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礼拝説教「祝福された弟」創世記48章13〜20節(48章)
 

序.

先週は池の上キリスト教会にとって、50周年を記念する礼拝でしたが、実は、私、千代崎備道にとっても一つの記念の日でした。11月21日は、私の受洗記念日で、今年ではなくて来年が受洗して40年になります。年数に見合った成長が出来ているか、あまり自信は無いのですが、神様の憐れみと恵みに感謝します。洗礼を受けたのが、荒川区の尾久教会でしたので、そこが母教会となりますが、次の年の春には、父が川越の教会を開拓し始めましたので、中学から社会人になって、献身して聖書学院に入るまで、ずっと川越におりましたから、母教会のような感じを持っております。中学の同級生や後輩が何人か教会に来ていたころがありますが、その一人が、4,5年、熱心に教会に通っていたのですが、残念ながら、離れていってしまいました。そのとき、「なぜ、神様が自分を愛しているか、分からない」と言ったことを聞いて、私も何と答えて良いか、その時は分かりませんでした。

神様は、なぜ私を愛し、救ってくださったのだろう。神様は、私たちをどうして教会に導かれたのだろう。それは、最初はなかなか分からないものです。何故、自分がクリスチャンになれたのだろうか。また、これから洗礼を受ける方や、今、迷っておられる方もいらっしゃるかも知れませんが、「自分はまだまだクリスチャンにはなれない」と心配なさる方がおられますが、それも同じ疑問があるのではないでしょうか。自分の内側に、神様から選ばれるような理由が無い。それまで自分は結構、良い人間だ、と思っていたのが、聖書を読み、神様を知るようになると、神様の前では、自分は罪人だ、と分かってきます。そして、こんな自分にはクリスチャンだと言えるような素晴らしいところは無い、と感じるのです。私たちは何故、救われたのでしょうか。

今朝は、このようなことを考えながら、ある兄弟のことを創世記を通して見てまいります。それはヨセフの二人の息子、マナセとエフライムです。いつものように、三つのポイントをお話しします。第一に「父の理由」、第二に「著者の理由」、そして第三に「神の理由」、という順序でメッセージを進めてまいります。

1.父の理由(1〜12節)

先ほど司会者の方には、途中から朗読していただきましたが、48章の1節から、話は始まります。いえ、その前に、47章の最後の所で、年老いたヤコブが、息子のヨセフに遺言を語っております。そして48章に入りますと、具合が悪くなり、床の上に座るのが精一杯という状態となっていたことが分かります。ヨセフは急いで、二人の息子を連れて駆けつけました。祝福を祈ってもらう為でした。この祝福は特別な意味を持った祝福であることは、創世記を読んできた読者には良く分かることです。それは、神様からの特別な約束、正しくは契約とも言われるものを引き継ぐ、祝福です。ヤコブが父イサクから受けた祝福を、誰に譲り渡すか。ヤコブは自分の12人の息子たちの、いずれでもなく、ヨセフの息子、ヤコブにとっての孫に、祝福を与えることにしました。何故でしょうか。5節、

5 今、私がエジプトに来る前に、エジプトの地で生まれたあなたのふたりの子は、私の子となる。エフライムとマナセはルベンやシメオンと同じように私の子にする。6 しかしあとからあなたに生まれる子どもたちはあなたのものになる。しかし、彼らが家を継ぐ場合、彼らは、彼らの兄たちの名を名のらなければならない。

ここでヤコブは、孫のエフライムとマナセを、自分の子、すなわち養子とすることを宣言しています。その理由はこうです。

ヤコブが12人の息子たちの中で最も愛していたのは、ヨセフです。しかし、今、ヨセフはエジプト人として生き、総理大臣という働きをしています。ですから、神様から約束された契約を、ヨセフが受けて、約束の地に帰ることは出来ません。そこで、ヨセフの身代わりとして、二人を養子として、ヨセフの代わりに自分の祝福を受け継がせようと考えたのです。その結果、一時的にヤコブの息子は、ヨセフを抜きにすると12引く1で11人、それに二人プラスして、13人いることになります。この13人の息子にヤコブの財産を分けると、一人が13分の一ずつです。他の兄弟たちは一つぶんずつ受け取りますが、ヨセフの息子は二人ですから、それはヨセフが二人ぶんの分け前を得たのと同じになります。こうやって、ヤコブは、実質上、他の兄弟の二倍の分をヨセフに引き継がせることが出来たのです。二倍の分とは長男の特権です。下から二番目だったヨセフが、長男として扱われた、それは、ヤコブがヨセフを、それほど愛したからです。

父ヤコブの動機は、ヨセフへの愛でした。しかし、ヤコブの愛も、また、その父イサクの愛も、偏った愛であり、溺愛でした。人間の愛は、必ずしも、間違いがないのではない。しかし、この強い愛の故に、ヨセフの二人の子は祝福を受けることとなったのです。

8節を見ると、「イスラエルはヨセフの子らに気づいて言った。『これはだれか』」、これは5節で、すでに二人の名前を挙げていることから、奇妙な印象を与えます。しかし、そのすぐ後、10節を見ると、イスラエル、これはヤコブの別名ですが、彼は目が霞んで、よく見えなかったことが書かれています。そういえば、ヤコブの父イサクが年老いて、目が良く見えなくなったのを悪用して、ヤコブは父イサクを騙しました。イサクは兄のエサウだと思い、名前を尋ねると、ヤコブは嘘を付いて、「エサウだ」と言って、祝福の祈りを無理矢理手に入れました。その時のことを思い出しながら、これから祝福の祈りをするに当たって、ヤコブは名前を確認したのではないでしょうか。ちょっと余談でした。

ヤコブが何故、ヨセフの息子たちを呼び寄せたのか、それは、祝福を与えるためであり、それはヤコブがヨセフを愛していたからです。父の愛が、二人を呼び寄せた理由です。私たちが神様の前に導かれたのも、神様の愛が動機です。神の愛は、無条件で愛してくださる愛です。条件が良いから好きだ、ということではなく、条件が悪くても、それでも愛し救ってくださる。それが神の愛です。私たちの内側に選ばれるべく条件があるのではなく、ただ、神様が一方的に愛してくださった。それが聖書の告げている真実な答えです。

2.著者の理由(13〜20節、旧約聖書全体)

13節からのヤコブの行動も、不思議に思われるかも知れません。

13 それからヨセフはふたりを、エフライムは自分の右手に取ってイスラエルの左手に向かわせ、マナセは自分の左手に取ってイスラエルの右手に向かわせて、彼に近寄らせた。14 すると、イスラエルは、右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。マナセが長子であるのに、彼は手を交差して置いたのである。

17 ヨセフは父が右手をエフライムの頭の上に置いたのを見て、それはまちがっていると思い、父の手をつかんで、それをエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。18 ヨセフは父に言った。「父上。そうではありません。こちらが長子なのですから、あなたの右の手を、こちらの頭に置いてください。」

ヤコブは間違えてではなく、分かっていて、マナセではなくエフライムの上に右手を置きました。右手は優先を現します。二人のうち、エフライムの方が寄り祝福を受けるということです。何故、そんなことをするのか、と疑問に思ったヨセフに、ヤコブは、19節で、「わかっている」と二回も繰り返して語っています。ヤコブは何が分かっていたのでしょうか。それは、ヤコブが伝え聞いてきた、一族の歴史です。

まず、ヤコブ自身、長男ではなく次男でした。双子ではありますが、長男のエサウが父から祝福を受け継ぐはずだったのに、ヤコブがそれを受けました。その父イサクは、と言いますと、彼より前に、アブラハムはイシュマエルという息子をもうけておりました。奴隷から生まれたと言っても、法律的には長男です。しかしアブラハムはイシュマエルではなくイサクに祝福を受け継がせました。アブラハムは、と言いますと、どうも彼も長男ではなかったようです。アブラハムに付いてきた甥のロトのことを考えますと、ロトの父であるハランの方が年上だったようです。系図の上ではアブラハムが先に呼ばれているのは、生まれた順ではなく、だれが創世記の中で重要人物か、ということを現しています。そして、アブラハムの先祖であるノアの三人の息子、セム、ハム、ヤペテも、明確ではありませんが、生まれた順で紹介されているのでは無いようです。さらに遡ると、最初の人アダムの息子のうち、長男のカインよりも弟のアベルの供え物を神様は喜ばれた。そのためにアベルはカインに殺されてしまいますので、アベルが選ばれることはありませんでしたが、その代わり、次のセツがアブラハムに繋がる系図に選ばれています。

創世記を読んでいますと、まるで、兄よりも弟の方が祝福されているかのようです。もちろん、旧約聖書全体がそうであるように、また中近東世界全般に言えるように、遺産を受け継ぐのは、優先順位は長男にあるのが原則です。ただ、なぜか、創世記の著者は弟が選ばれた事を強調して綴っています。それによって、著者であるモーセが言わんとすることが朧気に見えてまいります。

兄よりも弟が選ばれたのは、弟が優秀だったからではありません。父親の溺愛でもない。ヤコブはヨセフを愛しましたが、イサクはエサウを愛していたのです。では何故か、それは、神様がイスラエル民族を選ばれた理由を示すためです。出エジプト記や申命記でもモーセが教えていますのは、神様は、長い歴史を持つ、大帝国のバビロンやアッスリヤでもなく、また素晴らしい文化を持っているエジプト帝国でもなく、また武力や経済力に富んだ国々でもなく、信仰的に言えば、頑固で、救ってくださった神様を離れて偶像に奔りやすい、どうしようもないイスラエルの民を選ばれた。それが神の選びです。

人間の選びは、条件付きです。頭がよい、力がある、顔が良い、様々な理由によって誰かを、何かを、選びます。神様は無条件で、ですから時には一見悪いと思われる者や、人間の常識とは反対の者を選ばれるのです。神の愛について教えるヘブル語がいくつかありますが、その中でも大切なのは、一つは「選びの愛」、神様の愛は、愛される価値の無い者、劣っている者を、敢えて選ぶ、それが神の愛の現れです。もう一つの愛は「契約の愛」です。神様はイスラエルとシナイ山で契約をして、彼らを神の民とした。だから、イスラエルがどれほど不信仰で不従順で罪を犯しても、なお彼らを見捨てずに愛し、導かれた。これも愛される価値の無い者への愛です。創世記はモーセが書いた五つの書物の、そして旧約聖書全体の土台です。神様はこのような存在を選び、祝福されることを示すのが、アブラハム一族の歴史なのです。著者はそれが伝えたくて、創世記の最後の部分に、この章を書き入れたのです。

同じ、神様の愛が、私たちを選び、救いだし、キリストの教会に加えてくださったのです。パウロがエペソ書の中で、世の始まる前から私たちを選び、と書いている通りです。

3.神の理由(新約聖書)

旧約聖書において、価値のない者が愛され、選ばれるというテーマが、イスラエルの歴史の中で語られていって、その頂点であり成就であるのが、新約聖書の十字架による救いです。神様にとって、本当の長子は、一人子なる神である、イエス・キリストです。ところが、そのイエス様が私たち人間を救うために、人間の肉体となって来てくださった、それがクリスマスです。ところがイエス様は救い主として来られたのに、十字架につけられてしまった。なぜでしょう。それは私たちの罪の身代わりとなって、救ってくださるためです。そして、救われた者は、御子イエス様の代わりに、養子として神の子という身分をいただくのです。これが、価値のない者、より劣る者の選びと救い、なのです。

同じテーマが別の形で語られているのが、放蕩息子の譬えです。兄ではなく、弟が救いの恵みに与っています。福音書の中では、この譬え話は、自分は正しいと考えていた律法学者やパリサイ人よりも、にと美とから見下されていた罪人たちが、先にイエス様の救いの恵みに与っている、という文脈の中で語られています。ある学者たちは、この譬え話が、ユダヤ人と異邦人の救いを指している、と理解します。確かに、先に旧約聖書で選ばれたイスラエルの民よりも、やがて異邦人教会の方が大きくなっていく。それは、先の者が後になり、後の者が先になり、ということです。どちらにしても、選ばれた者に、選ばれる価値があるのではなく、思い当たる理由があるのでもありません。ただ、一方的な神の選びの愛により、神様が私たちを養子として神の家族の中に迎え入れてくださるのです。

救い主が十字架につけられることによって、価値の無い者が救われることは、最初はなかなか理解できないかも知れません。人間が考える救い、例えば良い行いや修行による救いとは、全く違います。救い主であるはずのお方が弟子に裏切られて、処刑されるというのは、まるで救い主の働きが失敗したかのように見えます。それは恥です。十字架上のイエス様の姿は、裸で、傷だらけで、「神様、どうして私を見捨てたのですか」と嘆き叫ぶ、みっともないお姿です。しかし、キリストは、この十字架をご自身にとって栄光であると考えました。それは弟である人間を救う働きは、他の誰でもない、兄である御子イエス・キリストのみがなせる業だからです。それは、人間の常識や理解を超えた、神の知恵と力が表された救いです。

なぜ、神様は私を愛し、選び、救ってくださったのか、その理由は私たちには分かりません。分からないのは、それは人間の知恵で考えるからです。人間の常識では、価値があるから愛するのです。優れているから選ぶのです。それが人間の愛です。しかし神様は、敢えて価値の無い存在をも愛することによって、神様の愛が人間の愛よりも遙かに勝る、大きな愛であることを示された。罪だらけの人間を、その罪を赦し、神の子とすることも、人間の力では不可能ですが、神の力によって成し遂げてくださった。そこに人間の知恵と力を遙かに超えた、神の知恵と力が示されています。だから、それは神だけが持つ、愛と知恵と力が表された、という意味で、神様が最も栄光だと考える、神による救いなのです。ですから、神様は、この働きを完成させるために、天使ではなく、御子なる神ご自身が、自ら救い主となって来られたのです。

私たちに、救っていただけるような良いものは何もありません。これからイエス様を信じて洗礼を受け、クリスチャンになりたいとお思いの方、自分のような者がクリスチャンになって良いのだろうか、とお考えでしたら、それが正しいのです。救われる理由の無い者を救うために、わざわざイエス様はこの世に来られたのです。またすでにクリスチャンとなられた方は、自分が救われる価値のない罪人であったのに、神が敢えて愛し、選んでくださったことを忘れてはなりません。忘れると、いつの間にか思い上がって、自分が偉いかのように考えてしまいやすいからです。救われて、年数が立てば立つほど、神の前に、人の前に、謙遜な者となっていく。それは、聖書を通して、自分の姿をさらに知るようになるからです。自分の中には、まだまだ罪がある、なんという惨めな存在だろう、と、あのパウロ先生でさえ語っています。しかし、その罪人が救われる、この恵みも、さらに分かるようになって行きます。それが分かったとき、ただ感謝せずにおられない、賛美して神の栄光を告白せずにはおられないのです。

まとめ.

今日から、教会の暦ではアドベント、日本語では待降節と言って、クリスマスを待ち望む時期に入ります。クリスマスに向けての準備が、すでに始められています。大勢の兄弟姉妹が、キリストのご降誕を祝い、この救いの恵みを伝えるために、僕となって奉仕を捧げていてくださいます。自分のような者が救っていただいた、という恵みを思うときに、喜んで、感謝して、奉仕したい、と願うのではないでしょうか。

 

(c)千代崎備道

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