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礼拝説教「世界を救う人」創世記41章53〜57節(40〜57節)
 

序.

聖書の創世記を初めて読んだ人は、おそらく神話や童話のように思ったかもしれません。しかし、読んでいくうちに、そこに出てくる人々が生き生きと描かれていて、時には現代人と同じ悩みや苦しみを抱えていることを知ります。そして、聖書全体を読むようになりますと、創世記が大変に重要な書物であることに気が付くようになります。聖書全体の序論として実に相応しいものなのです。創世記の中で、神様とはどんなお方か、人間とはどんな存在か、この世界はどのようなものなのか。聖書を読む上で大切な事柄が、ほとんど創世記に出てきます。その中でも、救いとはどのようなもので、その救いを世界にもたらす人はどのような人か。そのことが様々な形で創世記には出てくるのですが、その中でも特に重要なのが、今、読み続けています、ヨセフです。この41章では、エジプトの国を救い、その周辺にあった、当時の世界を救ったのが、ヨセフです。そして、ある意味で、ヨセフはイエス・キリストの働きを描いていると言うことが出来ます。旧約の時代から言うならば、来るべき救い主、すなわちメシヤが、どのようなお方なのかを示す一人が、ヨセフです。イエス様と完全に同じということではありませんが、様々な面で似ています。ちょうど模型のような存在です。ヨセフを見ていますと、イエス様の姿を見ることが出来る。そのことを今朝はお話ししてまいりたいと思います。

しかし、ただイエス様と似ている点がいくつもある、ということだけではありません。神様がアブラハムに約束されたことは、「あなたを祝福の基とすること、あなたの子孫を増やすこと」でした。この約束は、ヤコブを通して、イスラエル民族の土台が出来ましたが、諸国民の祝福となることは、ヨセフを通して実現して行きます。ですから、ヨセフの生涯は、アブラハムから始まった一族の歴史におけるクライマックスなのです。

前置きが長くなりましたが、今日は、41章の後半を通して、三つのことをお話しさせていただきます。第一に「正しく治めたヨセフ」、第二に「苦しみを味わったヨセフ」、そして最後に「ヨセフに従った世界」という順序で進めてまいりたいと思います。

1.正しく治めたヨセフ

前回は、41章の前半からお話しいたしました。エジプトの王であるパロが夢を見た。その不思議な夢をヨセフは見事に解き明かした、だけでなく、解決策も示しました。だれがその解決策を実行するか。全員一致でヨセフがその働きに任ぜられました。それまで奴隷であり、囚人であった若者が、突然にパロに次ぐ第二の権威者となったのです。エジプトでは、パロは別格です。ですから事実上、最高の位に就いたことになります。誰でも権力を握ると、その人の悪い面が出てくることがあります。しかし、ヨセフは総理大臣になっても、僕として仕える姿勢は変わりませんでした。かつてポテファルという役人の家で、しもべ頭となったときと同じように、パロの僕の頭となったのです。そして、パロの命令で、エジプトの国民全員がヨセフに従うことになりました。

パロの命令は近づきつつある国家の危機、すなわち七年に渡る飢饉という災害から国を救うことです。ヨセフは目的のためには手段を選ばない、という人間ではありません。誰一人犠牲にならないようにしました。後に世界中から助けを求めに人々がヨセフのもとに来ました。しかし、彼は分け隔て無く食料を供給しました。また、ヨセフは私欲を肥やしたり、賄賂を要求したりもしませんでした。全て、パロのため、また人々のために行ったのです。彼は国家の独裁者ではなく、国を正しく治める、良い管理者だったのです。このようなヨセフの元で、エジプトは飢饉から救われただけでなく、幸福な社会であったのではないでしょうか。悪い政治家が上に立ったら、その国は不幸です。しかし、私利私欲なしに治めてくれる方のもとで生きることは、その国に幸福をもたらすのです。このことこそ、神様のご計画なさった救いの道です。

多くの場合、人間は自分のために生きる存在ですから、それが支配者になると、自分の利益のためにその地位を利用しようとします。その結果、誰かが犠牲となり、苦しみを受けることになります。その具体的例は、新聞を見ればいくらでも出てきます。それに対し、神様は世界を支配なさる権威をもったお方ですが、ご自分の利益ではなく正義によって治めるお方です。正しい神様が治めてくださる、それが神の国です。その支配に従う生き方、それが神の国の国民です。新約聖書では「神の国」という言葉で救いを表しています。この神の正しさ、聖書の言葉では、神の義による支配こそ、人間の救いとなるのです。

この神様は人間に対しても、正義の生き方を求めています。ところが人間は、自分が支配者となりたい、しかも自分の欲望を満たしたい。つまり正義ではなく罪による支配者となるのです。自分のしたいことをする、そのために他者を犠牲にしても構わない。この人間の生き方は、本当の王である義なる神様への反逆なのです。自己中心の生き方は、それ自体が神様に背く罪なのです。

神様は、そのような人間を救うために、旧約聖書では様々な人を用いて、神の民を救われました。それがモーセであり、ダビデです。人間ですから失敗はありましたが、彼らは正義によって人々を治め、正しく導きました。そのような指導者に従うことが人々の救いだったのです。神様が民の救いのために遣わしたのは、正義をもって治める存在です。ヨセフは、その最初の一人ということができるでしょう。そして、最後の、また最高のお方がキリストです。世界を義によって救う、それが救い主です。その意味でもヨセフはキリストの姿を指し示しています。でも、それだけではありません。

2.苦しみを味わったヨセフ

正しい支配者であるヨセフのもとで、エジプトは救われました。しかし、ヨセフ自身は幸せだったのか。それを示すのが、51節と52節です。50節からお読みします。

50 ききんの年の来る前に、ヨセフにふたりの子どもが生まれた。これらはオンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテが産んだのである。

51 ヨセフは長子をマナセと名づけた。「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた」からである。

52 また、二番目の子をエフライムと名づけた。「神が私の苦しみの地で私を実り多い者とされた」からである。

マナセという名前は「忘れる」という言葉から出来ていますが、その命名の理由を、「全ての労苦と父の家を忘れさせたから」と語っています。それはどういう意味でしょうか。確かに、奴隷の時に比べたら、総理大臣として裕福な生活を送っています。苦労したことを忘れるほどです。また、自分の家庭が出来ました。長いこと会っていない、父の家、ヤコブ一家のことも記憶から薄れていった、のでしょうか。本当に忘れてしまったのか。いいえ、決して忘れることなどできません。

最近、物忘れが酷くなりまして。もともと忘れることが多かったのですが、年々、悪くなります。立ち上がって、隣の部屋に行って、何を取りにきたのか忘れてしまう。そこでもう一度最初の部屋に戻って考えますと、思い出す。それは初期です。酷くなりますと、忘れたことに気が付かない。隣の部屋で違うことを始めてしまいまして、そのうち、ふと、何か違う目的があってココにいることに気が付くのです。もう少し、症状が進みますと、いつになっても気が付かない。物忘れをしていることすら忘れている。そうなると、ある意味、幸せかもしれません。

ヨセフが、「私は忘れた」と言っているのは、本当は忘れることができない。でも、自分はエジプトの国を任されているという、重要な働きに任ぜられているのだから、もう昔のことは忘れて、自分の責任を果たさなければならない。忘れなければいけない。それが「忘れた」と言っている意味ではないでしょうか。奴隷の苦労を忘れたとしても、父の家を本当に忘れずはずがありません。エフライムという次男の名前も、「豊かな実り」を意味する反面、「苦しみの地」に自分はいるという自覚でもあります。何がヨセフの苦しみだったのでしょうか。

先週のところで、ヒゲをそられた、と書かれていました。それはヘブル人の習慣から言うならば辱めでしたが、エジプトの習慣でした。奴隷の時からずっと、ヨセフはエジプトの文化の中で生活しなければなりませんでした。後で兄たちと会ったときに、ヨセフのエジプト語は完璧で、ヘブルなまりは全くありませんでしたので、兄たちは気が付きもしません。服装などの外面だけでありません。パロによってエジプトの祭司の娘と結婚させられました。家庭もエジプト風です。その中には当然、異境的な習慣も沢山ありました。この51節、52節で、「神が」と言っていますのは、ヨセフが決してアブラハムやヤコブの神様を忘れてはいない、ということです。カナンの地の娘を娶ってはいけない、とヤコブがイサクから言われたことを知っていたでしょう。それは異境の習慣に染まってはいけないからです。正しい信仰を失う危険があったからです。それなのに、自分は今、エジプトの宗教と習慣にどっぷりと浸かっている。それはヨセフの信仰が強いほど、辛いこととなります。エジプトが救われるために、他でもない、ヨセフ自身が苦しみを味わったのです。世界を救う働き、それは華々しい働きでしたが、同時に、救う人自身は大きな犠牲を払わなければならなかったのです。

旧約聖書は、救いのために犠牲が必要であることを人間に教えています。特に、罪からの救いのためには、動物の犠牲が必要でした。全ての罪は、神様への反逆であって、死刑が当然の報いです。ですから、その罪を赦していただくためには、自分の命をもってお詫びをしなければならない。しかし、それでは誰も生きることが出来ない。そこで神様は他のものが代理になって犠牲を払うという方法で良しとされたのです。しかし、羊や牛が人間の代わりとして十分なのかというと、本当の意味では動物の犠牲では不十分です。ですから旧約時代は一時的な措置として、動物が捧げられました。新約になったときに、本当の身代わりとして神の御子が十字架にかかって下さったのです。全人類を救うため、いいえ、私の罪を赦して、滅びから救うために、神様は自ら犠牲を払ってくださったのです。私の救いのために十字架の苦しみがあったのです。私たちが永遠の命をいただくことが出来るのは、イエス・キリストの十字架の苦難があったからなのです。救い主は苦しみを受けることでその働きを果たす。それがヨセフが示した、救い主のありかただったのです。

3.ヨセフに従った世界

ヨセフの心の中には苦悩がありましたが、彼はそれを息子の名前の中に封印したように思えます。ヨセフはパロから託された使命に全力を注いだのです。そのヨセフの働きが46節から57節までに書かれています。ヨセフの働きと言いましても、具体的にはヨセフの権威の下にいた家来たちが働きます。パロが、全国民に対して、ヨセフに従うようにと命じたのですから、ヨセフの命令はパロの命令です。55節でパロが「ヨセフのもとに行き、彼の言うとおりにせよ」と言っていますが、それは、この時だけではなく、ヨセフが総理大臣となった初めから、全エジプトがヨセフの言葉の通りに動いたのです。では、ヨセフは何を命じ、何をしたのでしょうか。48節にありますのは、前半の七年間、豊作により穫れた食料を蓄えさせました。それにより後半の七年間の飢饉に備えたのです。ヨセフの使命は後半です。飢饉から人々を救うことでした。その準備が前半の七年間だったのです。54節。

54 ヨセフの言ったとおり、七年のききんが来始めた。そのききんはすべての国に臨んだが、エジプト全土には食物があった。

55 やがて、エジプト全土が飢えると、その民はパロに食物を求めて叫んだ。そこでパロは全エジプトに言った。「ヨセフのもとに行き、彼の言うとおりにせよ。」

食物を求める人に、ヨセフは必要なものを与えました。正確には「売った」とあります。自分が儲けるためではありません。あくまでヨセフはパロのしもべですから、本来、エジプトの国はパロのものでしたから、パロの利益になるようにと、働いたのでした。しかし、エジプト中、そしてその周辺の国々も、ヨセフの働きにより救われたのです。ヨセフの言うとおりにしたからです。パロとヨセフの言葉に従ったところに救いがあったのです。

聖書の神様は、人間を救うときに、言葉を用いられます。救いの準備をされたのが、聖書の前半、旧約聖書です。そして後半ではその救いが実現していきます。神様が言葉を用い、特に聖書を作られたのは、人間がその聖書の御言葉を通して、救いの神を知り、その言葉に従うことで救われるためです。神様に逆らう罪の生き方をしてきた人間を、その罪から救うためには、十字架という犠牲が払われた、だけで終わるのではなく、その十字架を教える御言葉を信じ、従うことが大切です。自分の好きなやり方でいいじゃないか、ではなくて、神様の御言葉に従うかどうか、それが神様が私たちに問いかけられていることなのです。神様は救いの道を準備されました。旧約聖書の時代には動物の犠牲を捧げるという方法で、新約時代には十字架という完成された贖いによって救いの道は私たちに開かれています。あとは、その道を自分で選びとること、神様の言葉を信頼して従うことです。

まとめ.

キリスト教、という言い方は、キリストの教え、という理解をしてしまいやすいですが、キリスト教は決して教えではありません。もちろん、素晴らしい教えがそこに含まれていますが、神様の御言葉に従うこと、それがキリスト教の救いです。神様が私たちを救うために遣わしてくださったイエス・キリストを信じ、このお方に従っていく、それが救いなのだということを、ヨセフの姿は示しています。そして、ヨセフが苦悩を味わいつつ、しかし、その犠牲によってエジプトが救われたように、私たちを救うために、イエス様が十字架に掛かってくださった。このことを信じ受け入れることこそ、神様からのメッセージなのです。

 

(c)千代崎備道

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