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礼拝説教「私を遣わしたのは神」創世記45章4〜8節(45章)
 

序.

目的の無い人生は空しいものです。昔聞いた話ですが、ある国で捕虜への拷問がされたのですが、その方法が、石か砂の山を作って、彼らにこちらからそちらに移させます。それが終わったら、今度はそちらからこちらにまた移させる。せっかく苦労して移した石の山を、もとの場所に移す。それを何回もするのだそうです。意味があれば苦労も出来ますが、明らかに無意味な労働を続けさせると、囚人たちは気がおかしくなってしまいます。人間は無意味な、無目的な人生には耐えられない者なのです。

何のために自分は生きているのだろう。若いときは、そのような悩みを持つことがあります。大人になると、その疑問を忘れて無我夢中で働くのですが、やがて働きが終わったとき、また何のための人生かを考えることがあります。もし、人生には意味も目的も無いのなら、何のために苦労をするのでしょうか。私たちが考える目的は、目の前のことです。受験をする人は、目指す学校に合格するために努力します。では願いが叶って合格したら、目的が無くなるのか。そこで次の学校を目指し、その次は、良い会社を目指し、次は昇進を願い、良い家庭を求め、子どもの成長を願い。しかし、いつも一つの目的が達成されると、新しい目的を探さなければなりません。もし、それが間違っていたら、大変です。目に見える目的は、必ずしも本当の目的ではありません。私たちにはもっと大きな目的があります。それは、神様が計画された道を歩むことです。具体的には天国に向かって、キリストの姿を目指して歩む信仰生活です。それが分かったとき、成功も失敗も、全てのことが無意味ではない事を知ります。本当の目的を知るのです。

今朝は、ヨセフの生涯が何の目的のためであったのかを考え、私たちの人生の目的にまで目を向けてまいりたいと思います。いつものように、お話しを三つのポイントに分けて進めてまいります。第一に「遣わされたヨセフ」、第二に「遣わされた救い主」、そして最後に「遣わされた私たち」、です。

1.遣わされたヨセフ

さて、今朝は創世記45章、素性を隠していたヨセフが、ついに兄弟たちに真実を告げたところです。あまりのことに驚いて何も言えない兄たちに、ヨセフが言った言葉が、先ほど読んでいただきました、4節からです。

4 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。

5 今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。

そして8節。

8 だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。

ここでヨセフは何度も、神が自分をエジプトに遣わしたのだと語っています。すでに気が付いてきていたことでしょうが、ここではっきりと告白しているのです。ヨセフがエジプトに来たのは、ヤコブ一家の命を救い、エジプトと周辺の人々を飢饉から救うためだったことを、ヨセフは知ったのです。だから、連れてこられたとか売られたからではなく、神様が自分を遣わしたのだと、ヨセフは悟ったのです。これまでの全ての苦労は、決して無目的ではありませんでした。奴隷として主人に仕え、主人の家を管理したことが、パロのもとで国全体を管理する働きにつながっていました。牢屋に入れられたことで、苦しみ悩む人々の姿を見て、多くの人を救う働きをするようになりました。全てが、この救いのためだったのです。

誰かの所為であるとか、運命であるといった考え方ではなく、神様のご目的があることを信じることは、考え方が方向転換することです。それまではヨセフは心の奥底で、自分を売り渡した兄たちを憎んでいたでしょう。その憎しみや、裏切られたことの痛み、父から離れた悲しみ、そういった苦しみから、ヨセフは解放されたのです。神様が全てを益としてくださる、その大きな計画を理解したときに、ヨセフにも救いが来たのでした。5節で、「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません」と言っているのは、他でもない、自分自身のことなのです。兄たちではなく、ヨセフの心が救われたのです。神様は、ヤコブ一家のためだけでなく、ヨセフの救いのためにも、彼をエジプトに遣わしたのでした。これが神様の計画でした。

しかし、ヨセフが知り得たことは、実は神様のご計画の一部分に過ぎませんでした。さらに大きな計画が立てられていたことを、次に見て参ります。

2.遣わされた救い主

この後、ヨセフは兄たちに、父ヤコブや家族全員を連れてくるように命じます。買い出しに往復するのではなく、家族ごとヨセフが引き取って、面倒を見てくれる、ということです。エジプトの権力者の保護下に入るなら、何の心配もいりません。このようにして、ヤコブ、すなわちイスラエルの子孫はエジプトに移住することになりました。ここに神様の大きな計画があったのです。

これまでのように、カナンの地に留まるなら、やがて先住民族と交わり、同化してしまいます。異教の習慣に染まり、本当の信仰を失ってしまう恐れがあります。そこで神様はエジプトに移住させた。エジプト人とは習慣が大きく異なります。家畜を飼う職業のため、イスラエル一族は隔離されて生活します。ですから、自分たちのアイデンティティーを失うことなく、段々と人数が増え、やがて一家から一族、そして一つの民族にまで成長するのです。

その後の事は、創世記の次の出エジプト記のことですが、やがてイスラエル民族はモーセに率いられてエジプトから脱出します。そのときの重要な出来事が「過ぎ越し」という事件です。この過ぎ越しにより、イスラエルは救われ、そのことは、旧約聖書の時代から新約聖書の時代にいたるまで、全ての救いの働きの土台となります。そして、この過ぎ越しを記念する祭りに時に、今度は十字架による救いが成就して行きます。この全ては、ヤコブ一家の移住により始まり、それはヨセフが先に遣わされたところから始まっていたのです。ヨセフには、そこまでの理解はありませんでしたが、神様はキリストによる救いまで計画して、ヨセフの生涯を導かれたのでした。

ヨセフの苦労は家族の救いのためでした。それと同じように、イエス様の十字架は私たちの罪の赦しによる救いのためです。それだけではありません。イエス様の生涯は、それにより神様の愛を示すためでした。また、イエス様の死と復活は、私たちを死の恐怖から救うためです。永遠の命を与えるための死です。イエス様の全生涯、その全ては私たちの救いのためだったのです。神様は、ヤコブのためにヨセフをエジプトに遣わされたように、私たちの救いのためにキリストをこの世に遣わされ、旧約時代からずっと、全てのことを準備してくださったのです。

3.遣わされた私たち

さて、このようなご計画を持って全てのことを導かれる神様が、私たちの生涯に関しては、何のお考えも無いなんてことがあるでしょうか。最後に、私たちに対する神様の目的ということを考えてまいります。そのために、私たちのために遣わされてくださったイエス様のことをもう少し考えてみます。

イエス様の目的は、十字架による救いを成就するためです。だったら、十字架の直前にこの世に来られたら、時間の無駄が無い、のでしょうか。ヨセフがヤコブ一家を救うために遣わされたのは、飢饉が来てからではなく、その20年以上も前です。しかし、それは時間の無駄などではなく、大切な準備期間でした。キリストが地上での生涯を歩まれたことは、一人の人間として人生の悲哀を経験し、私たちの悩み苦しみを一緒に味わうためです。特に、最後の三年間、イエス様の働きは大切なものでした。それは弟子の訓練と、宣教の働きです。弟子を教え、伝道実習に遣わすことで訓練し、後に彼らが教会を指導し、世界中に福音を伝える準備をされたのです。また、ユダヤの各地に福音を伝えたのは、やはりペンテコステの後で、ユダヤとサマリヤの全土に救いが伝えられるための、種まきでした。キリストの三年間は、後の教会と宣教の働きのためだったのです。そして、これが神様のご計画のモデルなのです。

私たちが先に救われたのは、私たちのため以上に、後の人々のためでもあります。私だけが救われたら良い、というのではなく、私の周囲にいる人たちのためにも、私を救ってくださったのです。また、この宣教の働きは私一人では担えるはずがありません。救いを広めるためには教会が必要です。神様は教会を立て上げ、成長させ、さらに多くの人に救いを伝えるためにも、私たちを救われたのです。

私たちは時々、自分のことだけを考えてしまうことがありますが、神様は私のことも良く考えてくださり、同時に他の人のことも考えてくださる、大きなお方です。ですから、私が救っていただいたのは、先に遣わされたのでもあります。では、私たちはどこに遣わされているのでしょうか。私にとってのエジプトは何でしょうか。

まず神様は私たちを教会に遣わされています。最初は自分で選んで、この教会に来た、と誰もが考えます。しかし、後から段々と分かって来るのは、神様がここに私たちを導かれた、ということです。この教会で救われ、あるいは成長するためです。沢山の恵みをいただき、養われ、兄弟姉妹との交わりを楽しみ、その全てが私の救いと成長につながります。また、同時に、私が愛をもって他の方に接することで、この教会に来られる他の方々にとっても益となるのです。

第二に、神様は私たちを、奉仕の場へと遣わされます。一人一人の賜物があり、働きも違いがあります。その多用な奉仕によって教会は成長します。だれもがキリストの体の中で大切な存在であり、かならず何かのお役に立てる、それが教会の素晴らしさでもあります。神様が私たちを奉仕の場所に遣わすのは、扱き使うためではなく、それによって私も訓練されて成長し、また仲間との交わりを経験し、他の方の信仰にも役立つため、そして教会全体が立て上げられていくためです。

第三に、それぞれが家庭や共同体に遣わされています。教会が家庭に押し掛けることはなかなか難しいことであっても、お一人お一人は、それぞれの家庭に救いを伝える使者となることが出来ます。家族への伝道は一番難しいのですが、だからこそ祈りの訓練がなされ、信仰が強められます。また家族が救われてクリスチャンホームとなるときに、信仰は守られ、次の世代に引き継がれていきます。

第四に、職場や学校にも遣わされています。場所によっては直接に福音を伝えることは出来ないかもしれません。しかし、言葉ではなく生き方を通してキリストが伝えられるとき、もっとも効果的に伝道が進められます。初代教会は、特に迫害の時期には、伝道集会などすることは出来ません。言葉で証しすることも難しかった。しかし、彼らの信仰は生き方を変え、それを見た周囲の人々は、何も言わないでも、やがて彼らのところに集まってきたのです。時間は掛かります。しかし、どこに遣わされても、そこで神様を信頼し、忠実な生き方をするなら、やがて実を結んでいくのです。

イエス様が弟子たちを遣わされたとき、「私も共にいる」と約束なさいました。ヨセフと一緒に神様がおられたように、また弟子たちと共にイエス様がいてくださったように、今も、私たちが遣わされていくところに主が共にいてくださいます。そして、私たちを助け、様々な経験を通して信仰を成長させ、救いの完成を目指して進ませてくださるのです。実は、私たちが遣わされているのは、他の人たちのため以上に、私自身のためでもあるのです。お遣わしになる神様の言葉に従って出ていくなら、神様は見捨てるはずがありません。遣わされるとき、かならず私たちのために働いてくださり、私たちの成長のために全てのことを益としてくださるのです。

まとめ.

神様のご計画は、私たちを救うだけでなく、遣わされることです。どこの場所にいても、教会で奉仕するときも、世の中で働くときも、家庭にあっても、友人たちと一緒にいても、私は神様から遣わされているんだ、という自覚を持ち、そのことを自分のこととして受け止め、認め、神様の前に告白するなら、神様はますます豊かに臨んでくださいます。神様に遣わされるなんてイヤだ、私は私のために勝手に生きるんだ。そのような生き方は、やがて何のために生きているのか分からなくなるのです。無意味な人生となってしまいます。欲望に従うなら、罪に仕えることになり、それは滅びに向かう人生です。しかし、神様に遣わされていることを信じるとき、全てのことが変わります。考え方が変わるからです。それまで苦労だと思っていたことが無意味ではなくなります。人の所為にして恨むのではなく、神様に感謝し、人を愛する者に変えられます。神様がご計画を立てて、私を、この人生に遣わされ、この場所に遣わされた。そのことを信じて、主に仕え、主に従う人生を歩もうではありませんか。

 

(c)千代崎備道

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