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礼拝説教「お代はいらない」創世記42章26〜28節(1〜28節)
 

序.

アメリカの神学校に留学中のことです。決して裕福とは言えない、日本からのサポートと、少しのアルバイトで生活をしているおりましたが、たまの贅沢ということで、家族で日本食のレストランに行くことがありました。ちょうどそこに、同じ教会に来ておられた家族がいらっしゃって、広いシカゴの町で同じレストランで会うということでお互いにびっくりもしました。先にその一家は帰られました。食事が終わって、支払いをしに行きましたら、お代はいりません、と言われてびっくりしました。聞きますと、その家族のご主人が、私たちの分まで払ってくださった、ということでした。貧しい留学生のために、としてくださったことでした。

聖書が私たちに告げている救いは、無代価で与えられます。教会で行われる集会は、特別なものを除けば、原則的に入場無料です。ところが、礼拝の中では献金があります。初めて来られた方が、やっぱり教会でもお金を取るのか、と心配されることがあります。献金は、救っていただいたこと、日々、恵みをいただいていること、生活を支えていただいていること、様々なことを神様に感謝することで、決して強制ではありません。自発的な行為です。また、神様に従って生きること、これを献身と言いますが、そのことを示すことです。また、信徒の方々がしておられる奉仕も、神様に捧げられる行為です。義務であるよりも、自ら進んですることです。

ところが、世の中では原則が有料です。どんなものにも、対価が支払われます。公共サービスも税金の上になりたっており、無料のものも、広告料により成り立ち、それは製品を買う代金から出されています。ですから、「無料」と聞くと、「タダほど高いものはない」と、逆に警戒することもあります。救いは無代価だ、と聞きますと、いや、それでも何かしなければならないのではないか、そう考えてしまうのが、この世界で生きている私たちが自然に思ってしまうことです。しかし、聖書は、罪の赦しである救いは、無代価で私たちに与えられる、と教えています。なぜ、無代価なのか、それは十字架という代価を神様が払ってくださったからです。今朝は、この、神様が私たちにしてくださる救いは、どのようなものなのかを、創世記42章を通して考えてまいります。この箇所には、ヤコブの息子たちが、エジプトに食料を買いに来たことが記されています。彼らはそれが弟であるとは知らないで、エジプトの総理大臣であったヨセフから食料を買いました。ところがヨセフはこっそりと代金を彼らに返していたのです。お代はいらない、ということです。

いつものように三つのポイントに分けてメッセージを取り次がせていただきます。第一に「何をするのか分からない神」、第二に「全てをご存じの神」、そして最後に「救いに導かれる神」という順序でお話しを進めてまいります。

1.何をするのか分からない神(1〜20、28節)

前の章に書かれていましたのは、エジプトに七年間の豊作があり、その後、七年間の飢饉が来る、ということでした。その飢饉は、エジプト周辺の国々にも及び、多くの人が食糧難に苦しみました。その中にヤコブの一家もいたのです。ヤコブの息子たち、すなわちヨセフの兄たちは、エジプトには食料の蓄えがある、という噂を聞き、その食料を買い求めに、エジプトに行きました。エジプトを管理していたヨセフの前に彼らは出ていきましたが、ヨセフの方はそれが兄たちだと直ぐに分かりましたが、兄たちのほうは気が付かない。もうヨセフは死んだかもしれないと思っていましたし、生きていてもどこかで奴隷となっているはずです。まさかエジプトの支配者になっているとは夢にも思わない。また、ヨセフの姿が完全にエジプト風になっていたこともあるでしょうし。何より17歳の青年というか少年から、40歳近い壮年になっていたのです。ヨセフがパロの前に立ったのが30歳、その後に七年の豊作があり、飢饉になって最初か、次の年、という計算です。

兄たちはまったく気が付いていないけれど、ヨセフは分かっていた。ヨセフはやってきた兄たちをやや厳しく扱いました。彼らがエジプトを探りに来たスパイだと決めつけたのです。彼らは疑いを晴らそうと、必死で説明します。素性を正直に話します。自分たちは十二人兄弟で、一人はいなくなり、一番下の弟は父のもとにいる。ところがヨセフは彼らの言葉を疑い、そのことが本当なら、一番したの弟も連れてくるようにと要求します。三日間、兄たちは監禁され、もう一度ヨセフの前に連れ出され、一人を残して帰り、今度は末の弟を連れて来るように命じられます。兄たちからすれば、なぜ、疑われるのか、まったく分かりません。初めて、この箇所を読む人も、ヨセフの意図は分かりませんので、最初は不思議に思われるでしょう。ヨセフの言葉は、彼らがスパイかどうかを試すため、と言っています。恐らく兄たちが自分を売り飛ばしたときのように、悪い心のままであるのかを知りたかったのではないか、と言われています。

では、兄たちは何を思っていたか、それは21節に出てきます。

21 彼らは互いに言った。「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」

22 ルベンが彼らに答えて言った。「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのにあなたがたは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けるのだ。」

兄たちの理解は、自分たちが今受けている苦難は、昔犯した罪の報いだ、という考え方です。因果応報と言いますが、日本でも悪いことをしたら、バチがあたる、という考え方があります。直接か、あるいは周り巡ってか、自分のしたことがやがては自分に返ってくる。私たちも、何か大きな悪いことがありますと、自分が何か悪いことをした、それに対して神様が罰を与えているのか、と思うことがあるかもしれません。もちろん、ヨセフは昔の復讐をしているのではありません。ヨセフの動機が何であれ、それがヨセフとは分かっていない兄たちからしたら、なぜこうなったのか、、全く分かりません。なぜ、こうなったのか、また、これからどうなるのか、分からない。それは不安です。特に、神様を信じている者は、神様は慈愛に富んだお方だと思っていたのに、本当にこの神様を信じて大丈夫だろうか、と、神様に対する不安を抱いてしまうかもしれません。

神様のお考えは私たちの理解を超えています。ですから、なぜ、こんなことをなさるのか、理解できないことがあるのです。さらに、助けを求めて祈っても、直ぐに願いが叶えられないことの方が多いです。すると、祈っても聞いてもらえて無いのではないか、という思いが、不安をさらに大きくします。ヨセフの兄たちが、エジプトの総理大臣の心が分からなかったように、私たちも神様の思いが分からない。しかし、分かることがあります。それは、神様はご自分のことを、聖書を通して示しておられる、ということです。聖書を読んで行きますと、そこには赤裸々に人間の姿が描かれています。それと同時に、神様が人間をどのように取り扱われるかが示され、それを通して、神様というお方がどんなお方なのかが描かれているのです。ヨブのように大きな試練を受けることもあります。ノアのように大災害を経験することもあります。しかし、最後には神様は救ってくださる。この神様を知るとき、だんだんと神様がどんなお方か、理解できるようになって行きます。そのとき、神様は聞いておられないのではないか、神様は罪の罰として私を苦しめているのではないか、といった誤解は、消えていき、困難の中にいても神様を信頼していけば良いのだという信仰が生まれて来るのです。ですから、聖書を読むのです。

2.全てをご存じの神(21〜24節)

さて、兄たちは分かっていませんでしたが、ヨセフの方は、状況を把握しておりました。彼は兄たちの話す言葉も、当然理解できます。しかし、ヨセフと兄たちの間には通訳者がおります。普通、エジプト人でしからヤコブたちの言葉は分からないからです。

またアメリカでのことで恐縮ですが、私は英語が苦手で、発音もバリバリの「じゃぱにーず・いんぐりっしゅ」です。ある時、アメリカ人の方たちの前で挨拶をしなければならないことがありまして、通じるか心配でしたので、友人に頼んで通訳をしてもらいました。この方の通訳は、それは見事なものです。私が日本語でスピーチしたのを、英語で話してもらう、ということです。それで、二人で皆さんの前に出ていった。最初の一言、「グッモーニング」。えー、いくら私が英語が苦手とは言っても、それくらいは知っておりますし、いくら発音が悪くても、これくらいは通じるでしょう。よく外国の方が日本で講演をなさるとき、最初の挨拶は「ミナサン、コンニチワ」とかします。で、私も「グッモーニング」。そうしたら、通訳の方は「おはようございます」。律儀に、しかも英語から日本語に訳してくださいました。聞いているのはアメリカ人なのですが。もちろん、その後の通訳は完璧でした。いえ、私はよく分かりませんでしたが。

ヨセフと兄たちの間にいた通訳は、両者の関係は知りません。陳情に来た外国人だと考えています。ヨセフに対して言う言葉は通訳しても、彼らがお互いに語っていることまでは訳さなかった。兄たちも通じているとは知らず、またヨセフとは知らず、本心を述べたのです。それは、昔、ヨセフを苦しめたことへの後悔と反省でした。彼らの心を知ったヨセフは、その場を離れて泣きました。

兄たちはヨセフのことは全く分かっていなかった。しかし、ヨセフは、全てではありませんが、兄たちの心も理解していました。それだけでなく、兄たちがエジプトの総理大臣の前にひれ伏して挨拶をしたとき、ヨセフは、自分が子どもの時に見た夢、それは兄たちが刈り取った麦の束がヨセフにお辞儀をした、という夢です。それが実現したことも、ヨセフは知りました。しかし、ヨセフ以上に、よく分かっていたのは、神様です。

私たちは神様のことを少ししか分かりません。そして、神様も自分のことを分かっておられないのではないか、と思ったりします。しかし、神様は私たちの全てをご存じです。私たちの祈りを聞いておられます。祈りにならない心の中の思いも分かっていてくださいます。祈る前から、私たちの状況は私たち以上に知っておられ、私たちの必要なものも、私たちが願うこと以上に何が必要かを知っておられるのです。そして、私たちが過去にいただいた約束の御言葉、神様が私に語ってくださったと信じた聖書の言葉を、たとえ私たちが忘れていても、神様は憶えていてくださり、その約束を実現してくださるのです。ダビデは、王となる約束を神様からいただきましたが、逆にサウル王からお尋ね者とされて追いかけ回され、何度も殺されそうになりました。しかし、神様は確かに約束を成就されました。

神様は、過去のことも、今の状況も、心の中も、そして、これからどうなるかも、全てご存じでいてくださるお方なのです。このお方が、私たちをどのようにされるのでしょうか。

3.救いに導かれる神(25〜28節)

さて、ヨセフと兄たちに目を向けます。一人を人質として残し、兄たちは食料を受け取って父の下に帰って行きます。その途中でしょうか、彼らの一人が受け取った食料の袋を覗いて見ますと、その一番上に、自分が支払ったお金があるではありませんか。当時は銀が貨幣のように用いられていたのでしょう。「自分の銀」と書かれていますので、袋に入れていたので、自分のと分かったのか、銀貨の形で分かったのでしょうか。何かのしるしで、自分の払った銀だと分かり、驚きました。何が何だか分からずに、彼らは驚き、恐れました。28節。

28 彼は兄弟たちに言った。「私の銀が返されている。しかもこのとおり、私の袋の中に。」彼らは心配し、身を震わせて互いに言った。「神は、私たちにいったい何ということをなさったのだろう。」

神はいったい何をなさるのだろうか。これが私たちの持っている不安です。神様が分からない、神様のなさることが分からないのです。

兄たちは、家に帰ってから全員の袋を点検しますと、一人だけでなく全員、自分の支払った銀の包みが戻ってきているのです。彼らは恐れました。しかし、それは、神を畏れるという信仰とは違いました。この時の、ヤコブたちの信仰がどのような状態だったかを、創世記は詳しくは述べておりません。しかし、飢饉で困ったときに、神様に祈ったとは書かれていません。神様の言葉を聞いたとも書かれていない。彼らは、神様を信じてはいたでしょうが、その信仰は形だけになっていたのかもしれません。それは、神様がどのようなお方かを忘れてしまっていた、ということです。ヤコブがかつて家を離れて苦労したとき、神様は「必ず守る」と約束され、事実、困難はありましたが、彼は守られてきました。ですから、今回の飢饉でも神様を信頼できた、はず、です。もし、この神様を信頼していたなら、不思議な銀を見たとき、ただ不安で恐れるのではなく、違った思いがあったでしょう。それは、何かは分からないけれど、神様が何がしていてくださる、という考えです。この銀は、神様が「お代はいらないよ」と言っている、神様の御業のしるしだったのです。

神様は私たちに対しても、必ず救ってくださることを、聖書の言葉で約束すると共に、それが確実になされる証拠として、不思議なことを通して示された。それが十字架です。二千年前に、神の一人子が人間として来てくださり、十字架に掛かって私たちの罪を贖ってくださった。この贖いが確実である証拠として復活があった。この十字架こそ、神様からのしるしなのです。神様が必ず、救ってくださる。私たちが何もできなくても、無代価で救ってくださる。その意気込みを示すしるしなのです。ヨセフは後に、過去の経緯がどうであれ、この一家を、あの兄たちを最後まで救うことを述べていますが、その決意が、この時になされ、その意志を表すために、代価はいらない、と彼らの銀を返したのではなかったでしょうか。神様が十字架による贖いという方法を用いなさったのは、それは神が救いに必要なことは全てする、その表れなのです。

私たちには神様の全てを理解する出来ません。聖書を読んでいても、分からないことは沢山あります。聖書を読まなかったら、なお神様のことは分かりません。しかし、ただ、十字架のイエス様を信じるなら、救っていただけるのです。過去にどんな罪があったとしても、今でも神様に対して不信仰な者であったとしても、神様は私たちを救いへと導いていてくださるのです。

兄たちは、何が何だか分からずに恐れました。しかし、確かに必要な食料は与えられ、しかも無代価で与えられました。人質に取られた一人も次の時には帰されます。そして、最後には一家がヨセフによって保護されるのです。ヨセフは少しずつ、兄たちを救いへと導いていった。神様はそれ以上のお方です。神様のなさることは理解できないことがあっても、十字架を通して私たちへの愛を示し、救う意志を明らかにされた、この神様を信頼してまいりましょう。

まとめ.

代価はいらない。それは、何も良いことが出来なくても救ってくださる。また何年も教会に来て実績を積まなくても、神様は救いを与えてくださる。聖書もキリスト教の教えもまだまだよく分かっていない。そんな心配をする必要はありません。救われてから分かるようになることが沢山あります。ただ、神の愛を信頼し、十字架の贖い、身代わりによる罪の赦しを信じる。それだけで救っていただける。神様が、あなたを救うよ、と言ってくださる、そのお言葉を信頼し、受け止めるだけで、救ってくださる。この神様の招きに応えてまいりましょう。

 

(c)千代崎備道

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