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礼拝説教「融かされた心」創世記44章33〜45章3節(43〜44章)
 

序.

創世記を読んでいますと、その素晴らしさに驚くことがしばしばあります。もちろん、聖書は、どの書も素晴らしい内容なのですが、特に創世記は、聖書全体の重要なメッセージが濃縮されている書物です。神様について、世界について、人間とその罪について、そして救いについて。様々なテーマが、おぼろげではありますが、創世記の中に取り上げられています。また、そこに出てくる人間たちが、生き生きと描かれ、現代人の私たちと変わらない人々であることも感じます。読めば読むほど、創世記の面白さに目が開かれる思いです。

その創世記の中で、ヨセフという人は、新約聖書のイエス様に匹敵する、救い主の役割を果たしています。子どもの頃を除けば、人間的にも素晴らしい人物なのですが、今日の箇所、今朝は43章の後半から45章の最初までを扱いますが、この44章あたりでのヨセフは、何か、混乱した、まるで悩んでいるかのような振る舞いをしております。世界を救った人といえども、彼も人間です。時には救いを必要とすることがあったのです。今日は、ヨセフがどのように苦しみから救われていったかを、皆さんと一緒に見て参りたいと思います。いつものように、三つのポイントに分けてお話しを進めてまいります。第一に、「混乱する心」、第二に、「頑なな心」、そして第三に、「救いの言葉」という順序でお話しいたします。

1.混乱する心

さて、43章から44章にかけての出来事をかいつまんでお話しします。ヤコブの息子たちは、末の弟ベニヤミンを連れて、エジプトのヨセフのもとに行きました。もちろん、まだ、エジプトの総理大臣が自分たちの弟だとは知りません。ヨセフは家来に命じて、彼らを自宅に招き、共に食事をしました。兄弟たちは手厚いもてなしをうけ、特に一番下のベニヤミンは、なぜか、一番多くのご馳走が与えられました。それは、ヨセフにとって彼は同じ母親から生まれた、一番近い弟であり、最も愛する家族だったからです。食事のあと、すでに兄たちは父から預かった贈り物と、穀物の代金を渡しておりましたので、ヨセフは家来に命じて、兄弟たちの袋に食料を一杯につめさせました。ところが、ここでヨセフは、よく分からないことをします。彼らの食料袋の中に、前回同様、代金である銀を入れ、さらにベニヤミンの袋には、自分の使っている銀の杯を入れさせたのです。何も知らない兄弟たちは、食料をもらうと、父ヤコブのもとへと帰って行きました。ところがヨセフの家来が追いかけてきて、誰かが銀の杯を盗んだ、と言うのです。そんなはずはない、自分たちはそんな悪事をすることはない、もし盗んだりしたら、その者は殺されても仕方がないし、自分たちも奴隷となっても構わない。彼らは、身の潔白を訴えました。ところが、調べてみると、ベニヤミンの袋の中に銀の杯があります。彼らは、すぐにヨセフのもとへと連れ帰されました。明らかに濡れ衣です。ヨセフは何故、彼らを犯罪人に仕立て上げたのでしょうか。

これまで、ヨセフのすることは、良く理解できるものでした。また、彼は正しい心で事を行っていました。兄弟に素性を隠すためについた嘘を除けば、ヨセフの意図はだいたい読んで理解できます。ところが、この44章のヨセフは、なぜ、こんなことをしているのか、分かりません。読む人により様々な想像をすることは出来ますが、誰もが納得できるものではありません。ヨセフは、自分を奴隷として売り飛ばした兄たちを恨んでいたので、こんな意地悪をしたのでしょうか。いいえ、すでに兄たちの心は変わっている、自分たちのしたことを後悔していることを、ヨセフは知っています。また、自分の弟ベニヤミンへの愛でしょうか。確かに、ヨセフは弟を他の兄弟たちよりも愛していた。しかし、ベニヤミンを手元に置いて置きたかったから、こんな小細工をしたとするなら、逆に弟を苦しめることになってしまいます。ヨセフは、自分の兄弟たちを、助けたいのか、苦しめたいのか、まるで二つの思いの間で、行ったり来たりしているかのようです。ヨセフの心は混乱しています。そして、そのヨセフのために兄弟たちも困惑しているのです。彼らこそ、いい迷惑です。何も悪いことはしていないのに、突然に犯罪者にされたのですから。

私たちも、いろいろな複雑な問題のために悩み苦しむことがあります。家族や周囲の人との人間関係、仕事のこと、将来の進路のこと、悩みの種は尽きませんし、どれもが単純なことではなく、様々な要素のために、どうして良いか分からない。そのため、私たちは混乱し、悩むのです。ところが、聖書を通して示されるのは、問題の中心は、他でもない、自分だということです。周囲の人が悪い、状況が良くない、と自分ではなく他者の所為にするなら、一時的に気が紛れますが、決して問題は解決しません。自分自身の心の中にある問題が解決されなければ、混乱は続きます。逆に、心の中が神様の御心に従っていて、まっすぐであるなら、例え自分の周りに問題が山積みになっていても、平安な心でいることが出来ます。結局は自分の心が問題であり、神様との関係が正され、神様からの解決が必要なのです。

この章のヨセフも、彼の言葉や振る舞いが一貫していないのは、彼の心が問題です。そこで、ヨセフの心の中を見てみたいと思います。

2.頑なな心

さて、ヨセフの心を見ると言いましても、はっきりと書かれているのではありません。ヨセフが兄たちに対して自分の素性を隠しているように、創世記の著者は読者に対して、ヨセフの心の動きを見えないようにしているようです。が、小さな事から彼の心がかいま見えます。彼がベニヤミンを近くで見たとき、彼は弟なつかしさに、「胸が熱くなった」と書かれています。ここだけ、彼の心が隠しきれないかのようです。彼は、急いで自分の部屋に入って、一人泣き、顔を洗ってから、再び兄弟たちの前に出てきました。そこに「自分を制して」と書かれています。後で、司会者の方に読んでいただきました、45章の最初では、とうとう自分を制することが出来なくなったと書かれていますが、それまではヨセフはずっと自分を制してきたのです。だから、自分の素性を隠すことができたのです。ヨセフという人は、自分の感情を制することが出来る、心の強い人間でした。これこそ、ヨセフという人を理解する鍵です。

彼は、この心の強さゆえに、奴隷として売られても、自暴自棄にならず、どの場所でも最善の行動を取ることが出来ました。召使いとなったときは、主人に対する忠実さや、仕事に対する熱心さ、真面目さ、といったことの中に、彼の自制心が発揮されています。また、誘惑されても、それに屈しない心の強さ。裏切られ、失望を味わっても、決して自暴自棄にならない。この心の強さが、これまでのヨセフを支えてきました。同時に、彼の心の強さが彼を苦しめていました。兄たちが後悔し、悔い改めているのにかかわらず、彼らを許すことが出来ない。また、なかなか本当のことを告げることが出来ない。自制心が強い故に、彼は自分を苦しめ続けているかのようです。

聖書の中に描かれている人間たちの姿を学び、また現代の人間を見ていても分かりますことは、人間には持って生まれた性格があり、その性格自体は、罪ではない、ということです。しかし、それぞれの性格が罪と結びついた形で発揮されると、様々な問題を起こします。反対に、その性格が信仰と結びついたとき、同じ性格が良い結果を生み出します。

十二弟子の一人、ペテロは、情熱的な、直球型の人間です。だから、イエス様にも意見するような失敗をするのですが、聖霊を受けてからは、命がけでイエス様に従う生き方に変えられました。ヨハネは感情的な人間で、初めは怒りっぽかったのですが、イエス様の愛により変えられ、愛の使徒と呼ばれる人になりました。彼らの性格が変えられたのではなく、それが良い形で発揮されるように変えられたのです。救われて、神様に取り扱っていただいたとき、誰もが造りかえられ、性格や人格が変わってしまうのではなく、その表れ方が正しくなっていくのです。もし、問題があるとするなら、それは自分自身を変えようとしない、頑なさにあります。自分はこのままで良い、そう思うあまり、神様の言葉にも耳を貸そうとしないのです。神様は御言葉を通して、私たちを教え、戒め、正しくされます。また、御言葉の種には命があり、私たちの心を新しくしていきます。ところが、頑なな心は、種を受け入れない固い地面のようです。もし、素直になって御言葉に耳を傾けるなら、人間の力、自分の力ではなく、神様が私たちに触れてくださり、造りかえてくださるのです。神様の言葉の前で、心を開いて、受け入れる。そのような、子どものような素直さこそ、祝福の秘訣です。それが分かっているのですが、なかなか人間は素直になれない。だから難しいのです。

ヨセフもそうでした。彼の強い心が災いして、なかなか真実を告げることが出来ない。それが彼自身を苦しめ、兄弟たちにも迷惑をかけている。この頑なな心から救いだされたのは、ヨセフの力ではなく、神様からの助けでした。ヨセフの時代はまだ聖書の言葉は出来ていませんでしたから、神様は他の方法でヨセフに語りかけたのです。

3.救いの言葉

ヨセフのために神様が用意されたのは、ユダでした。最初のころのユダには様々な問題がありました。しかし、父ヤコブの前で家族を救うために立ち上がったときから、ユダは素晴らしい働きを担うようになりました。なぜ彼が重要であるかは、彼の言葉を見ると分かります。44章の中で、ユダは18節から34節まで、長い演説をしています。聖書の中で長く語るのは、多くの場合、それが重要な言葉だからです。

さて、話を元に戻しまして、銀の杯を盗んだ、と疑われたとき、兄弟たちは、「自分たちは決して盗んだりしない。もし、盗んだのなら、その者は死刑で、自分たちも奴隷となる」、と宣言しました。そしてベニヤミンの袋から杯が見つかった。エジプトの支配者の大事にしているものを盗んだのですから、当時でしたら死刑になってもおかしくありません。そのとき、ユダは弁解をせず、ただ、全員を奴隷にして欲しいと、願いました。するとヨセフは、盗んだ一人だけを奴隷にして、他の者は無罪放免、家に帰って宜しい、と告げます。死刑から、段々とトーンダウンしております。ここにも決してヨセフは兄弟たちを憎んでいるのではないことが分かります。しかし、ベニヤミンを連れて帰らなかったら、ヤコブとの約束を果たせません。そこでユダは、今度は父ではなく総理大臣を説得しようとします。

ユダの語った台詞は、長いので、お帰りになってからお読みください。そこには父ヤコブのことが語られています。ヤコブがどれほど末の息子ベニヤミンを愛しているか、ベニヤミンを失ったらヤコブがどれほど悲しむか。そう語っているユダ自身の、父への愛情も感じられるほどです。この、父ヤコブの愛を語る言葉は、誰よりもヨセフの情に響きました。なぜならヨセフも、自分の愛してくれた父を愛していたからです。自分を失ったとき、父が悲しんだ、その悲しみを理解でき、同じ悲しみを再び父に与えてしまうことを、今、自分はしようとしている。ベニヤミンを手元に置くためかは分かりませんが、弟を帰らせないことが父にどれほどの悲しみを与えるかが分かりました。

ユダは続けました。44章の33節。

44:33 ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。

44:34 あの子が私といっしょでなくて、どうして私は父のところへ帰れましょう。私の父に起こるわざわいを見たくありません。」

ユダは、自分が犠牲になるから弟ベニヤミンを許して欲しい、父の下に帰してあげて欲しい、と願いました。この自己犠牲による救い、自己犠牲の愛が、ヨセフの頑なな心を溶かしたのです。彼は、ついに自分を制することが出来なくなりました。大声で泣き、とうとう自分の素性を兄弟たちに告げたのです。父の愛とユダの自己犠牲の愛、それがヨセフを造りかえたのです。

自分が犠牲になっても構わないから、兄弟を救いたい。この愛こそ、もっとも大いなる愛である、とイエス様は告げています。

人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。(ヨハネ15:13)

ここに、ユダを通して、イエス様の十字架の愛が示されているのです。神の愛、そして、それを示した十字架の犠牲。それが聖書が告げている救いの方法です。なぜ、神様はそんな方法をとられたのでしょうか。十字架なんて残虐な方法でなく、もっと分かりやすいやり方でしたら、キリスト教はもっと一般受けしたでしょう。修行をすれば救われるとか、勉強したら救われる、ということでしたら、日本人は一生懸命にしたでしょう。しかし、神様は十字架を通してご自分の愛を示された。それは、神様が人間を良くご存じだったからです。どれほど努力をしても、自分自身を変えることが出来ない。なぜなら、自分は自分、自分は正しい、という頑なさが私たちにはあるからです。自分の罪、自分の間違いを認めて、悔い改めたら良いことが分かってきても、なお、プライドや面子のため、素直に悔い改めることが出来ないのが私たちではないでしょうか。神様はその人間の頑なさをご存じなので、神の愛を通して語りかけ、十字架の自己犠牲を通して語りかけてくださったのです。聖書を通して、また様々な方の証を通して、神様の愛を知ったとき、誰もが感動を覚えます。十字架を通して、キリストの愛を知ったとき、心が揺れ動かされます。神様は、私たちが悔い改める、きっかけを与えてくださるのです。あとは、その語りかけに耳を傾け、キリストの命がけの愛に素直に応答するとき、神様は私たちの心に触れてくださり、イエス様は私たちの心の中に入ってきてくださるのです。そのとき、私たちの心が変えられ、人生が新しくなるのです。

まとめ.

神様はヨセフを救うため、彼の頑なな心を溶かして、造りかえるために、ユダを遣わしました。ここではヨセフではなくユダが救い主の役割を果たしました。私たちのためには、誰が遣わされたでしょう。もちろん、イエス様が遣わされて十字架について下さったのですが、その十字架の愛を私たちに告げるために、神様は聖霊を遣わし、また聖書を与えて下さったのです。聖書の御言葉を通して聖霊が私たちの心に語りかけてくださいます。これが「聖霊の交わり」です。聖書を読んでいるときに、説教を聞いているときに、これは自分に対して語られている、と感じることがあります。心が感動を覚える時があります。神様は私たちの知性や感情に訴えかけてくださるのです。そのとき、それでも絶対に神の言葉を受け入れないというのではなく、御言葉を通して示される神の愛を、素直に受け止めるなら、いえ、神様が私たちの心をも溶かしてくださるとき、その愛の前に降参するなら、そのとき、私たちの人生も新しくされ、全ての問題の根源である、自分自身の心を取り扱ってくださるのです。この神様の愛、特に十字架の愛を、そのまま受け止めようではありませんか。

 

(c)千代崎備道

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