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礼拝説教「王を祝福する僕」創世記47章5〜12節(47:1〜12)
 

序.

司会者に読んでいただきました中で、7節の最後のほう、「あいさつした」の「い」の字の右に、小さな星印だか米印のような記号がついていますね。新改訳聖書第三版、教会に備え付けの聖書の話です。同じページの下の欄外中にその米印、正しくはアステリクという記号があって、そこには「あるいは『祝福した』」と書かれています。同じ箇所を口語訳聖書は「祝福した」、新共同訳では「祝福の言葉を述べた」となっています。どれが正しいか、ではなく、聖書を翻訳する人たちは大変苦労しておられる、ということです。原文は「祝福する」とも「挨拶する」とも訳すことができる言葉で、他にもいくつかの可能性があります。これを文脈や文化を考えて、どれかの意味に決めるのは、とても繊細なことです。もう一つ、7節で、「パロの前に立たせた」という言い回しは、「僕として前に立つ」というニュアンスもあります。王であるパロの前に立つということは、王様の前で謙って僕の姿勢をとることです。そこで、今朝の説教題、つまり、僕であるヤコブが王様を祝福する、ということになります。僕が王を祝福するとは、実は大変に不思議な出来事なのです。今朝は、そのことについてお話したいと思いまして、最初から難しい話をしてしまいました。メッセージの、結論を先に言いますと、私たちも、王様をさえ祝福することができる存在なんだ、ということです。

いつものように、三つに分けてお話しを進めてまいります。第一に「祝福の使命」、第二に「祝福の妨げ」、そして最後に「神による祝福」という順序でメッセージを取り次がせていただきます。

ところで礼拝の最後には祝祷、祝福の祈りがあります。牧師が何だか古めかしい言葉で祈ります。言葉やスタイルは牧師によって違い、私は片手をあげますが、両手を上げる先生もおられます。教会で育った子どもたちは、一度は礼拝ごっこをして、牧師が祝祷する真似をする。でも良く考えますと、あの時は目を閉じているハズなのに、どうして手を挙げることが分かるのか。不思議ですね。まあ、子どもはまだ良く分からないから。でも大人は分かっているかと言いますと、祝祷というのは礼拝の終わりの合図と思われているかもしれませんが、祝福は単なる挨拶や合図ではなく、私たちにとって大切な意味を持ったことなのです。

1.祝福の使命

さて、ヨセフに招かれて、ヤコブ一家はエジプトへと旅をして来ました。それが46章です。エジプトに到着して、彼らは王であるパロ、世界史では「ファラオ」と呼ばれている、称号です。固有名詞ではありません。一家はパロからエジプトに住む許可を得る必要があります。そこで47章の最初で、まず兄たちがパロに挨拶をして、「ゴシェン」という土地に住むことになります。これは具体的な交渉です。ASEANかAPECの前の事務次官による交渉です。それが終わって、最後に一家の代表であるヤコブがパロに挨拶をしに来ました。それが7節です。

それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、パロの前に立たせた。ヤコブはパロにあいさつした。

ヤコブがパロの前に立った理由は、まず飢饉から避難するため、その許可を得るためです。また、ヤコブの息子ヨセフは、エジプトの国を大飢饉から救った功労者ですから、パロはヨセフの家族を歓迎した、ということでもあります。しかし、それは外面的なことです。聖書を、創世記を良く読みますと、ヤコブはパロの前に来て、挨拶、すなわち祝福の言葉を述べる必然性があったのです。

なぜヤコブがエジプトに来たか。それはヨセフがいたから。ではなぜヨセフはエジプトに来たか。ヨセフ自身は「神が私をエジプトに遣わした」と語っています。ですから、ヤコブがエジプトに来たもの神の計画であり、神がヤコブをパロの前に遣わした。それは祝福するためです。創世記12章から始まったアブラハム一族の歴史のまとめが47章から50章です。アブラハムはメソポタミヤのハランで神様から声を掛けられました。そのとき神様は「あなたを祝福する」と約束され、彼の子孫を通して全世界の人々が祝福されるとおっしゃいました。それが文字通り実現するのは、アブラハムの子孫であるイエス・キリストによります。創世記からはずっとずっと後の新約聖書のことです。ではアブラハムへの約束は千年以上も待たなければならないのか。著者はヤコブが、当時もっとも大きな国であったエジプトの王を祝福することで、世界の全ての民が祝福されるという約束が成就し始めたことを示しているのです。ですからヤコブは、ここで、単なる挨拶以上に、パロを祝福するべきだった。それはヤコブ一族の使命だったのです。

ヤコブは神様から特別な祝福をいただいていました。それは、ヤコブを通して他の人々に祝福を及ぼすためです。同じ使命を私たちも受けています。神様は私たちをイエス様の十字架により救い、永遠の命という祝福を与えてくださいました。それは私たちだけでなく、私たちを通して周囲の方々に祝福を伝えるためです。ですから、ヨセフのように、私たちも遣わされているのです。私たちが今、置かれている場所、家庭でも職場でも、学校でも地域でも、私たちがそこにいるのは、祝福のためです。イエス様は私たちは「地の塩、世の光」だと言われた。それは私たちが置かれた場所にあって、祝福の存在なのだということです。周囲の人の祝福のために祈る、それが私たちの使命なのです。

ところが喜んで祝福したい人もいますが、あまり祝福したくない人がいたら、どうでしょうか。

2.祝福の妨げ

さて、最初の話しに戻りますが、7節の最後は、挨拶か、祝福か。辞書によれば「跪く、祝福する、誉め讃える、挨拶する」などの訳語が可能です。良く使われるのが「祝福する」ですが、祝福とは目上の者が目下のものに対してすることです。神様が人に対しては「祝福する」。しかし、人間が神様に対してするときは、神様を祝福するというのは畏れ多いので、「誉め称える」と訳します。では人間同士ならどうか。相手はエジプトでは神のように崇められているパロです。ですから、本来はパロがヤコブを祝福するのであって、ヤコブは王を祝福できる地位ではありません。ヤコブも一族の「長」ですが、大国の支配者の前ではみすぼらしい僕のような存在にすぎません。だから、新改訳は「祝福した」ではなく「挨拶した」と訳したのです。立場の問題だけではありません。ヤコブ自身も、自分がパロを祝福できるとは思えないようでした。8節で、パロがヤコブに年齢を尋ねています。エジプトも、長老を尊敬する文化でした。そこで大変に高齢に見えるヤコブに、年齢を尋ねた。9節。

ヤコブはパロに答えた。「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、不幸せで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」

130歳は、当時でも大変な長寿です。旧約聖書の時代には、長生きは祝福のしるしと考えられ、また子どもが多いことも祝福だと言われました。ですから、ヤコブは長寿と子沢山という祝福を受けていたはずです。それなのにヤコブは「自分は不幸せだ」と言うのです。確かにアブラハムは175歳、ヤコブの父イサクは180歳まで生きましたから、それよりは短い。でも普通の人に比べたら圧倒的に長い。それでも自分は不幸せだというのは、せっかく祝福してくださった神様への不信仰です。祝福の言葉を述べておきながら、私は不幸です、と言ったら、せっかくの祝福の言葉が台無しです。これでは祝福する使命は果たせません。

私たちが、自分の状況を見るときに、とても祝福出来ないことがあります。相手の人と比較するなら、自分より相手の方が幸福だ、私の方が不幸だ、と思うなら相手を祝福することが難しくなります。祝福して欲しいのは自分のほうだ。なぜ、あの人をこれ以上、祝福する必要があるのか。そこには妬みもあるかもしれません。また、自分の心が祝福できない状況かもしれません。ヤコブのように悲しみや苦労の連続、自分の苦しみや悩みで一杯で、人を祝福する余裕なんか無い。周囲の状況や自分の姿を見ているなら、祝福の使命を果たすことは難しい。自分や周囲ではなく、私を遣わされた神様を見上げるとき、祝福が生まれるのです。

3.神による祝福

ヤコブがパロの前に出たとき、彼は一人ではありませんでした。神様が共におられました。神様はヤコブに「私がいっしょにエジプトに行く」と約束されました。この「共におられる神」は、祝福の源泉です。そのお方が一緒におられるので、ヤコブはパロを祝福できたのです。祝福するのは人間の力ではなく、神様が彼を通して祝福をされるのです。英語で「ゴッドブレスユー」、あるいは「ブレスユー」という言い回しがあります。挨拶や決まり文句のように使われますが、神様が共にいてくださるときに、挨拶の言葉であっても祝福の言葉となるのです。この祝福の神様はヤコブの神です。旧約聖書の中で「イスラエルの神」と呼ぶべきところで「ヤコブの神」と書かれていることがあります。イスラエルは神の栄光を示す名前です。でも、人間は神の栄光を現すどころか、罪だらけの存在です。それがヤコブです。このヤコブのような者とも一緒にいてくださり、祝福し、祝福のために用いてくださるのです。このヤコブの神、罪人をも愛してくださるお方が私たちと一緒にいてくださるのです。

私たちにとって、祝福はこの神様から出ています。私の力によって祝福するのではありません。祝福の源泉は十字架のイエス様です。インマヌエルと呼ばれたお方です。インマヌエルとは「神我らと共におられる」という意味です。私たちを罪から救ってくださるお方です。ですから、どれほど私たちが罪人であっても、私たちの中には祝福できる理由が無くても、このお方が私たちの心の中心にいてくださるとき、祝福は尽きることが無いのです。

他者を祝福したくない心は、自分だけの祝福を求める、自己中心となります。自分が中心なら、神様を心の中心から追い出してしまいます。自分の祝福だけを願う、その自己中心の罪があるとき、いくら神様から祝福をいただいていても、満足できずに、貪欲な生き方になります。この罪から私たちを救ってくださるのも、イエス様の十字架です。祝福をしたくない、という自己中心を赦していただき、他の人の祝福を祈る使命に生きるとき、神様は祝福する者をさらに祝福してくださるのです。

まとめ.

今朝は聖餐式を行います。聖餐式はイエス様の十字架が私の罪のためだという信仰をもって受けるとき、主が私たちの内にいて下さり、内側から祝福のもといとならせてくださいます。また、祝祷は、三位一体の神様からの祝福です。永遠にまで続く祝福です。この祝福は、自分だけが良いものを受け取るためではなく、祝福を受けて出ていき、周囲の人の祝福のために祈る存在として派遣されるためです。この一週間、周りの人のために、祝福を祈り、悩んでいる人のために取りなしをし、この救い主、共にいて下さる神様を証しするものとならせていただきましょう。自分の力ではありません。主が共に行ってくださるのです。

 

(c)千代崎備道

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