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礼拝説教「時が来た」創世記41章14〜16節(41:1〜44)
 

序.

41章はヨセフが牢屋から出ることができ、パロの前に立つ、彼の生涯のハイライトです。子どもたちにとっても面白いところです。パロが不思議な夢を見る。また奴隷だった若者が、総理大臣に抜擢される。いよいよヨセフが活躍する時が来た、そんな場面です。読むだけで分かりやすい箇所ですが、ヨセフの立身出世が、私にとってどんな意味があるのかを考えるのは、簡単ではないかもしれません。今朝は、この41章から、三つのことをお話しいたします。第一に、「神の救いの時」、確かにヨセフにとっては救いが与えられた日です。第二に「神の栄光の時」。そして、「神の使命の時」、という順序でお話しを進めさせていただきます。

1.神の救いの時

さて、創世記からのメッセージ、三週間ぶりですので、少し流れを忘れた方や、初めての方もおられると思いますので、簡単にここまでの経緯をお話させていただきます。

神様はアブラハムを選ばれ、祝福を与えると約束されました。その祝福は、その子イサク、そしてヤコブへと引き継がれてきました。ヤコブは別名イスラエルと呼ばれ、彼の十二人の息子たちがやがてイスラエル十二部族になって行きます。その中で11番目の息子がヨセフです。彼はヤコブから最も愛されましたが、兄たちに妬まれ、奴隷として売り飛ばされてしまいます。父ヤコブには死んだと知らされ、ヨセフはエジプトに連れてこられます。彼はエジプトの王パロ(パロというのは名前ではなく、称号で、世界史ではファラオと習います)、そのパロの侍従長の家の奴隷とされました。奴隷となったヨセフは、良く主人に仕えたので、信頼されて奴隷の頭となりましたが、女主人の誘惑を退けたために、恨みを買って、嘘の証言で牢屋に入れられてしまいました。牢屋でも彼は真面目に働きましたので、牢屋番から信頼されるようになりました。そこに、パロの家来が二人、投獄されて来ました。一人は料理長、もう一人は献酌官長、お酒を注ぐ役目です。この二人が夢を見た、その夢をヨセフは見事に解き明かし、実際、その通りになって、料理長は死刑となり、献酌官長は無罪となって復職することができました。ところが彼はヨセフのことはすっかりと忘れてしまい、牢屋から出してもらう希望を抱いていましたのに、出ることができなかったのです。

ヨセフが奴隷商人に売られたのは、17歳頃です。パロの前に出たのは30歳頃。13年間、彼は不遇の人生をすごしました。真面目に働いたのに牢屋に入れられ、親切にしたのに忘れ去られたのです。特に献酌官長が牢屋から出ることが出来たときには、きっと彼がパロに頼んで、自分は牢屋から出ることが出来ると期待したはずです。ところが何日たっても知らせはない。一月、二月、やがて一年、二年。希望の光が見えたと思ったのに、それが消えていく。それは辛いことでしょう。彼は苦悩の日々を送りました。その悩みから、神様は救い出してくださった、それが41章です。

その苦悩の反面、ヨセフは神様が自分と共にいてくださることを信じていました。もしかしたら二年間の失望が信仰を弱めることがあったかもしれませんが、いつかは神様が救い出してくださると信じていたのではないでしょうか。しかし、それがいつかは分からない。自分の考えていた方法ではなかった。彼は、ただじっと待つ時を過ごしました。神様に祈っても、それが直ぐにかなえられる訳ではありません。神様は祈りを聞いていてくださいますが、それがどのような形で応えられるかは、神様のお考えがあります。そして、それがいつかは、神の時があります。ですから、その時まで、待ち続ける忍耐が必要です。

神様の計画、それはヨセフの救いだけでなく、もっと多くの人のことも考えておられたのです。そのためには、彼は牢屋で数年間、待たなければなりませんでした。しかし、救ってくださる神に信頼するなら、待っている間も平安が与えられます。ヨセフは自暴自棄にならなかった。自分も死刑にされるのでは、と心配したり、裏切られたことを恨んで荒れ荒んだ心にならず、真面目に働き続けたのです。そこにはただ堪え忍ぶという忍耐ではなく、神を信頼する穏やかな時がありました。

そして、ついに神の時が来て、彼は牢屋から救い出された。いえ、牢屋から出ただけでなく、パロの前に立ち、パロを助ける働きをすることになったのです。

2.神の栄光の時

さて、ヨセフがパロの前に呼び出されたのは、パロが不思議な夢を見たからでした。それも二回続けて、奇妙な、しかし何か重要なことを知らせるような夢です。パロは悩み、国中の知恵者を呼んで夢を解き明かさせましたが、誰もその夢を理解できません。そのとき、献酌官長が、かつて自分の夢を見事に解き明かした青年のことを思いだしたのです。さっそくヨセフが呼び出されました。14節。

そこで、パロは使いをやってヨセフを呼び寄せたので、人々は急いで彼を地下牢から連れ出した。彼はひげをそり、着物を着替えてから、パロの前に出た。

ヒゲを剃ったのは、ヘブル人はヒゲを伸ばす習慣があり、それを剃られるのは屈辱なのですが、逆にエジプト人はヒゲを剃る方が礼儀だったのです。彼はパロの前に出るのに相応しい格好にされたのです。パロから、夢を解き明かす能力があるのかと問われたとき、16節。

ヨセフはパロに答えて言った。「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」

ヨセフは自分ではなく神が夢を解き明かすのだと語りました。自分にその才能があると言えば、学者として召し上げられる可能性があります。就職試験で面接の時に、誰でも自分を売り込もうとします。少しでも自分には能力があることを示したいものです。しかしヨセフは自分を良く見せようとはしませんでした。むしろ、自分の神が力があることを証言したのです。この後、夢が解き明かされたとき、そしてそれが実現したとき、それはヨセフ自身の力ではなく、ヨセフの神様の力が示され、神の栄光が現される。それがヨセフの願いでした。

神ご自身も、この箇所で、ご自分こそ本当の神であることを示しています。パロの見た夢は二回とも七という数字が二種類でてきます。二回の夢はそれが確実であることを示すためで、聖書の中では重要なことは二回繰り返されるのと同じです。七と言う数字は、やはり重要な意味があります。

パロの見た夢は17節から出てきますが、同じ意味の夢ですので、一つ目だけ見たら良いでしょう。ナイル川から肉付きの良い七頭の牛が出てきました。そころが後からやせ細った牛が七頭出てきて、最初の七頭を食べてしまった、という夢です。牛が共食いするとはあり得ないことです。ですから特別な意味があるのだと思わされたのです。ナイル川は、エジプトにとって農作物に必要な水を供給するものです。ですから、これは農作物に関わることです。太った牛は豊作、やせた牛は飢饉で、それが、それぞれ七年間続く。しかも最初が豊作の七年ですが、次の飢饉の七年間で、前に豊作があったことが忘れ去られるほどに、全てが食い尽くされてしまう。それがヨセフの解き明かしでした。

さて、聖書の中で、いくつかの数字は特別な意味を込めて使われます。十二はイスラエル十二部族に関連します。三は三位一体の神様、四は東西南北で地上の全体、ということです。そして、七というのは聖なる数字です。ノアの箱船のとき、普通の動物は一つがいずつだったのに、清い動物は七つがい、船に入りました。また天地創造では、神様は七日目を聖別して、安息日とされました。七年の豊作と七年の飢饉。べつに六年ずつでも八年ずつでもいいはずです。それを神様は七年とすることで、これは神様の聖なる意志による出来事だと告げているのです。ヨセフの証言と、神の証言、いずれも、この出来事が神の力によることであり、パロとエジプトの民に対して、ヨセフの信じている神が偉大な神であることを示しています。パロでさえ分からないことを神が知らせ、誰にもどうすることも出来ない豊作と飢饉を、神は自由に用いることができる。エジプトにも様々な偶像の神々がいますが、ヨセフの神ははるかに偉大な、真の神である。それを示すのが神の栄光なのです。

神様は、ヨセフをペテロのように鍵の掛かった牢獄から出して、家まで返すこともおできになります。しかし、それでは家族だけしか神様の力を知ることは出来ません。しかし、この夢を用いたことで、世界中に神様の偉大さを示されたのです。ヨセフの救いは神の栄光を示す方法で行われたのです。私たちの救いも、実は神の栄光を示すことです。

神に背いた罪人。罪というのは全て、正しい生き方を求める神の御心への反逆だと聖書は教えます。そんな反逆罪を犯してきた人間を、正義の神様が滅ぼすのは当然のことです。ところが、その罪を赦し、赦すだけでなく、神の子としての身分を与え、神の民に加え、天国に入れてくださる。そんなことは人間の理解を超えています。そんなことが出来るのは神様だけです。私のような者が救っていただけた、そのことだけでも神様の素晴らしさが示されるのです。また、開かなくて結構ですが、ルカの福音書の中でイエス様が光り輝く栄光の姿となったとき、イエス様が話されたのは、エルサレムでの最後、すなわち十字架のことでした。イエス様にとって、十字架に掛かって全ての人の罪を背負うことこそ、栄光ある勤めなのです。救いは神の栄光を示すのです。

私たちが証をするのは、自分が偉い人間であることを宣伝するためではありません。むしろ、自分はダメな人間であることを包み隠さずに語ることで、その自分を救ってくださったお方の愛がどれほど大きいかを示すことが出来るのです。救いの証しは神様の栄光を現すことなのです。ヨセフの救いの時、それは今まで密かにヨセフを守っておられた神様が、ついにその偉大さを示される、神の栄光の時だったのです。

3.神の使命の時

ヨセフはパロの夢を解き明かしただけではありませんでした。彼は奴隷として仕えていたときに、問題があったら、具体的にそれを解決することを要求されます。部屋が散らかっていたら、その事実を主人に伝えても何の役にも立ちません。部屋を片づけるのが彼の仕事です。パロの夢はエジプトの国に危機を引き起こします。ですからヨセフは具体的にその解決策も示しました。33節。

33 それゆえ、今、パロは、さとくて知恵のある人を見つけ、その者をエジプトの国の上に置かれますように。

34 パロは、国中に監督官を任命するよう行動を起こされ、豊作の七年間に、エジプトの地に、備えをなさいますように。

35 彼らにこれからの豊作の年のすべての食糧を集めさせ、パロの権威のもとに、町々に穀物をたくわえ、保管させるためです。

36 その食糧は、エジプトの国に起こる七年のききんのための、国のたくわえとなさいますように。この地がききんで滅びないためです。」

夢の解き明かしを聞いて驚いたパロと家来たちは、ヨセフが解決策まで見事に示したことで、彼の上に神に知恵が宿っていることを知りました。ですから異論なく、ヨセフをその役に任じることにしたのです。

それはパロが任命したのではありません。パロを通して神様がヨセフに使命を与えたのです。それは後に来る七年間の大飢饉からエジプトの国を救う働きです。しかし、神様の計画はそれ以上でした。ナイル川を持つエジプトが飢饉で苦しむということは周辺の国々は壊滅状態になるということです。助けを求めてエジプトに来る人々のなかには、ヨセフの家族、ヤコブ一家もいるのです。神様はヤコブたちを飢饉から救うためにも、ヨセフをパロの前に連れて行ったのです。

この重大な使命を果たすために、ヨセフには神に霊と知恵が与えられました。でもそれだけではありません。ここまでの十三年間、侍従長の家で、次は牢獄の中で、主人に仕え、監獄の番人に仕えてきたことで、彼は様々な仕事を理解し、特に家のことを管理するように訓練されてきました。実に、ここに彼が試練を受けた意味があったのです。神様はただ困難を与えるのではなく、その困難が自分の祝福だけでなく他者を助けるためにも用いられるようにすることがおできになるのです。

おとといは、三多摩教区の連合女性会の大会でご用をさせていただきました。創世記の中から、ヤコブの妻であるレアという女性に焦点をあててお話しいたしました。レアは不幸な家庭生活を送りましたが、最後には多くの息子を産み、その子孫から将来の指導者が誕生することになります。彼女の悩みや苦しみは決して無駄ではなかったのです。そのメッセージの最後に、私自身のことをお証しさせていただきました。アメリカので留学生活は、様々な問題で悩まされた十年でした。それを話し出しますと、苦労話は長くなるものなので、省略いたしますが、そのアメリカでの苦労は、今、教会を牧会するため、また聖書学院で教えるために、全てが用いられているのです。神様は私たちを御計画のために用いてくださいます。用いるためには訓練が必要です。私たちの味わう苦労も、やがて神様のご栄光を現すために用いられるとするなら、決して無駄ではないどころか、大変に意義深いものとなるのです。

牢獄から救われたヨセフに新しい役目が与えられたように、神様の救いに与った私たちには、神様から新しい使命が与えられます。人生の新しい目的が与えられるのです。自分のために生きるのではなく、神様のご目的に添った人生となります。御心に従う人生です。具体的には、一人一人に対する神様のご計画は違いますから、また神様の時も違いますから、誰もが同じようになる必要はありません。ただ神様の導きに従えば、良いのです。でも、神様は私たちを教会に導いて救ってくださった。それは、この教会、いえ、どの教会でもキリストの教会ですから、キリストの体の一員として、教会を通じて神の働きに参加するのです。最初から何でも出来るはずはありません。神様から恵みの栄養をいただいて成長し、成長しながら訓練され、少しずつ奉仕や伝道に関わり、協力して神様の働きを進めていくのが教会です。

私には力が無いとおっしゃるなら、神様はただ使命を与えるだけでなく、使命を果たすために必要な力も与えて下さいます。神様の助けを祈り求めつつ、奉仕に励み、証をし、礼拝を守る。あとは時が来たら立ち上がって、神様の導きに従いましょう。そして、こんな小さな者が用いていただけることを感謝し、また何も出来ない者であることにより神様の栄光が示されるのです。ですからヨセフのように忠実に仕える者でありましょう。

 

(c)千代崎備道

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