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礼拝説教「人の夢と神の夢」創世記40章5〜8節(40〜41章)
 

序.

今年も早いもので三分の二が過ぎようとしています。今年の標語を「教会の幻を見よう」といたしました。「年寄りは夢を見、若い男は幻を見る」との御言葉を掲げてまいりました。今年は池の上教会の50周年ということで、過去を振り返り、神様の恵みを感謝しつつ、その土台の上に新しい50年を考えて行きたい、そのように新年にお話をさせていただいたことでした。記念誌の証しを通して、神様がどれほど素晴らしいことをしてくださったかを思うとき、これから神様はどのような恵みの業を行ってくださるのか、楽しみにならないでしょうか。ぜひ、未来を夢見ていただきたい、と願っています。

さて、今朝は「人の夢と神の夢」と言う説教題を付けました。「神の夢」と言いましても、神様も寝ている間に夢を見るのだろうか、ということではありません。イスラエルを守るお方は眠ることが無い、と書かれていますから、神様が見る夢、ということではなくて、神様が見せてくださる夢、ということです。聖書の中には度々、そのような夢が出て参ります。創世記の中ではヨセフの夢が有名です。今日のメッセージは、そのヨセフと夢との係わりを通して、私たちが見る夢や幻について考えてまいりたいと思います。いつものようの三つのポイントに分けてお話を進めてまいります。第一に「神からの夢」、第二に「人による夢」、そして最後に「神による実現」という順序でお話したいと思います。

1.神からの夢

奴隷であったヨセフは主人の妻に欺かれて、牢屋に入れられてしまいました。主人はエジプト王パロの侍従長であったため、彼が入れられたのは、王の囚人を入れる牢獄でした。そこに王に対して罪を犯した二人の家来が入ってきました。一人は献酌官長で王の飲む酒を注ぐ係り、もう一人は調理官長です。二人とも王の飲み食いするものに毒を入れることが出来る働きですから、信用されていなければなることが出来ない地位です。それが、理由は書いていませんが、何か王の怒りを買ったために投獄されたのです。審きを受けるまでの間、拘留されていた二人に、ヨセフは出会いました。

ある夜、この二人が夢を見ました。しかも、普通の夢ではない。何か特別な意味がある、と考えられる不思議な夢です。しかし、その夢の意味が分からない。何か、あるはずなのに分からないために、二人とも「いらいらしていた」と書かれています。ヨセフはその様子に気が付き、二人に訳を訊くと、8節。

ふたりは彼に答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」ヨセフは彼らに言った。「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話してください。」

創世記を読んでいますと、神様は様々な方法で人に語りかけておられます。時には直接、あるいは天使を遣わして。また夢や幻を通して語られることもありました。ヨセフは父であるヤコブから、神様がアブラハムやヤコブに様々な方法で語りかけたことを聞いていたはずです。ですから、神様が夢を用いて語りかけたのでしたら、その意味も神様が教えて下さる、と思ったのです。

聖書の神様は、啓示の神であると言われます。啓示とは、神様が人間に語りかけられ、特別なことを教えてくださることです。現代の私たちには聖書を用いて語りかけることが中心です。しかし、創世記の中に生きている人々は、聖書も何も持っていなかった。ですから、いろいろなやり方で神様は語りかけられたのです。方法がどうであれ、大切なことは、神様が語りかけていられる、その言葉に、どれほど耳を傾け、また、どのように受け止めるかです。せっかく語りかけても、正しく聞いて受け止めるのでなければ無駄になります。創世記の最初で、アダムとエバが神様から語られたことは、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。食べたなら必ず死ぬ」ということでした。ところがエバは「死ぬといけないから」と、曖昧に受け止めていた。そのために蛇の誘惑に負けてしまいました。どのような手段であろうと、また沢山語られるか、あるいは僅かな言葉であろうと、その神様の言葉を真剣に聞き、正しい応答をする信仰が求められます。

私たちには、この分厚い聖書が与えられています。創世記の人々が知ることが出来た言葉の量と比べたら、どれほど多くの御言葉をいただいているでしょうか。また印刷術が発明され、やがて大量生産が出来るようになって、日本語訳の聖書も手に入れられる値段となりましたが、それまでは大変に高価なものですから、滅多に手に入れることが出来ない。かろうじて、教会で少し聞くことが出来るだけ、という時代もありました。私たちは、せっかく、この聖書を持つことができるようになったのに、その神様からの語りかけをどれくらい聞いているでしょうか。読んだ御言葉、神様からの啓示を、どのように受け止めているでしょうか。とてももったいないことをしているのではないか、と思うことがあります。与えられている御言葉を無駄にするのではなく、真剣に読み、心を傾けて聞く姿勢を持たせていただきましょう。

2.人による夢

さて、ヨセフは献酌官長の夢を聞き、神様が彼に示して下さったのでしょう、その夢の意味を説き明かすことが出来ました。それは彼が無罪となって、再び献酌官の働きに復帰できる、という予告でした。その解き明かしを聞いた、もう一人の役人、調理官長も、自分の夢を明かしました。自分も無罪となって復帰できるかもしれない、と考えたからです。ところがヨセフの解き明かしは、調理官長の方は有罪となり、処刑される、ということでした。おそらく彼は気落ちしたのではなかったでしょうか。彼は自分の夢も、自分にとって都合の良いものだと勝手に考えたのですが、そうではなかったのです。

もう一人、がっかりすることになる人がいます。それはヨセフ自身でした。14節で、ヨセフは献酌官長に語っています。

14 あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください。私に恵みを施してください。私のことをパロに話してください。この家から私が出られるようにしてください。

15 実は私は、ヘブル人の国から、さらわれて来たのです。ここでも私は投獄されるようなことは何もしていないのです。」

ヨセフは、これを一つのチャンスだと捕らえました。献酌官長が助かったとき、しかも彼は王の前に行くことが出来る地位ですから、自分が無罪であることを直接王に訴えてもらえる。そのことを献酌官長に頼んだのでした。しかし、献酌官長は、ヨセフのことをすっかり忘れてしまったのです。二年後に彼がそのことを思い出して、ヨセフが牢獄から呼び出されるまで、ヨセフはどれほど失望したでしょう。

失望を味わった二人、ヨセフと調理官長に共通しているのは、神からの語りかけである夢を、自分のために利用しようとしたことです。調理官長は仲間の夢の解き明かしを聞いて、自分の夢も良いことを告げていて、自分は助かると考えました。ヨセフも、献酌官長の夢が実現したとき、自分は助かると考えたのです。それは、二人とも、自分の願いでした。神からの語りかけである夢を用いて、自分の願い、自分の夢をかなえようと考えた、そこに落とし穴があったのです。

それは、神様からの夢を、人間の夢としてしまう罪です。同じ失敗を、私たちもしてしまうことがあります。御言葉を読んだとき、それを自分の都合の良いように解釈するのです。都合の悪いことは読まないことにする、というやり方もあります。それは自分の願いを神様に押しつけることです。御言葉を自分の利益のために利用する、それは語っておられる神様を利用する、恐ろしい罪です。ヨセフの失敗は、献酌官長に語られた啓示を、自分のために利用したことにあります。ですからヨセフは失望する結果となってしまったのでした。しかし、神様のヨセフに対する意図は、別のところにあったのです。

3.神による実現

41章は、創世記の中でも、そしてヨセフの生涯においても、一つのハイライトです。大変に面白いところですので、まだ読まれたことの無い方は、是非、お帰りになってからお読み下さい。それは、エジプトの王であるパロが夢を見た、ということから始まっています。不思議な夢でしたが、王も、学者たちも、誰もその意味が分からないで悩みます。そのとき、あの献酌官長がヨセフのことを思い出しました。牢獄にいた若者が、見事に夢を解き明かし、それが実現した。そのことを彼はパロに告げました。そこで直ぐさまヨセフは王の前に連れ出されました。ヨセフはパロの夢を見事に解き明かし、その結果、彼は王に次ぐ地位となり、エジプト全土を支配する者となったのです。

ここで初めて、何故、神様は献酌官長の夢をヨセフに解き明かさせたのかが理解できます。このパロの夢を解き明かすためだったのです。もし、献酌官長が牢獄から出て復帰できたとき、直ぐにパロに伝えて、ヨセフが牢獄から出ることが出来るようにしたら、どうなっていたでしょう。彼は奴隷でした。それが犯罪人となっていたのですから、無罪となっても、奴隷に戻るだけのことです。おそらく、献酌官長が引き取って、彼の家で召し使いとなるくらいではないでしょうか。しかし、献酌官長が忘れたために、そうなりませんでした。そして、一番良い時に彼に思い出させ、パロの夢を解き明かすためにヨセフが用いられるようにされたのは、まさに神様の働きでした。

夢を用いて語られるのは神様です。どのような方法で語りかけられるかを決めるのも神様ですから、その啓示の言葉が、どのように実現するかを決める権威も神様にあります。それを自分の考えに従って、自分の願った時に、自分の考えた方法で実現しようとすることが、間違いなのです。ヨセフは、パロに直接無罪を訴えるという方法で、今すぐに牢屋から出ることを期待しました。しかし、神様の時は二年後であり、方法も、無罪を訴えるのではなくパロの夢を解き明かすことでした。ヨセフはこの二年間を通して、徹底的に神様が全てを支配しておられることを学んだのです。そして神様には神様の時と方法があることを知ったとき、やがて彼は自分が売られて奴隷とされたことも、やがて神の時と神の方法によって、良いことのために用いられるのだと気が付かされていったのです。そのことは、45章のときにお話しいたします。

夢であろうと聖書であろうと、神様が告げられることをどのように用いるかは、神様が決めることです。それを、自分のために利用しようとしたり、自分の時や方法を神様に押しつけてしまう。それは、まさに自分が神の座を奪おうとする自己中心の姿です。神様が語りかけておられるとき、それに対して、どのような態度で受け止めるかが重要です。自分の思いよりも神様の御計画を優先し、どのように実現するかも神様にお委ねする。そして、それが成就していったとき、神様の栄光を賛美する、それが神様からの啓示に対する態度です。

それは御言葉を読むときもそうです。自分の考えを押しつけて読むのではなく、神様のお考えを伺い、それに従うこと。神様の時を待ち、神様の方法を学ぶ。そうするとき、神様の計画が実現していくのです。同じことが夢についても言えます。聖書に出てくるような不思議な夢では無いとしても、私たち一人一人に夢があります。将来、こうしたい、こうなりたい、という夢です。それを、自分の力で実現しようとし、自分の時と方法にこだわり、結局は全てを自分の利益とするために用いるなら、それは人間の夢であり、やがては空しく消えていくものです。しかし、自分の夢や願いも、神様に委ね、神様のご計画を実行していただくなら、それは神様からの夢となっていくのです。

決して、自分の夢を持ってはいけない、という事ではありません。様々な願いや計画を持つ。そのときに、自分の夢を第一とするのではなく、神様の御心に従い、神様を第一にするなら、神様が私たちの夢をも、用いてくださる。それがどのように実現するか、いつ、そうなるかは、神様だけがご存じのことです。ですから、私たちの願いや思いも、神様にお委ねし、お任せしてまいりましょう。神様は、必ず最善に導いてくださいます。それは、私の願いや考えと違うかもしれませんが、私の思いよりももっと良いことが何であるかを、神様はご存じのお方です。その神様を信頼していけば良いのではないでしょうか。

まとめ.

今年は教会の夢を見ていただきたい、お一人お一人が、この教会の将来について、夢と幻を持っていただければと思います。しかし、その夢が人間の夢とならないように気をつけなければなりません。人間の夢とは、自分の思い通りにしようとすることです。自分の夢が一番であり、それ以外は間違っている、というのは神様からの夢ではありません。また、自分の願い通りにならなければイヤだ、というのも違います。今すぐに実現するかどうかも、神様が時を決めなさいます。夢を持ちつつ、神様に委ねて従うなら、自分の夢も、また他の方の夢も神様が用い、一番素晴らしいことをしてくださるのです。

牧師も夢を持ちます。何度かお話ししたのですが、この教会に赴任しまして、素晴らしい会堂に最初は驚きました。しかし、同時に、もっとこの会堂が用いられるのではないかとも思いました。池の上教会の歴史の中で、最初の代沢の会堂も、二番目の下落合の会堂も、ここと比べるなら、物理的な大きさは小さいものでした。しかし、そこに神様が働いていてくださり、ぎっしりになるほどに人が集まりました。普通、会堂の定員の8割くらいが、その教会堂の限界だと言われます。100名が入ることの出来る会堂でしたら、その教会は80名位をなかなか越えることが出来ない、ということです。しかし、みんなが熱心に神様に仕える、勢いがあるときは、その限界を遙かに超えることが出来ます。100名の会堂にそれ以上の人が集うようにもなるのです。だとしたら、この礼拝堂、通常でも150名、ぎっしりしたら200名、特別な時には300名だと聞いております。普通にしていたら、150の8割で、120名から130名くらいが限界だということになってしまいます。しかし、聖霊が働いてくださるなら、200名、300名でも礼拝に集うことが可能なのではないでしょうか。300名礼拝と言うのは、決して無茶な目標ではありません。せっかく神様が奇跡的に与えてくださった会堂です。それをどう用いるかを私たちに委ねられているとしたら、タラントと譬えではありませんが、何倍にも用いていかなければ、与えてくださった神様に申し訳ありません。もちろん、毎週、ここに300名が入りますと、ちょっと息苦しいかもしれません。具体的には、今年から試みとして礼拝を二回にしました。教会によっては二回も三回も礼拝を行っているところもあります。不可能なことと思わず、実際に300名の礼拝を夢に見つつ、これからの教会の幻を見ていこうと願っております。

そう、家内と話しておりましたら、家内の夢はもっと大きくて、千名礼拝と申しておりました。どちらの夢が正しいではありません。もし神様が実現して下さるのでしたら、私の夢は、差詰め、途中経過でしょうか。300名を通らないと千名には行きませんから。もちろん、人数だけの夢ではありません。もう少し、細かいことを言えば、全ての年齢の方が出席できる教会です。お年を召され、体があまり動かせなくなっても、礼拝を守ることが出来るようにするためには、どうしたら良いでしょうか。子供たちや若い人たちが沢山集うことの出来る、元気な教会でありたいと思います。また弱さを持っておられる方たちも安心して集える教会。そして、誰もがお客さんではなく、神の家族の一員として、生き生きと奉仕をすることが出来る教会。夢を語り出したら、いくらでも広がって行きます。しかし、それが、人間の夢、私の夢を越えて、神様からの夢となって行かなければ行けないのだということが、創世記のヨセフを通して教えられることです。

大きな夢を見せていただき、そしてそれを神様に委ね、神様の御言葉に従っていく。そのとき、思いもかけない時と方法で、神様が実現にいたらせてくださるのです。神様の夢を見せていただきましょう。

 

(c)千代崎備道

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