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礼拝説教「神が共におられる」創世記39章1〜5節(39章全体)
 

序.

今日は終戦記念日です。あの戦争で、家族や財産を失った人が沢山いました。今でも、世界のあちこちで戦争があり、同じように大切なものを失った悲しみや苦しみを味わっている人たちがおります。もちろん、戦争に限らず、私たちの人生の中でも、多くのものを失ってしまうことがあります。そのとき、失ったということだけを見るのではなく、残されたものを見ることが大切だということも、良く言われることです。

先ほど、司会者に読んでいただいた、創世記39章に出てくるヨセフも、多くのものを失いました。家族も、住み慣れた土地も、裕福な生活も失いました。自分の体が残っている、と言いたいところですが、彼は奴隷にされてしまった。体の自由も失ったということです。全てを失ったしまったヨセフ、しかし、39章が告げていますのは、主が、彼とともにおられた、ということです。今朝の説教題は「神が共におられる」。沢山のものを持っていて、おまけに神様もいる、ということではありません。何も良いことはない、しかし、神がいてくださる。それは気休め程度のことでしょうか。いいえ、神様が共にいてくださることこそ、私たちの人生において、最も大切なことなのです。そのことを、ヨセフを通して学んでまいります。いつものように三つのポイントに分けてお話しいたします。第一に「主が共におられる祝福」、第二に「主が共におられる試練」、そして第三に「主が共におられる恵み」ということを考えてまいります。

1.主が共におられる祝福(1〜6節)

ヨセフは、兄弟に妬まれたために、奴隷商人に売られてしまい、エジプトの地に連れてこられました。パロの侍従長であったポティファルという人の奴隷になったヨセフの生活は一変しました。召使い達に仕えられていた生活から、奴隷として仕える生活です。最初は他の奴隷と同じように扱われたことでしょう。しかし、ヨセフには以前と違うことがもう一つありました。それは、主が共におられた故に、彼は何をしても成功するようになった、ということです。2節。

2 主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。

3 彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。

2節の「幸運な人」と訳されている言葉は、原文ですと、「成功させる人」という意味です。主人がヨセフにさせることは、なにもかも上手くいった。奴隷であるヨセフが得をするわけではありません。それは主人にとっての幸運です。ヨセフは幸運をもたらす存在となった、ということです。もちろん、ヨセフ自身が真面目に、良く働いたこともあったでしょう。しかし人間的な努力以上に、神様からの助けがなければ出来ないはずだ、と思うほどに、全てが主人にとって良い結果となった。それに気が付いた主人は、あれこれ指示を出すよりも、ヨセフに任せたほうが良い結果となると考え、段々と彼に様々なことを任せるようになり、彼の家のことを全て任せるようになりました。6節には、食べ物以外のことは全て、とあります。今日は何を食べたいか、ということは自分が決めますが、それ以外は全て、ヨセフの言うとおりにしておけば良い、そこまでヨセフを信頼したのです。5節。

主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。

主の祝福が家や野にある、全財産。そこには家畜や他の奴隷たちも含まれています。誰にとっても祝福となった、ということです。主人が利益を得て、他の者は苦しんだ、ということなら、主人に信頼されても、奴隷仲間たちから妬まれたり憎まれたりするでしょう。しかし、誰にとってもヨセフのすることは祝福となった、だから誰からも信用されたのです。自分の周りにいる全ての人にとって、彼の存在は祝福を持たすものとなったのでした。

これまで、アブラハムやイサク、そしてヤコブに神様の祝福があったことが書かれています。その祝福によって彼ら自身が多くの財産を持つものとなったことが描かれています。私たちは、神様からの祝福とは、自分にとってよいことがあることだ、と考えがちです。確かに旧約聖書の時代には、神の祝福は物質的な繁栄をもたらすと考えられていた傾向があります。しかし、39章のヨセフは、自分自身の繁栄よりも、むしろ周囲の人の成功へとつながっていった。それが「成功させる人」という言葉の意味です。

神が共におられる人生は、自分に祝福があるということ以上に、他の人にとっても祝福となる、ということです。神がアブラハムに「あなたは祝福の基となる」と言われたことが、ヨセフにおいて成就しているのです。クリスチャンになった、神様が共にいてくださる、ということが、自分の幸せだけを願うためだとするなら、それは御利益宗教と同じです。自分にとっての祝福も、あるでしょう。しかし、その結果、周りに災いをもたらすのでは、本当の祝福ではありません。他の人にとっても「祝福の基」、祝福をもたらす存在となることが出来る。そのようなクリスチャンとして、良い証しを建てることが出来るのです。

では、ヨセフ自身にとっては、主が共におられたことは、どのような結果を生み出したでしょうか。何もかも任された、財産も、他の奴隷たちの管理も委ねられた。出世した、と言えば確かに出世です。しかし、奴隷であることは変わりません。その結果、大変なことになるのが、7節からです。

2.主が共におられる試練(6〜12節)

6節の最期に、「ヨセフは体格も良く、美男子であった」と付け加えられています。聖書の中で容姿について書かれている場合は、それが特別な結果をもたらす場合のみです。ヨセフが美男子であったことで、大変なことが起きてしまいました。7節。

7 これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「私と寝ておくれ」と言った。

8 しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。

9 ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」

主人の妻がヨセフに言い寄って誘惑しました。しかし、ヨセフはそれを拒んで退けました。そのとき彼が言った言葉の最期、「私は神に罪を犯すことができましょうか」と言っていますが、そこに二つの大切なことが含まれています。第一に、ヨセフは奴隷とされる状況の中でも神を信じていた、ということです。彼のすることが全て成功するのを見て、神がヨセフと共におられることに気が付いた、と書かれていますが、ヨセフ自身も、自分の成功は神が共にいてくださる故だと理解していた、ということです。自分のすることが成功したとき、私たちは、それは自分が努力したから、あるいは自分の才能の結果だと考えやすいものです。しかし、ヨセフは、共におられる神様がしてくださったこと、と受け止めていたのです。第二に、主人の妻と寝る、ということは、主人に対する罪である以上に、神に対する罪である、という認識です。せっかく神様が祝福してくださったのに、その祝福を悪用して、神様の嫌われる行為をすることは、神様に対する反逆である、だから自分は罪を犯さない、そうヨセフは考えたのです。

誘惑と試練には違いがあります。罪があるとき、誘惑に陥ります。もし、ヨセフが、成功は自分の力、と思う高慢を持っていたら、また神からの祝福を悪用するような貪欲さを持っていたら、結果は違っていたでしょう。主人の妻が共犯者となり、味方になったら、もう怖いものは何もありません。主人を裏切って、この家を乗っ取ることも出来る、これはチャンスだと考えたかも知れません。心の中に罪があるとき、この状況は誘惑となってきます。ヨセフは、その誘惑を退けたのです。信仰者にも試練は訪れます。もし、そこに罪が働くと、試練が誘惑となり、罪を犯して神様から離れる方向に進んでしまいます。しかし、試練の中で信仰を働かせるなら、神様を信頼する方向に進んでいくのです。信仰によって試練に立ち向かうなら、信仰はますます成長します。罪によって誘惑を受け入れるなら、ますます罪に陥っていきます。同じ状況を、信仰によって考えるか、罪に流されるかで、誘惑にも試練にもなることがあるのです。そのとき、ヨセフのように、共におられる神様を信頼するなら、神様が助けを与えてくださるのです。

神様が共におられることは、祝福の源泉です。その神様に対する正しい応答は、神様の御心に適った生き方を願うことです。それは良いことがあったから、ということではなく、例え奴隷の状況に置かれても、ヨセフは正しい生き方をしていた。だから主人の信頼を受けたのです。神様の御旨に沿った生き方とは、具体的には何か。ヨセフがしたことは、罪から離れる、ということでした。最初は主人の妻の誘いを断りました。ところが妻は、おそらく他の奴隷たちに命じて他に誰もいない状況を作り出したのでしょう。11節。

11 ある日のこと、彼が仕事をしようとして家に入ると、家の中には、家の者どもがひとりもそこにいなかった。

12 それで彼女はヨセフの上着をつかんで、「私と寝ておくれ」と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。

最期は、上着を残して逃げ出したのです。上着という言葉には含みがあります。子供時代のヨセフに父ヤコブが特別な上着を着せました。それは特別待遇の象徴です。ここでも下っ端の奴隷でしたら上着は必要ありません。奴隷の頭としての権威が上着です。それを脱ぎ捨てて逃げたのです。結果として彼は地位を失うことになりますが、それでも罪を犯さないために、上着を脱いで逃げたのです。

罪に対して、どう対処するか、ということの例として、このヨセフの態度を使って教えている人もいます。罪の誘いを断る。何を置いてでも逃げる。そうまでしなければならないほど、罪の誘惑は強いのです。ヨセフは断固として罪の誘惑を退けました。他の誰も見ていないような状況でも、罪から離れました。それは、主が共におられたからです。主が共におられても、罪による誘惑が忍び寄ります。しかし、神様への信仰を持ち続けるなら、それは誘惑ではなく試練となり、その試練に立ち向かい、勝利することができるのです。

3.主が共におられる恵み(12〜23節)

さて、ヨセフは、罪を犯さずに済みましたが、まだ試練は続きます。誘いを拒まれた主人の妻は、嘘を付いてヨセフを陥れました。14節。

14 彼女は、その家の者どもを呼び寄せ、彼らにこう言った。「ご覧。主人は私たちをもてあそぶためにヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとして入って来たので、私は大声をあげたのです。

15 私が声をあげて叫んだのを聞いて、あの男は私のそばに自分の上着を残し、逃げて外へ出て行きました。」

この嘘を、主人は信じてしまい、ヨセフは捕らえられて牢獄に入れられました。彼は奴隷から犯罪人とされてしまったのです。奴隷になったとき、ヨセフは自分の人生がどん底に落ちたと思ったかもしれません。しかし、それよりもさらに下があったのです。奴隷は生かされますが、犯罪人は命すらもどうなるか分かりません。最低の状態に置かれてしまったのです。しかし、そのような状況にも、主が共におられたと書かれています。その故に、今度は監獄の長官からヨセフは信頼されるようになり、彼もヨセフに全てのことを管理させるようになりました。21節。

21 しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。

22 それで監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手にゆだねた。ヨセフはそこでなされるすべてのことを管理するようになった。

23 監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。

状況は悪化したように見えます。しかし、主が共におられることは変わりがなかったのです。21節に「彼に恵みを施し」という言葉があります。恵みとは特別な祝福です。監獄の長の心にまで神様は働きかけてくださり、彼はヨセフのすることを全て好意的に受け止めたのです。悪意を持って受け止めたら違う結果となります。コイツが良いことをしているのは上手く取り入るためだ、と考えられたら、何をしても逆効果です。反対に、好意的に受け止めたら、何をしても良く思ってもらえます。することが成功するのは努力にもよりますが、好意を得るようにしてくださった、それが神の恵みとして、最悪の状態にいたヨセフに与えられたことでした。それだけではありません。

牢獄に入れられたことで、ヨセフにとって良かったことがいくつもあります。彼はもうあの主人の妻からの誘惑に苦しめられることはこれ以上ありませんでした。また、彼が奴隷として、今度は牢獄という違う社会においても、管理者として用いられ、訓練されたことは、後の彼にとって良い経験でした。そして、これは次回のお話しですが、パロの献酌官と出会うことができた、それがヨセフの人生を大きく変えるきっかけとなります。

状況は、前よりも悪くなりました。しかし、神が共におられる人生は、状況は変わらなくても、悪くなっても、そこに恵みが伴うのです。通常では無い特別な助けがある。それによって直ぐに状況が変わるとは限りません。ヨセフが牢獄を出るのは数年先です。しかし、最悪の状況の中でも神は共にいてくださるのです。それが何よりも恵みではないでしょうか。

まとめ.

アブラハムから始まる、この一族の歴史において、神が共にいてくださるということが何を意味するのか、を学ぶことができます。アブラハムやイサクのように繁栄が与えられることもあるでしょう。ヤコブやヨセフのように試練を受けることもあります。誰についても言えることは、自分の思い通りにはならない、ということです。争いや飢饉のために、あちこちに移動しなければならないこともあります。家族を失う悲しみもあります。必ずしも願った通りになるのではありません。しかし、主が共におられるとき、私たちの生涯は神によって導いていただけるのです。そして、試練を受けることはあっても、それによって信仰が成長し、神の御心を行う人へと造りかえられて行きます。そして、私たちの存在が、周囲の人にとって祝福の基となるのです。

時には、上着を失うようなこともあるでしょう。信仰をもっても状況が変わらない、という場合もあります。しかし、何があろうとなかろうと、神が共にいてくださる、それが最も素晴らしい恵みであることを忘れず、共におられるお方に目を向けて、歩んでまいりましょう。

 

(c)千代崎備道

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