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礼拝説教「葬りのクリスマス」創世記49章29節〜50章14節
 

序.

創世記の最初は、もちろん、天地創造の出来事を記していますが、そこで新しい命が造られました。特に最初の人間、アダムとエバが造られた。その後、カイン、アベル、そしてセツという子どもたちが、次々と生まれます。創世記の最後は、二人の人の死に関する記事で閉じています。全体を考えますと、命に始まり、死で終わる、そんな構造のように感じます。そこで今日のテーマは死と葬りということなのですが、詳しく読んでいきますと、二つの死は違う意味を持っています。ヤコブの死は、まさに創世記の最後に相応しいものですが、ヨセフの死は創世記の終わりであると共に、次の出エジプト記への橋渡しとなっています。そこで、今朝はヤコブに関して、そして、クリスマスが終わって、さ来週、今年最後の礼拝でヨセフに関してお話しする予定です。

さて、今朝の説教題は、あまりクリスマスに相応しくないかも知れません。イエス様の誕生日であるクリスマスと、葬り、すなわちお葬式とは正反対かと思われます。しかし、クリスマスの本当の意味を思うときに、それは葬り、特に十字架の死と、決して無関係ではないことが分かります。そのような意味を含めながら、「葬りのクリスマス」ということをお話ししてまいります。いつものように、三つのポイントに分けてまいります。第一に「ヤコブの葬り」、第二に「幼子の葬り」、そして第三に「私たちの葬り」という順序で進めてまいります。

1.ヤコブの葬り

前回、49章の1節から28節までを通して、ヤコブの遺言ということをお話ししました。29節からは、ついにヤコブが召される時のことです。彼は息を引き取る間際に、自分をどのように葬るかをヨセフに指図しました。それは、ヤコブは自分にとって死ぬことが何を意味するかを理解していた、ということです。まず、ヤコブがヨセフに命じたことを見てみます。

第一に気が付きますことは、ヤコブは自分をレアと共に葬るように、と命じていることです。ご存じのように、ヤコブは波瀾万丈の生涯を送り、訳あって四人の妻を持つことになりました。しかしヤコブ自身はレアの妹であるラケルを一番愛していました。ラケルが旅の途中、ベツレヘムの近くで死んだ後は、ラケルの産んだヨセフに愛情を注ぎました。そしてヨセフの二人の息子に、先祖伝来の祝福を受け継がせた。ですから、本当なら、自分の遺体もラケルと共に葬って欲しかったはずです。しかし、彼は、自分が誰と共にいるべきかと考えたとき、正妻であるレアと共に葬るように命じた。私情に流されるのではなく、自分の立場を理解していたからです。それはアブラハムとイサクから祝福を受けた、ということです。ですからアブラハム夫妻、イサク夫妻が葬られた墓に入れられて、レアと共に葬られることを選んだのです。

もう一つは、場所です。これも、ヤコブ自身が買い取った土地ではなく、アブラハムが買った土地でした。その土地、マクペラの畑と言われる場所こそ、アブラハム一族が一番最初に手に入れた土地であり、そこに一家の墓が作られました。この墓は契約の約束を先取りするものです。アブラハム契約とは、彼の子孫がカナンの地全体を与えられる、という約束です。しかし、実際に与えられるのは、数百年後であって、土地を手に入れるのは彼らの子孫です。しかし、まだアブラハムが生きているうちに、神様がいわば手付け金として、約束を必ず守るという証拠として与えられたのがこの土地です。しかもアブラハムの妻サラが死んだときに手に入れた。ですから、今、自分が死ぬにあたり、そこに葬られることが一番相応しいとヤコブは考えたのでした。

ヤコブは神様の約束である契約を信じて死んでいったのです。それは自分ではなく、自分の子孫たちの時代が来たときに成就する約束です。ヤコブの死は、アブラハムから始まった契約を次の世代に手渡して、子孫へとつなげる意味があったのです。主なる神を信じるヤコブにとって死は終わりではなく、未来とつながっているのでした。

ヤコブの死は二つの意味を持ちます。第一に、ヤコブが死ぬことによって遺言が効力を発します。49章前半でヤコブは遺言として12人の息子の、その子孫である12部族の将来を予告しました。それが事実となるために、遺言が発効するために必要な条件があります。それがヤコブの死でした。第二に、アブラハム、イサク、ヤコブまでは二人の息子がいても選ばれるのは一人だけでしたから、あくまで家族にすぎず、創世記は一族の歴史を記したに過ぎません。しかし、ヤコブの息子たちからは12部族全体がイスラエルと呼ばれ、神様の約束が成就して土地を受け取る時がきます。ですから、一族というよりも一つの民族の歴史がいよいよ始まるのです。ヤコブは、そのような、自分の死が持つ意味を考えたとき、最も相応しい場所に葬るように命じたのです。

ヤコブにとって神様は、必ず約束を果たしてくださる神でした。ですから、アブラハムが死に、イサクが死んで、次は自分が死んでも、神様は必ず約束を果たしてくださる。それは数え切れないほどに子孫を増やしてくださり、約束の地へと導いてくださること。さらに、アブラハムの子孫を通して、全世界の人に祝福が及ぶこと。自分が死ぬことで、約束の実現が一歩近づいた。そう考えるとき、一人の人の死は、決して終わりなのではなく、新しい命につながることなのです。イエス様が語られた通り、「一粒の麦、地に落ちて死なば、多くの実を結ぶ」なのです。天地創造の神、命の源であるお方を信じ、さらにイエス様によって救っていただいた私たちにとって、死とは、自分にとっては天国の始まりであり、後に残る人々にとっては、自分の分の祝福が引き継がれ、さらに豊かな恵みが始まることです。信じる者にとって、終わりは始まりなのです。

2.幼子の葬り

50章の一節、「ヨセフは父の顔に取りすがって泣き、父に口づけした」。しかしヨセフはただ悲しむだけでなく、するべきことを知っていました。それは葬りの準備です。父の遺言に従うには、マクペラの畑にある墓まで、ヤコブの遺体を運ばなければなりません。しかし、長い道中、遺体が腐ってしまいます。そこで、エジプトの技術を用いてヤコブをミイラにする必要がありました。2節。

ヨセフは彼のしもべである医者たちに、父をミイラにするように命じたので、医者たちはイスラエルをミイラにした。

さらっと読み過ごしそうになりますが、ここでヤコブは医者たちに命じています。通常、エジプトでミイラにするときは、祭司たちが関わります。死者を弔う宗教的儀式だからです。しかしヨセフは医者に命じることで、宗教的要素を入れないようにしたのです。カナンやエジプトの神々ではなく、天地創造の主である神様に従うためでした。葬りの準備も重要な意味があったので、一言付け加えているのです。

具体的には、どのような処置が施されたかは書かれていませんが、様々な薬が用いられました。王族の場合は特に丁寧になされました。日数は、全体で70日くらい、そのうち、40日から50日くらいは遺体の処置に費やされた、のだそうです。

さて、このミイラにする処置をする時に、用いられた薬の一つがミルラと呼ばれるもので、そこからミイラという言葉が出来たとも言われます。このミルラ、ヘブル語ではモールと呼びますが、日本語の聖書では「没薬」と書かれています。没薬と言うと、クリスマスの話しに出てきますね。東方から来た博士たちが、特別な王、すなわち救い主としてお生まれになった幼子イエス様に捧げた三つの宝が、黄金・乳香・没薬でした。この宝物は、その後、エジプトに亡命するときの生活費などの費用として使われたと言われますが、特別な意味を持った贈り物でした。没薬は薬としても使われますが、死者の葬りに際しても使われ、実際、イエス様が十字架で死なれたあと、墓に葬るときにも使われています。また乳香は香料の一種ですが、イースターの朝に女性たちが墓に行ったのは香料を塗るためです。また葬るためには墓を買うためにもお金が必要でした。博士たちが捧げたものは、図らずも、イエス様の葬りに必要なものでもあったのです。

またイエス様誕生から数ヶ月後、博士たちの来訪から少したってから、悪名高いヘロデ大王による、ベツレヘム幼児虐殺事件が起こります。イエス様一家は危うく難を逃れますが、クリスマスの陰には様々な形で「死」がほのめかされているのです。クリスマス、イエス様の誕生は、死と深い関わりがあり、しかも、それは十字架の死だったのです。御子であるお方が、十字架で死ぬために人間の肉体を持ってこの世に来られた、それがクリスマスの本当の意味なのです。

イエス様の死は、私たちに永遠の命を与える、救いのための死です。イエス様が死なれたから、私たちに天国の祝福が与えられるのです。ヤコブの死によって彼の子孫であるイスラエルにアブラハム契約の祝福が及んだように、イエス様の十字架の死によって、新しい契約の救いが私たちに与えられるのです。これこそ、イエス様が一粒の麦について語られた本当の意味なのです。私たちがクリスマスを祝うのは、誕生日だから、めでたいから、ではありません。命の源である神様の一人子が、私たちのために命を捨てる、その目的のためにこの世に来てくださった。そのことを心から感謝するため。それが私たちのクリスマスなのです。

3.私たちの葬り

先ほどは3節までを読んでいただきましたが、4節以降、ヤコブの命令通りに、ヨセフはミイラとなった遺体を運んで、カナンの地に行き、指定されたマクペラの畑にある墓に父ヤコブを葬りました。その様子が13節までに描かれています。ヤコブの死に際して、3節にあるようにエジプト全土が70日間の喪に服しました。また葬儀そのものは七日間に渡ったと書かれています。これは王侯並みの扱いだったということです。それはヨセフの地位が高かったから、彼の功績、エジプトを飢饉から救ったという功績の故でもありますが、147歳まで生きたヤコブへの敬意もあったことでしょう。12人の兄弟と共に、王様はエジプトを離れませんでしたが、それの代理として主だった人々、そして軍隊の大部隊が伴って、カナンの地まで行進し、一週間に渡る盛大な葬儀が行われました。

ヨセフは父との約束を果たすために、パロにエジプトを一時離れることを願い出ています。パロが許可を与えたことをわざわざ記しているのは、それが当たり前ではなかったからです。今やエジプト全土の支配を委ねられているヨセフが一時的に不在となることは、国家の働きにとっては決して簡単なことではないし、ヨセフを信頼し、頼っているパロにとっても不安があったでしょう。もしかすると、いない間に反対勢力がクーデターを起こす可能性だってある、そんな時代です。

同じように、王様に暇(いとま)を願った例として、ネヘミヤという人がいました。ネヘミヤ記を読みますと、ペルシャの王に対して、当時、献酌官(それは王様から非常に信頼された者でなければ就けない地位ですが)ネヘミヤはエルサレムに一時帰国することを申し出ました。数日や数ヶ月ではなく、数年かかりうる仕事のためです。それだけ職場を離れたら、帰って来たときには他の者が自分の地位を奪っているかもしれません。大きな犠牲を払ってネヘミヤは祖国の復興のために働きました。

ヨセフの場合は状況は違いますが、それでも彼はエジプトを離れるという犠牲を払って、ヤコブを葬りました。葬りには犠牲が伴います。しかし、それは亡くなった方とのこれまでの関わり、特にお世話になったことを思えば、感謝をもってその方を丁重にお送りする意味では、犠牲を払ってでも葬ることには大切な意義があります。ヨハネ3章に出てくるニコデモは夜、隠れてイエス様に会いに行きました。ところが彼はイエス様の葬りの時、周囲に知られて自分の地位が危なくなるという犠牲を払ってでも、葬りの手伝いをしました。それはイエス様から永遠の命の教えをいただいたからです。イエス様がしてくださった恩義を思うなら、地位やお金を惜しいとは思わなかったのです。

あまり葬りのことばかり話しますと、暗くなります。ちょっと脱線して、楽しい話しをしましょう。来週は、いよいよクリスマス礼拝です。その中で、洗礼式と転入会式を行います。四名の方が受洗の恵みに与られ、お一人が転入会されます。四名の中の二人はクリスチャンホームの子どもたちです。後にJKの子供たちが沢山控えています。(先ほど子ども祝福のために出てきた子どもたちが、やがてみんな洗礼を受けると考えると、ワクワクしませんか。ぜひ、そのためにお祈り下さい。)

洗礼式の意味については様々な機会にお話ししますが、大切なことですので、またかと思わないでお聞き下さい。最初の頃の洗礼は、全身が水の中に浸かる、「浸礼」と言われる形式でした。それが様々な事情で、頭の上に水を着ける「滴礼」、それから頭の上から水を注ぐ「灌礼」という三つの方法が使われるようになり、私たちの教会では「滴礼」を用いています。三つの方法に共通するのは、頭のてっぺんに水が着けられることです。それは頭まで水に浸かることを表し、水の中でいったん死ぬことを意味します。洗礼とは一度葬られて死ぬことです。(また話が葬りに戻ってしまいました。)しかし、死ぬことが目的ではありません。死んだ後、水の中から引き上げられ、新しい命をいただいて復活することも含まれています。古い生き方、聖書の言葉を使うと、古き人が死んで、新しい人、新しい人生が始まる。それが洗礼式の意味です。私たちは古い自分は死んで、新しい人となったのです。ところが、時々、古い自分が顔を出す。死んだはずのミイラが動き出す。ホラー映画でもなければ、ホラ話でもありません。

週報の内側に印刷していただいたアウトラインで、「私が」が死なないと、と書かれていまして、「が」という字が一つ多いようですが、間違いではありません。古い自分とは、この「私が」、なのです。私が一番、私が大切、私が目立ちたい、私が褒められたい。この「私が」という、自己中心です。自己中心は罪の親玉です。私たちは罪から十字架の贖いによって救っていただいたはずです。それなのに、また私が中心になりたがる。古い人、古い自分が自己主張するのです。自分のことばかり主張し、自分の利益ばかり考える。そんな人は周りから良く思われません。イヤな気持ちにさせてしまいます。イヤな臭いをまき散らすのです。死んだはずの古い人が動き回るからです。まるでミイラが歩き出したかのようです。それでは、せっかくいただいた新しい人生が台無しとなってしまいます。せっかく洗礼を受けて、新しい人生をスタートしたのですから、「私が」「私が」と自分のことばかり、ではなく、イエス様のために生きるという、これまでとは違う生き方をする、それが「新しい人」の生き方です。私の中にいてくださるイエス様のために生きるとき、私ではなくイエス様が私の肉体を通して生きてくださる。するとイエス様の香りを振りまく生き方となるのです。

新しい命に生きるためには、古い自分を葬ることが必要です。私のことだけを求める、私の栄誉、私の喜び、私の利益、それを第一とすること、それが自己中心です。そうではなく、この私を喜んで主にお捧げし、用いていただく、献身と奉仕の生き方、それが新しい人生です。そのように生きるとき、「私の」ではなく、神からの栄誉、神からの喜び、神からの恵みをいただく者となるのです。自己中心な「私が」を葬り、新しい生き方をすることを選び取りましょう。

まとめ.

クリスマスは、神様から最高の贈り物としてイエス様が与えられた日です。天国の祝福をいただいたのです。そのためにイエス様は十字架で死ぬために生まれてくださった。そのことを思うとき、自分の利益だけを求め、少しでも犠牲を払うのを惜しむ、というのが、いかに見当はずれの考えであるかが分かります。最高の祝福をいただいた、これからも沢山の恵みが用意され、天国の約束までいただいているのですから、喜んで仕え、感謝して捧げ、心から礼拝するものとなりましょう。

 

(c)千代崎備道

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