか。昔はよく、年に一度くらいは、停電になりました。ブレーカーが落ちることもあれば、地域全体が停電になることもあります。真っ暗になった時、手探りで懐中電灯やロウソクを探します。ロウソクの小さな灯りでも、とても明るく感じるものです。小さな光でも、光があったら、もうそれは闇とは言いません。闇のほうが強くて光が見えないということはありません。砂嵐のようなものなら懐中電灯の明かりが遮られるかもしれませんが、まったく無くなるのではありません。闇が光に打ち勝つことは出来ないのです。そして、光によって、闇の中で見えなかったもの、隠れていたものが照らし出されて、現れます。

イエス様が世の光として来られたとき、この光は私たちの心の中を照らします。そのとき、私たちの心の中には真っ暗な闇があることが明らかになります。人には知られたくないこと、忘れたい過去、誰にも言えない悩み、死への恐れ、そして、神様の御心に反する罪、そういった暗い闇が心にあるとき、私たちは明るく生きることが出来ません。だから、そういった心の闇を、私たちは隠します。人から見えないように、あるいは自分でも見ないようにして、明るく振る舞います。でも、何かの拍子に、その闇が出てきてしまうのです。

イエス様の光は、その心の闇を照らします。聖書の言葉を読むと、心の中身が示されます。最初は、自分の心の闇を見せられるのは嬉しくはありません。でも必要なことなのです。それは、その自分の闇を認めて、神様にお詫びし、またお頼りするとき初めて、この真の光は、その人の心を新しくして、造りかえてくださるのです。光は闇に打ち勝つからです。

3.来ようとしている光(9節)

さて、先ほど、聖書を読んでいただいた時、途中を飛ばしていただきました。そこにはヨハネという人が出てきますが、それはこの福音書を書いた弟子のヨハネではなく、バプテスマのヨハネと呼ばれている人です。このヨハネに対して、当時の人々は、この人こそ神様から遣わされた救い主ではないかと期待したのですが、本人が、そうではない、と証言しています。彼は「光」ではなく、光を人々に紹介する役割をしたのです。6節から8節は、そのことをちょっと付け加えて語るために話しが横道にそれて、9節から再び、まことの光の話しに戻ります。9節。

すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

今、お読みしましたのは、新改訳聖書という翻訳です。新約聖書はギリシャ語で書かれていますので、それを日本語に翻訳したものを私たちは使っています。少し古い、口語訳聖書では「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」と訳されています。「世に来た」のか、「来ようとしているのか」、どちらなんだ、と思われるかもしれません。確かにギリシャ語で読みますと、現在形か現在進行形で書かれていますので、新改訳のように「来ようとしていた」でも良いのですが、イエス様はすでにこの世界に来られた、ということから言えば、口語訳のように「世に来た」と言っても間違いではないわけです。クリスマスはイエス様が「世に来た」ことを私たちに告げています。でも、そのイエス様を、私たちが心を開いてお迎えするとき、私の内にも来てくださいます。その意味では、今、「来ようとしている」、とも言えるのです。イエス様は来てくださった、でも私の心の中で、まだイエス様をお迎えしていないで、闇のままで閉ざされている部分が無いでしょうか。表面だけ取り繕って、でも誰にも打ち明けられない暗闇が無いでしょうか。

同じヨハネが書いた黙示録という、聖書の最後の書物の中で、家の外に立って戸を叩いているイエス様が、記されています。有名な絵にもなっています。イエス様を信じることが心に中にお迎えすることです。でも、入っていただいたイエス様に、客間だけ見てもらってはいないでしょうか。一番きれいな部屋にお通しして、自分の良いところだけしか見せない。教会でも、自分の良いところだけを見せよう、と頑張っていると、疲れてしまいます。イエス様にもそうしてしまうことがないでしょうか。客間ではなく、台所も寝室も、物置の中まで。誰にも見せられないもの、溜まっている悩み事、様々なものを隠したままでいると、やがて信仰が辛くなります。イエス様に全て明け渡しましょう。隠したって、イエス様は神様ですから、全部お見通しです。でも、それを私たちの方から閉じた戸を開いて、自分にも闇があることを認めて、イエス様の光を照らしていただくなら、その闇も造りかえられて、新しい命が満ちあふれるようになるのです。

まとめ.

クリスマスは、イエス様のお誕生日だから、目出度いから祝う、のではありません。このイエス様、私の心の中に入ってください、と迎え入れるときに、本当のクリスマスがあなたの心にも来るのです。毎年、教会でもクリスマスを迎えておられる方も、今年も新しい思いでクリスマスを祝いましょう。闇を照らし、永遠の命を与えてくださる光であるイエス・キリストに、心から感謝を捧げましょう。

 

(c)千代崎備道

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