トップへ

 

礼拝説教「一人も失わないために」創世記43:8〜10(42〜43章)
 

序.

映画やテレビを見ていますと、正義と悪の戦いとなる場合があります。大抵、正義の味方の方が不利です。悪役は、目的のためなら誰が犠牲になっても構わない。ところが正義の味方は、一人も犠牲にしたくない。だから悪役が人質を盾にしたら困ってしまうわけです。一人も失わないで、みんなを助ける。それは大変難しい課題です。

創世記の42章の最後から43章にかけて、ヤコブ一家は大きな問題を抱えています。飢饉のため、苦労して手に入れた食物も無くなりかけています。このままでは一家全滅です。助かるためにはエジプトに買い出しに行く必要があります。しかし、エジプトに行くには、一番下の弟、ベニヤミンを連れて行かなければ食料を売ってもらえない。ところが父親のヤコブはベニヤミンを連れて行ってはいけない、と言うのです。誤解されることもありますが、この時のベニヤミンは小さな子どもではなく、おそらく30歳以上になっていました。でも親から見たら、いくつになっても子どもは子ども、特に溺愛している子どもは、何十歳になろうと幼子のように思って過保護になります。そうです。一番の原因は、ヤコブの溺愛です。ヨセフを溺愛したために兄たちは妬みました。ヤコブは、ヨセフの代わりにベニヤミンを偏愛したのです。でも、ヤコブの心情を考えれば、彼は最愛の妻ラケルを失い、そのラケルの産んだ二人の息子、その一人が死んでしまった。あとはベニヤミンだけです。年老いた父親に、心を変えろと言っても、それは無理です。ですから、ヤコブの息子たちはどうすればよいか、悩んでいるのです。

私たちも、似たような問題に悩むことがあります。アチラを立てればコチラが立たない。相手が変われば簡単に解決するのは分かっているが、人の心を変えることは出来ません。どうすれば良いのか。そんな悩みの中に置かれたヤコブの息子たちの姿から、一人も滅びないで、みんなが救われる方法は何か、一緒に悩んでみたいと思います。

いつものように、三つのポイントに分けて説教を進めてまいります。第一に「失敗した方法」、第二に「より優れた方法」、そして最後に「神による方法」ということをお話しさせていただきます。

1.失敗した方法・・・ルベン(42:37〜38)

ベニヤミンを失いたくないと言って譲らない父ヤコブを、まず長男のルベンが説得します。昔は一家の長が権威と、家族を守る責任も持っていました。もし一家の長である父親がその責任を果たせない場合は、長男が父に代わってその責任を果たす、そして長男が一家の長の権威を持つようになります。ルベンは長男として、一家の中でリーダーの役割を果たそうとしたのです。しかし、彼は失敗をしてしまいます。少し戻りまして、42章の36節からお読みします。

42:36 父ヤコブは彼らに言った。「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」

42:37 ルベンは父にこう言った。「もし私が彼をあなたのもとに連れて帰らなかったら、私のふたりの子を殺してもかまいません。彼を私の手に任せてください。私はきっと彼をあなたのもとに連れ戻します。」

42:38 しかしヤコブは言った。「私の子は、あなたがたといっしょには行かせない。

ベニヤミンを連れて行く許可を得ようと、ルベンは父親を説得しますが、ヤコブは聞き入れませんでした。なぜルベンは失敗したのでしょうか。タイミングもあります。食料を買ってきた直後です。無理にエジプトに行かなくても、とりあえず食料は手に入った。実際に食べ物が無くなってきたら、ヤコブも認めざるを得ない。ルベンの説得は時期を間違えた。でも、それだけが問題ではありません。彼の言葉と、その背後にある彼の姿勢が問題なのです。

ルベンは37節で、もしベニヤミンが帰られなくなったり、殺されでもしたら、その場合は自分の息子たちが殺されても構わない。だから、ベニヤミンを連れて行かせてくれ。確かに、一族をどうにかして救いたい、その意気込みを感じさせます。しかし、ヨセフを失い、シメオンも失っている父にとっては、「息子を殺してでも」というルベンの態度は、同意できるはずはなく、むしろ逆効果です。確かに父ヤコブは末っ子のベニヤミンを救いたいがために、他の者たちを悩ませている。しかし、ルベンの提案は、一家を救うために一部の者が犠牲になっても仕方がない、ということです。それでは父親を説得できないし、一族のリーダーとして失格です。いいえ、ルベンの考え方は、もう少し深い問題を含んでいます。それは、代価を払うことによる救い、ということです。

最近は知りませんが、一昔前は、子どもたちが公園や空き地で野球をしていて、ボールで窓ガラスを割ってしまう、なんてことがありました。そのときに、親が出てきて、ガラス代はいくらだ、それを弁償すればいいだろう、なんて態度で言ってきたら、割られた家の人は怒ってしまいます。お金を払えば良いだろう、そういうことではないはずです。

一家が救われるためには、ベニヤミンにしろルベンの息子たちにせよ、誰かが犠牲になれば救われる。代価を払えば救われる、それは聖書が教えている救うとは少し違います。確かに旧約聖書では罪の赦しのためには動物の犠牲が捧げられました。しかし、それは羊一匹差し出したら、それで良い、と言うことではありません。代価を払ったから当然、救われる、のではないのです。本当は自分の命を差し出さなければならない。その代わりとして羊の命で許して欲しい。この羊は自分の命の身代わりであり、自分が死んでも当然だ、ということを認めること。それが律法の命じていることです。

ところが、ルベンの姿勢は、他者に犠牲を負わせる態度です。自分の息子たちを自分の思い通りに扱かっている。自分が犠牲を払って責任を負う、という姿勢ではないのです。他者を犠牲にするリーダーは、次は別の者を犠牲にする。それでは誰もついて来ません。彼が長子としての役割を果たすことに失敗したのは、彼自身の姿勢が問題だったからです。ルベンは以前、父親の権威を汚す罪を犯したために長男の権利を失ったとされています。また、ヨセフが売り飛ばされたときも、長男として他の兄弟を説得してヨセフを助けようとしましたが、誰も従いませんでした。そして、ここでも彼は指導性を発揮できなかったのです。それは、彼が正しいリーダーの姿勢に欠けていた。そのために一家を救う働きを担うことができなかったのです。救いの方法が間違っていたのです。

2.より優れた方法(43:1〜10)

ヤコブを説得できないまま、月日が過ぎて、とうとう食料も底をつき始めました。このままでは一家は飢え死にしてしまいます。その危機的状況で、今度はユダが父を説得しようとします。それが43章の3節くらいから始まります。ここでもヤコブはベニヤミンを行かせない、と主張します。末っ子に固執するヤコブに対し、ユダは家族全員を救おうとします。この一族が生き延びるためです。どのように彼は父を説得したのでしょうか。43章の8節。

43:8 ユダは父イスラエルに言った。「あの子を私といっしょにやらせてください。私たちは出かけて行きます。そうすれば、あなたも私たちも、そして私たちの子どもたちも生きながらえて死なないでしょう。

43:9 私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください。万一、彼をあなたのもとに連れ戻さず、あなたの前に彼を立たせなかったら、私は一生あなたに対して罪ある者となります。

ユダの言葉はルベンと似ている部分もありますが、全く違うものです。細かい表現としては、ルベンが殺してもかまわない、という言い方だったのに対し、ユダは「みんなが生きる」という肯定的な言い回しです。タイミングも、これ以上ぐずぐずしていたら、一家全滅です。10節の言葉から感じられるのは、まだ人間は飢え死にしていなくても、おそらく家畜の一部は失っていたようです。この状況では、ヤコブも、どうにかしなければならないと考えます。

でも表現やタイミングだけで説得したのではありません。彼は大切な事を語っています。9節の「保証人」という言葉は経済用語、特に法律的な表現です。犠牲を払って責任を果たすことです。彼は、法律用語を用いることで、自分が必ず約束を果たすことを強調しました。旧約聖書の、後の方では、この言葉が人を救う者を示す表現として使われるようになります。特に、神が私の保証人となってくださる、という言い方です。聖書の中で、たびたび法律的な表現で救いが語られるのは、神様が必ず約束を果たして救ってくださる、ということを示すためです。

ユダはさらに「私に責任を負わせてください」と言っています。これは意訳でして、直訳では「私の手から」という言い回しが使われています。「私の手」、それは自分が自ら働くことを意味します。誰か他の者に犠牲を払わせるのではなく、自分が率先して犠牲を払う姿勢です。そして、9節の最後、「私は一生あなたに対して罪ある者となります」。もし罪があると言うのなら、自分が罪を背負う。反対は、自分の罪も認めないで、人の所為にすることです。ユダの態度は、彼が責任を持つリーダーであることを示します。ルベンが失敗して長男の権威を失ったのと対照的に、ユダは一家の長として相応しい姿勢を示したのです。

聖書を読み進めて行きますと、ユダの子孫、ユダ族はイスラエル民族全体の中で指導的立場を持つようになり、ついには、ダビデ王がユダの子孫として生まれます。また、新約聖書ではキリストもユダ族から生まれています。ダビデは、失敗をしたこともありますが、彼は国全体を救うために責任を負う王でした。キリストは人類の罪の責任を背負う救い主となられました。旧約聖書では王様が、新約聖書ではキリストが、人々を救う存在です。そこにはユダが示した、正しいリーダーの姿が反映しています。ユダは救い主の先祖として、そしてイスラエル一族の長として相応しい人物となったのでした。

3.神による方法

さて、ここまで、ルベンとユダの、リーダーとしての姿を通して、救いの方法ということを考えてみました。特に、ユダは、ヨセフとは違う視点から将来のキリストを指し示す、大切な働きをしています。最後に、この箇所で、神様はどのような方法でこの一家を救われたのか、を見て参ります。それと対照的な姿として、ヤコブの姿にも目を留めます。

ユダが自ら責任を負って一家を導こうとしているのを見て、恐らくヤコブの中にも一族の長としての自覚が目覚めたのでしょう。彼はベニヤミンを連れて行くことを許可し、ユダに助言を与えています。それは贈り物を持っていくことです。いかにもヤコブらしい方法で、ちょうどヤコブがエサウと再会するときに沢山の贈り物を贈ったのと同じです。人間的な方法ですが、ヤコブなりに一家を救うための努力をしているようです。もちろん、贈り物だけで上手く行くハズはありません。前回、支払ったはずの代金が間違えって戻ってしまっていたので、それを二倍にして返すように指示しました。細かいことですが、12節の「二倍の銀」という言葉は、「他の銀」という意味もあり、正確な意味は曖昧です。前回、支払ったのを倍にして返すのか、そうだとすると、今回、食料の代金として払うお金と会わせて、三倍の銀が支払われることになります。あるいは、前回の代金と今回の代金を意味するのかもしれません。どれにしましても、ヤコブは人間として精一杯の努力をして、誠意を見せているのです。

しかし、いくら払うかという表面的な事だけではありません。14節。

全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ。」

この「全能の神」という言葉は、これまでも重要な場面で特別に使われている神の名前です。その神の助けを求め、ベニヤミンのことも、シメオンのことも全て神様に委ねる、ヤコブはこの信仰に目覚めたのです。そして、「失うときには失う」。それはヨブが「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言った言葉を思い出させます。ヤコブは一族の長として最も大切なこと、すなわち自分たちを導いておられる神様に全てを委ねた。これこそ、人間の出来る最善の方法であり、神様が求めておられる信仰なのです。

その信仰に、神様も応えてくださいました。詳しくはお帰りになってからお読み下さい。贈り物と二倍の銀を持っていったとき、何が起こったか、です。前回、エジプトに行ったときは、彼らは一回目の代金を払いましたが、それは知らないうちに戻っていました。そのことを、ヨセフの召使いは、「あなた方の父の神が、そうしてくださった」と述べています。神様は彼らに、代金無しで食料を与えてくださいました。今回、二回目はどうなったか、その結論を見ていきますと、彼らは倍の代金を持っていった。ところが、最後には、タダで食料をもらっただけでなく、二倍どころではなく、一生分の食事が保証されたのです。そして、ヤコブが信頼した神様は、ベニヤミンもシメオンも無事に戻してくださっただけでなく、死んだはずのヨセフまで生きて返してくださったのです。神様は、この危機的状況の中でヤコブの信仰を目覚めさせ、成長させただけでなく、彼の信頼、彼の信仰以上の救いを与えてくださったのです。

これが神様の方法です。どうしたら一家の危機を救えるか、どう説得して末っ子を連れて行くか、といった表面的なことを超えて、彼らの必要を満たすのみならず、この事を通して彼らを信仰に導き、彼らの信仰以上の恵みを与え、一人も失われることのないように救ってくださった。また、そのやりとりや、登場人物の姿を通して、新約の救い主を示された。ユダやヨセフだけではありません。この場面では失敗したルベンや、救いを妨げていたかのようなヤコブですらも、神様は用いておられます。ヤコブの子への愛、また自分の息子を差し出すルベンの姿を通して示されるのは、神ご自身がやがて愛する一人子をこの世を救うためにお与えになったことです。

まとめ

今朝は、聖餐式を行います。これもイエス・キリストを指し示すものです。イエス様の十字架が私たちの罪の贖いであり、また命を与えるために私たちの内に来てくださること。この救い主を覚えるために聖餐式が続けられてきました。三位一体の神様がご自分を犠牲にしてまでも、救いを成就してくださり、本当だったら私が背負わなければならない罪の責任を、全部、代わりに支払ってくださった。この神様をヤコブのように信頼し、全てを委ねるなら、私たちが払う犠牲を遥かに超える、私たちの想像以上の恵みを与えていただけるのです。最後に、有名なヨハネの福音書3章16節の御言葉を読み、お祈りいたします。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

(c)千代崎備道

トップへ

inserted by FC2 system