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礼拝説教「誰のしもべになりたいか」創世記47:15〜19(47後)
 

序.

聖書の中には、「奴隷」や「しもべ」といった人々が出てきます。旧約聖書の言語であるヘブル語でも、新約聖書のギリシャ語でも、同じ言葉が、「奴隷」とも「しもべ」とも訳すことが出来ます。どのように翻訳するかは、文脈や文化によって決まるのですが、「奴隷」と「しもべ」、あるいは「召使い」、少し響きが違います。「奴隷」というと非人道的な扱われ方をされているように感じます。それは、恐らくアメリカでの奴隷制度の時代の事を思い浮かべるからでしょう。召使い、と言ったら、また違うイメージがあります。「僕」は、特に旧約聖書では「神の僕」というのは人間として最高の称号でもあり、もっとも一般的な意味で使われるのではないかと思われます。では、僕になるのは良いけれども、奴隷となるのは良くないことか、と言いますと、問題は、どの身分か、ではなく、どのように扱われているか、です。動物と同じように扱われ、満足な食事も休息も与えられないなら、それは辛いことです。しかし、家族同様に扱われ、法律的にも保護されている、とするなら、それほど悪いことではありません。奴隷であれ召使いであれ、主人が良い人か悪い人か、によって扱われ方は大きく違います。聖書の中で、私たちは神様の僕であるべきだと教えている箇所がありますが、言葉の持つ「イメージ」ではなく、聖書はどのような意味で「僕」であるべきだと言っているのか、ということを今朝は考えてまいりたいと思います。

ところで、旧約聖書の律法を見ますと、奴隷であっても決して悪く扱ってはならないと命じられています。もし主人が神に従う人であったら、安息日は奴隷も休まなければなりませんし、他にも様々な祭りの時など、休みとなります。ある人が、そのような休みの日数を数えてみましたら、現代の私たちの休日よりも多かったそうです。だとしますと、私たちは旧約の奴隷よりも休みが少ない、ということになってしまうのでしょうか。もちろん、細かい待遇の違いがありますので、簡単に比較は出来ないですが、やはり日本人は働き過ぎ、と言われるかもしれません。

余談でした。本論に入ります。いつものようにメッセージを三つのポイントに分けて進めてまいります。第一に「パロの僕」、第二に「人間の僕」、そして第三に「神の僕」という順序でお話しいたします。

1.パロの僕

パロ、と言いましても、出エジプト記に出てくるパロは、イスラエルの人々を手荒く扱い、苦しめました。しかし、この創世記47章では、ヨセフがパロの下でエジプト全土を治めていましたので、少し状況は違います。ヨセフは全ての権威を与えられていましたので、ただ単に食料問題を担当しただけでなく、国の政治のあらゆる分野を動かすことが出来ました。彼は、農業政策や経済政策を進め、実は当時のエジプト王国の政治改革を進めた人でした。その様子が、47章の後半に詳しく述べられております。

飢饉のため、人々が食べ物を求めてヨセフのところにやってきたとき、彼はその食料をタダであげた訳ではありません。最初は銀、すなわち当時の貨幣で、食料を売りました。ところがやがてお金が無くなります。そうしたら、次は家畜と引き替えに食料を与え、それも無くなったとき、ついに人々の土地と引き替え、ついには人々自身も身売りして、奴隷としたことが書かれています。そうしますと、まるで飢饉という自然災害に乗じて、人々の財産であった銀や家畜や土地を全て奪ったかのように見えます。特に国民がパロの「奴隷」となったと聞きますと、みんな、泥でレンガを作るようになったのか、という出エジプト記のイメージを思い浮かべて、ヨセフは大変、悪いヤツのような気がしてきます。しかし、実際は、ヨセフのしたことは国民にとって悪いことではありませんでした。

確かに、ヨセフは家畜を要求しました。もし、そうしなかったら、どうなったでしょうか。飢えた人々は大切な家畜を殺して食べるほかありません。食べてしまったら、もうどうすることもできません。しかし、家畜は全てパロのものとなったときに、ヨセフのところには穀物がありますから、計画的に家畜を残すことができます。やがて食料状態が回復したら、増やすことも出来ます。具体的なことは省かれていますが、どのように家畜を管理したか。ヤコブ一族がその役割を果たしたかもしれませんし、また家畜を連れてきた人々に管理させた、という学説もあります。パロの所有である家畜を任されたのですから、勝手に殺すことは出来ませんので、ヨセフの命令通りに生かすことが出来ます。

また、土地も民もパロのものとなり、ヨセフの命令に完全に従わなければなりません。21節に「彼は民を、エジプトの領土の端から端まで町々に移住させた」と書かれていますが、この「町々に移住させた」という言葉が、唐突な感じがして、話の流れと会わないと考える人もいまして、もともとは「奴隷にした」という意味ではなかったか、と説明しています。しかし、もしそれまでバラバラに住んでいた人々を各地の町々に集めたとするなら、そこには目的があったはずです。現代でも飢饉のために生活ができなくなった人々が、難民キャンプのような場所に集まるのは、食料の配布を考えると合理的であり、確実に全員が食事を与えられることができます。ヨセフも人々を待ちに集めることで、食料を配布しやすくし、また、当時の町は城壁で囲まれたものですから、中にいれば弱いものも外敵、特に獣から守られます。また、農地を整理して、働きやすく、収穫をより多くあげられるようにすることも出来たでしょう。ヨセフのしたことは国全体をよりよくすることでもありました。

奴隷とされた人々に対する命令が、23節にあります。

23 ヨセフは民に言った。「私は、今、あなたがたとあなたがたの土地を買い取って、パロのものとしたのだから。さあ、ここにあなたがたへの種がある。これを地に蒔かなければならない。

24 収穫の時になったら、その五分の一はパロに納め、五分の四はあなたがたのものとし、畑の種のため、またあなたがたの食糧のため、またあなたがたの家族の者のため、またあなたがたの幼い子どもたちの食糧としなければならない。」

おそらく麦が主食でしょう。彼らは食料の穀物もなくなり、普通だったら次の年のためにとっておく種も食べてしまった。ですからヨセフは彼らに蒔くための種も与えたのです。また、このことは、飢饉の最後の年だったことも意味します。次の年からは収穫を得ることができるとヨセフは知っておりましたから、その準備をしたわけです。そして、収穫したら、それは全てパロのものですが、ヨセフは五分の一、つまり二割をパロに治め、8割は自分たちのものと、次の年の種まき用、と定めました。すなわち、二割が年貢です。当時の古代国家においては、年貢は4割から、酷いときは6割だった、と言われています。ヨセフの定めたことは、奴隷に対しては破格の優遇であったと言えます。特に、24節で、「幼い子どもたちの食料」と書かれています。災害のとき、しばしば、幼い子どもが最初に犠牲になることが今でもあります。しかし、ヨセフは幼い子どもたちもちゃんと食べることができるようにと配慮し、全ての人が守られたのでした。

奴隷という身分になっても、ヨセフのような良い支配者の下に置かれた僕は幸福です。同じような国家制度であっても、上に立つ者が自分の利益を求めたり、弱者を配慮しない人であったら、悲惨な結果となっていたでしょう。民は、このヨセフのやり方が理解できたので、そして何より、ヨセフの言うとおりにした結果、皆の命が救われたのですから、彼らは強いられてではなく、喜んでパロの、すなわちヨセフの奴隷となったのです。それが25節の言わんとすることなのです。

すると彼らは言った。「あなたさまは私たちを生かしてくださいました。私たちは、あなたのお恵みをいただいてパロの奴隷となりましょう。」

この、良い支配者に従うことで、人々が救われ、幸福になる、という姿は、一つの理想的な世界です。そして、それが新約聖書の福音書において、「神の国」と言われていることなのです。天国、あるいは神の国と言われるのは、「神の王国」という意味で、神様が王様であり、神様に従う者がその国民です。愛の神様に支配されることこそ、人間にとって救いであり、もっとも幸福な生き方なのです。創世記のヨセフは、神様が治める国がどのようなものかを間接的に示しているのです。

2.人間の僕

全ての人が神の僕となり、神様に従うなら、素晴らしい国となるはずです。イスラエルの民全員が律法に従って正しく生活したら、理想的な国となったはずです。しかし、実際には人間は神の僕となることを拒むのです。支配されるよりも自分の自由に生きることを願います。神様の御心に従う生き方ではなく、自分の思い通りにすることを求めます。それは人間の中に罪があるからです。創世記の最初で、アダムとエバが罪を犯したとき、それは、神様の命令に逆らうことをしたのであり、自分が神のようになって、自分の思い通りにしようとしたのです。人類は最初から、神の僕であることを拒否し、自分の思い通りに生きようとしたのです。その結果、どうなったでしょうか。

人間は自分が神となり、あるいは国家という例えを用いるなら、誰もが王様になりたい、と願います。みんなが王となったら、世界は平和になり、全ての人が幸せになるでしょうか。むしろ、それは強い者が思い通りにする、弱肉強食の世界を生み出します。平和ではなく争いが生じます。人を犠牲にしてでも自分の思い通りにしたい、という罪があるからです。

「お客様は神様」という言葉が変な状況を生みだしているように思える、今の日本を見ていると、みんなが神様、みんなが王様というのは、逆に混乱を生み出すように思えます。他者に迷惑をかけるだけでありません。自分の欲望の通りに生きる、というのは、やがて自分の欲望、自分の罪の奴隷となることです。食欲を例に考えれば分かりやすいでしょう。食べたいものを食べたいだけ食べる。それは体をこわすまで食べてしまうことにつながります。食欲に支配されてしまうからです。

神の僕となることを拒んだとき、人間は自分が王となって自分を思い通りにしようとして、結局は強い人間の奴隷となるか、自分の欲望の奴隷となっていくのです。それは決して幸福な人生ではありません。では、どうしたら良いのでしょうか。神の僕となるには、どうしたら良いのでしょうか。

3.神の僕

なぜ、聖書は神様の僕となることを教えているのでしょうか。それは、神様の方が僕を必要としているからではありません。人間がおそばで仕えなければ神様は困ってしまう訳ではありません。もともと神様は全知全能のお方ですから、何でもおできになります。さらに神様のお側には天使たちが仕えていると言われます。神様の必要のために私たちが使われるのでは無いのです。むしろ、神様は、人間にとって、仕える、という生き方が必要であることをご存じなのです。神の僕となるのは、私たち自身のためなのです。それは、神に仕えないとき、人間は思い通りに生きるのではなく罪の奴隷となるからです。それは自分を苦しめるか、自分よりも弱いものを苦しめる生き方です。決して幸福な人生ではない。神様の僕となるとき、本当の自由と幸福を得ることが出来ます。ちょうどヨセフの支配に従ったエジプトの民と同じです。神様は、私たちに何が必要か、全てご存じであって、必要なものを必ず与えて下さいます。また、どこに行ったら一番良いかをご存じの上で、私たちを様々な場所に導かれるのです。置かれた場所で、与えられた範囲の中で、私たちは一番自由に生きるのです。パロの奴隷が、八割を自由に出来たのと同様です。全部を自分のものとしようとして全てを失うのではなく、神の僕となって神様が定めた自由を喜ぶのです。

この神様の僕として生きるために、何をしたら良いでしょうか。もちろん、僕は主人の命令に従うものですから、御言葉に従うことが神の僕であることは当然です。しかし、命令されてロボットのようになるのではありません。それ以前に、神の僕としての生き方があります。いくつかのことをパロの僕となった人々から教わることができます。

第一に、神様に全てを委ねることです。エジプトの民は家畜を委ねました。家畜は自分の思い通りに使う事が出来るものです。私たちは自分のことを自分の思い通りではなく、まず神様に委ねるのです。自分のものだ、と握りしめているものを、神様にお任せする生き方です。

第二に、隠さないことです。飢饉の時に、みんな空腹でしょう、それなのに見栄を張って「武士は食わねど高楊枝」などとしていたら、必要な食料が与えられません。いえ、神様はお腹が空いていることなどお見通しです。神様の前に自分を取り繕う必要はありません。それが神様の僕となることを妨げます。ありのままで、神様の前に進み出るとき、神様が取り扱ってくださいます。

第三に自分自身を捧げる。新約聖書でも、私たちが自分の体を捧げることが本当の礼拝だ、と教えています。エジプトの民は大切な土地も、そして自分の体も全てパロに捧げました。全部捧げたのですから、本来、畑の収穫も全てパロのものです。ですから、二割が年貢というのは正しい表現ではありません。実は全部を捧げるのですが、それでは生活できません。神様は八割を下さったのです。私たちの献身、自分を捧げて神の僕となることも、献金を通して示されます。全部が自分のものだと考えていると、捧げることが惜しくなります。全部が神様のものだと受け止めるなら、一部を捧げて、多くを与えられることは恵みとなります。

私たちが神様に捧げるとき、神様は、それ以上の恵みを与えてくださるお方です。伝道者となるために献身する、ということは生活も将来も、全て神様にお捧げしたということです。そのとき、神様は全てのものを与えて下さいます。しかし、それは伝道者だけのことではありません。神様は、全てのクリスチャンが、立場や働きは違っても、神様に献身することを求めておられます。全てを捧げることが求められています。それは、神様が欲張りで、私たちのものを取り上げようとしているのではありません。十分の一を捧げよと命じるお方は、捧げたものを十倍にして与えようと考えておられるのです。私たちをもっと祝福し、神様の栄光を現す人生を送らせ、神様の働きをお手伝いさせてくださる。そのために、神様は全てを委ねて僕となるように、命じておられるのです。自分のものを自分の手に握って離さないとき、神様からの祝福も滞ってしまいます。祈りも届きません。パイプを妨げているものが無いでしょうか。大胆に捧げ、いえ、自分自身を神様に委ね、神の僕としていただこうではありませんか。

まとめ.

クリスチャンになったけれども、どうも信仰生活が上手く行かない、と感じることがあります。それは、神様の僕ではなく、自分の思い通りに生きようとするときです。神様は惜しまずに与えてくださいました。御子を与えてくださいました。イエス様は十字架で命を与えてくださいました。惜しみなく与える神の愛に対して、救っていただいた私たちが自分のものを惜しみ、全ての自分の手に握ったままでいたら、神様との関係は上手く行きません。クリスチャンは神の僕となるために召されているのです。

神の僕となり、自ら進んで、喜んで神様に仕えましょう。また、強いられてではなく、与えられている事を感謝して、心から捧げましょう。そのとき、喜びと感謝に満ちた生活が始まります。それが最も幸いな人生なのです。私を僕としてください、と祈り、神様に自分自身を、全てをお捧げする信仰者としていただきましょう。

 

(c)千代崎備道

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