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礼拝説教「分からないけど恐れない」創世記46章1〜4節(46章)
 

序.

私がまだ大学生のころ、毎年、夏になりますと伊豆大島にある、ホーリネス教団のキャンプ場に行きました。大学生向けのキャンプに参加したり、中高生向けのキャンプで、ワーカーとして奉仕するためでした。ある時、一日の仕事が終わってから、キャンプ場の先生が、ワーカーたちをドライブに連れて行ってくれたことがあります。大島全体が火山になっていて、島の中心の山は、お皿のように真ん中がくぼんでいます。当時は、裏砂漠と呼んでいた場所です。そこについて、車から仲間たちを降りて、数メートル離れたところで、先生が自動車のライトを消しました。その夜は曇っていて、月も星も出ていません。山の陰になっているので、町の灯りも見えなければ、街灯なんて一つもありません。あるのは岩と砂だけです。生まれて初めて、本当の真っ暗闇を体験しました。足下も何も、まったく見えません。怖くて足を出すことも出来ません。一歩先に、石があるのか穴ぼこがあるのか、何も分からない、という恐れです。立っていられなくなって、直ぐにしゃがみ込んでしまい、四つんばいで、手で地面を触りながらじゃないと動けませんでした。

私たちの人生におきましても、一歩先が見えない、何があるのか分からない、という状況は、人を不安にさせます。時には恐れることもあります。人生は、まさに明日どうなるか、誰にも分からない。何かが起きたとき、どうしたら良いだろう。せめてお金があったら、どうにかなるのではないか。そう考えて、私たちは保険をかけたりします。少しでも安心感を得たいからです。見えないこと、分からないことを、人間は恐れる存在なのです。今朝は、これからのことに恐れを抱いたヤコブという人の姿を通して、例え、何も分からない状況でも、恐れる必要がない、それが信仰である、ということを学んでみたいと思います。

いつものように、お話しを三つのポイントに分けてまいります。第一に「神の計画」、第二に「突然の恐れ」、そして第三に「神への信頼」です。

1.神の計画(45:25〜28)

先ほど、46章の最初の部分を読んでいただきましたが、少し戻って、45章の終わりのほうを見ていただきたいと思います。45章では、ヨセフがついに自分のことを兄たちに打ち明けた。兄たちは、いなくなったヨセフと二十年ぶりに再会しました。45章の25節から。

25 彼らはこうしてエジプトから上って、カナンの地に入り、彼らの父ヤコブのもとへ行った。

26 彼らは父に告げて言った。「ヨセフはまだ生きています。しかもエジプト全土を支配しているのは彼です。」しかし父はぼんやりしていた。彼らを信じることができなかったからである。

27 彼らはヨセフが話したことを残らず話して聞かせ、彼はヨセフが自分を乗せるために送ってくれた車を見た。すると彼らの父ヤコブは元気づいた。

28 イスラエルは言った。「それで十分だ。私の子ヨセフがまだ生きているとは。私は死なないうちに彼に会いに行こう。」

兄たちの報告を聞いたとき、父ヤコブ、別名をイスラエルといいますが、彼は、信じがたかった。死んだと思っていたヨセフが生きていた。しかも、エジプトの支配者となっている。あまりにもあり得ない話です。驚きのあまり呆然としているヤコブに、兄たちは詳しいことを説明し始めました。これまで聞いていた経緯の理由が分かり、ヤコブは納得出来たのでしょう。またヨセフがヤコブのためにと、持たせた車、と言ってもリヤカーに毛が生えたようなものです。でも、エジプトの立派な車を見て、それがエジプトの総理大臣からの贈り物として相応しいものだったでしょう。ようやくヤコブは信じることができました。様子が良く理解できたことと、車という証拠を見たからです。分かったときに、父は元気づきました。というのは、それまではヨセフを失った悲しみの中に生きていたヤコブが、今度は、もう一度会える喜びと希望を持つようになったからです。

ヨセフの生涯は、神様のご計画が人間の考えをはるかに超えるものであることを見事に描いております。私たちの人生にも、ヨセフとは違いますから総理大臣になるかは分かりませんが、神様は私たちのためにもご計画を持っておられます。しかし、人間には将来は分からない。だから恐れたり不安になったりします。しかし、神様の言葉を聞いて、神様の御心を知ったとき、全てのことが理解できるわけではありませんが、少なくとも、不安を憶える毎日ではなく、将来への希望を持つ人生となっていきます。時には、神様は思ってもいなかった恵みを与えてくださることもあります。将来が分からないから不安、ではなくて、分からないことを神様がしてくださる、それが楽しみになってきます。

池の上教会に遣わされて来て以来、いろいろと面白いことがありました。もちろん、慣れないところでの新しい働きには苦労がないわけではないのですが、楽しいこともあります。去年も、三木兄が私たち一家の歓迎会を開いてくださり、素晴らしい演奏を目の前で聴くことができました。また、思いも掛けず、去年はシカゴに行くことができました。何十年ぶりの友人に会ったり、美味しい食事をいただいたり。苦労もあるけど喜びもある。それが神様に導かれる生活です。全てが自分の計画通り、という人生なら、不安は無いかもしれませんが、嬉しい驚きも無い。分からないことは会っても、分からないからこそ、それがサプライズであり、嬉しいことになる。神様のご計画の中に生かされるというのは、本当に素晴らしい日々なのではなでしょうか。

ただ、人間には、神様のお考えの全てを理解することは出来ませんから、時には不安を覚えるときが、どうしてもおこって来ます。

2.突然の恐れ

さて、46章に戻りまして、ヤコブはエジプトに向かって出発します。その道中、彼の夢か幻の中で、神様が語られました。3節の中で、神様はヤコブに「恐れるな」と語っておられます。聖書の中で神様が人間に「恐れるな」と言われるときは、人間の心の中に恐れがあるときです。ヤコブにはどんな恐れがあったのでしょうか。ここではエジプトに行くことの恐れがあったと書かれています。ヨセフに再開できる喜びがあったはずなのに、なぜ、ヤコブはエジプト行きを恐れたのでしょうか。1節。

イスラエルは、彼に属するすべてのものといっしょに出発し、ベエル・シェバに来たとき、父イサクの神にいけにえをささげた。

ここに彼の恐れの、ヒントが隠されています。それは、ベエル・シェバという地名です。カナン地方の南端です。ここからはエジプトまで、ずっと荒野が続きます。これからの旅路が困難に満ちていることを感じさせるような、殺伐とした光景です。それが不安を呼び起こしたのかもしれません。ベエル・シェバという場所は、ヤコブの一族にとっても因縁の場所でした。祖父アブラハムは、井戸に関することでこの地方の住民との間に争いが起こったことがありました。ヤコブの父イサクも、同じような嫌がらせを受けたことがあります。寄留者として生きるとき、周囲の民からイヤな目に遭わされることは少なくありません。エジプトに行くということは、エジプトの人々からどのような扱いをうけるだろうか。ベエル・シェバの過去の出来事は、そのような心配を思い出させます。そして、エジプトという場所自身も、アブラハム一族の、いわば「鬼門」です。アブラハムはエジプトで、妻を妹だと偽って失敗しました。イサクに対しては、エジプトに行ってはならない、と神様の戒めがありました。そのエジプトに、自分の一家が行くことは、はたして神様の御心だろうか。神様はアブラハム一族に、将来、カナンの地を与えると約束されたはずです。その土地から離れて良いのだろうか。神様の御心に逆らうことになるのではないか。それが心配で、ヤコブは生け贄を捧げて神様を礼拝したのです。

私たちが将来に対して不安を覚えるのは、様々な理由があります。過去の失敗や苦労と言った、悪い思い出が、心に蘇って来ることがあります。そうすると、また同じ失敗をするのでないか、と恐れます。「羮に懲りてなますを吹く」ということわざがありますが、過去の記憶が不安を引き起こすことがあります。ヤコブの場合は、ベエル・シェバという場所が、そうでした。第二に、今、見えていることが将来の不安を予想させることがあります。新しい職場や学校に行ったとき、さあ、これからどんなことをしようかという期待がありますが、段々と様子が分かってくると、期待した通りには簡単には行かないことが分かってきます。分かるために、少し先にある苦労を予想してしまうのです。分かるが故の不安です。第三に、分からないことも不安です。将来のことは誰にも分かりません。不安であることに気が付きますと、ますます恐れるようになります。十二弟子のペテロが船に乗っていたとき、夜中にイエス様が湖の上を歩いて近づいてくるのを見て、恐れました。何者なのか、幽霊なのか、という、分からない故の恐れです。イエス様だと分かって安心し、お調子者のペテロは、自分も水の上を歩きたいと願いました。ところが歩き始めたら、波を見て恐れ、沈みそうになってしまいます。見えるものが不安を引き起こしたのです。

誰でも不安はあります。しかし、それを見ないようにしたり、自分の力でどうにか出来ると考える。ところが、自分ではどうすることも出来ない部分が見えてしまうとき、また、実は一歩先も見えないということに気が付いたとき、そこに恐れが生じます。

3.神への信頼

恐れを抱いていたヤコブに、神様は励ましと約束の言葉をお与えになりました。3節の終わりから4節で神様は、いくつかのことを語っておられます。3節で、「あなたを大いなる国民にする」と約束されています。これが実現するためには長い時間が必要です。事実、エジプトでイスラエルが一つの民族となるのに三、四百年を要しました。それでも神様の助けがなかったら不可能なほどの増え方です。しかし、ヤコブが生きている内には、それを見ることは出来ません。神様の、この第一の約束は、ヤコブが生きている内には帰れないことを暗示しています。また、順番は逆になりますが、最後の約束、「ヨセフの手はあなたの目を閉じる」という表現は、ヨセフやヤコブの最後を看取る、という意味です。これもヤコブの死を暗示します。神様の言葉は、聞く者の態度如何では違った解釈が出てきます。もし、ここでヤコブが不信仰でしたら、生きて帰れないという面だけを強調して、エジプトに行くことを止めたかもしれません。しかし、神様の意図は、「大いなる国民とする」という祝福であり、それはアブラハムに約束されたことがいよいよ実現することでもあります。その祝福に目を留めるなら、この御言葉は素晴らしい約束でもあります。ヨセフがヤコブの最後を看取る、というのも、もう死ぬまでヨセフと別れることは無い、ということでもあります。

不安が残らないわけではない。しかし、神様は力強くヤコブに約束されます。4節。

わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。

神様が一緒に行ってくださるのです。そして、「わたし自身」と二回も強調表現を用いて、必ず導き上る、と約束されました。もちろん、これもヤコブの生きているうちではありません。しかし、個人としてのヤコブではなく、民族としてのイスラエルが、必ずエジプトから救い出されることの約束なのです。この、「一緒に行き、必ず連れ帰る」という約束は、ヤコブにあることを思い出させました。それは、かつて、ヤコブが父イサクの家を逃げ出したとき、途中のベテルで、神様が夢に現れて言われたことです。その時も、神様はヤコブに「一緒に行くこと、かならず連れ帰ること」を堅く約束され、そして、それは確かに実現したのです。同じような言葉を用いることで、神様はヤコブに昔の信仰を取り戻させてくださったのです。あのとき、ヤコブの旅路を守り、祝福して帰らせてくださった神様を信頼しよう、そうヤコブは思わされたことでしょう。

励ましをいただき、ヤコブは恐れずにエジプトに、向かいました。彼は一族郎党、家財道具、一切を持ってエジプトへと行きました。その一緒に行った家族のリストが8節から始まります。カタカナが続きます、知らない名前がたくさんあります。そう言う場合は、読んだつもりでさっと飛ばす。聖書通読の必殺技です。飛ばしまして、27節。

エジプトでヨセフに生まれた子らはふたりで、エジプトに行ったヤコブの家族はみなで七十人であった。

先にエジプトに行き、そこで生まれたヨセフの息子たちも含めると、七十人であった、と書かれています。実は、この数字には問題がありまして。そう聞いて、数え始めないでください。細かいことのお好きな方は、お帰りになってからお調べ下さい。問題は、この時の旅行の時にはまだ生まれていないと思われる孫の名前も挙げられている、ということです。反対に、男子の名前が多くて女子の名前が極端に少ないのは、多くの娘、孫娘たちは数に入っていない可能性もあるということです。また、直接の家族以外にも、多くの召使いがいたはずです。ですから、ここの七十人というのは、正確な人数の報告というよりも、重要な意味を持った数字だということです。70とは、聖書の中では、完全数と呼ばれる7と、やはり一つのまとまりを意味する10を掛け合わせたものです。完全、かつ沢山、それが70の意味することです。イスラエルの子孫は、エジプトに下るときに、すでに大きな家族となっていた。それがさらに祝福されて大きな民族になっていくのです。神様の祝福の約束は、すでに実現し始めていた。それが、ここで70名の名前を挙げた理由です。ここに、神様の約束は、遠い未来の、自分には関係ないことなのではなく、ヤコブ自身がすでに味わっている恵みが、さらに増し加えられていく。そこにヤコブの信仰があり、創世記を書いた著者の信仰があります。彼らは神様の御言葉を信じてエジプトに行き、神様の御言葉に従って、エジプトから出てくるのです。

神様を信じ、御言葉を信頼するとき、私たちの考え方が変わり、行動が変わります。その時、神様の御心が実現して行きます。それは、人間の予想を超えた、もっと素晴らしい世界なのです。300名礼拝というのは、今すぐには夢のようです。しかし、その幻が、神様の御言葉を信じ、神様に従っていくとき、人数ではなく、私たちの理解を超えたことを神様はなさることがお出来になるのです。私の人生、私たちの家族、そして、私たちの教会。そこに神様を信頼し、幻を抱きつつ、忠実に歩むなら、神様が良い実を結ばせてくださるのです。

まとめ.

さて、ある方がこのように説明しておられました。46章の3、4節で神様がヤコブに語りかけておられます。実は、これが創世記の中では、神様の最後のお言葉なのです。そして、次に神様が人間に語りかけられるのは、モーセが燃える柴のところで神様からの召しをいただいたときです。その間、確かにイスラエルは民族として成長しましたが、同時に奴隷となって苦しめられます。もう、この民族はダメかと諦めそうになりますが、彼らは、このときの約束の言葉を信じ続けたのです。そのとき、神様は、モーセに語りかけて、出エジプトの救いが始まります。御言葉を信じるとは、すぐに物事が解決したり、全てが問題無く順調にいくことでもありません。困難の中でも御言葉だから信じて従うとき、人間の力ではなく、約束された神様が働いてくださるのです。

目を周りに向けるなら、いくらでも心配の種、不安の材料があります。個人も、高齢化、健康、仕事、就職、子育て、様々な悩みがそこから生まれてくるかもしれません。しかし、共にいてくださる主を信頼するなら、恐れる必要はまったくありません。神様を見上げ、御言葉を信じ、主に従い、主に仕える者となりましょう。

恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。

わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。

 

(c)千代崎備道

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