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礼拝説教「割り込み賛成」創世記38章27〜30節(38章全体)
 

序.

先週は皆様の祈りに支えられて、無事に香港から帰ってまいりました。感謝します。アジアの様々な地域から、神学校教育に関係する人々が集まった集会でした。文化も習慣も、また置かれている状況も違いますが、共に協力して、主の働きを進めている姿に感動しました。

さて、海外旅行をしますと、いつも大変なのが飛行場です。沢山の人が一度に飛行機に乗り込みますし、降りたときは入国審査のために並びます。長い列を作っているときに、横から割り込みのようなことがありますと、決して嬉しくはありません。誰でも割り込まれることは嫌いです。今朝の説教題は「割り込み賛成」ですが、普通は賛成できないことです。しかし、新約聖書でイエス様が言われたのは、「先の者は後に、後の者は先に」ということです。一体、なぜでしょうか。今朝は、創世記における割り込みということをお話しさせていただきます。

いつものように三つのポイントで。第一に「割り込んだ人々」、第二に「割り込んだ物語」、そして第三に「割り込んだ神」という順序でメッセージを進めてまいります。

1.割り込んだ人々

創世記38章に出てくる出来事は、私たちの文化では理解しにくいことがいくつもあります。ヤコブの四男であったユダは、まずカナン人の娘を娶ります。彼女は三人の息子を産みました。その息子たちが成長したとき、ユダは長男にタマルという女性を妻として与えました。しかし、長男は跡取りが生まれる前に死んでしまいました。その場合、日本的な言い方ですと、家の名前を残すために、その兄弟が長男の妻を娶って、その女性が産んだ息子は長男の名前を次ぐ、というのが当時の中近東世界で行われていた習慣で、これをレビラート婚と呼びます。この習慣に従って、ユダは次男にタマルを与えたのですが、次男も死んでしまいました。ユダは、三男も同じように死ぬことを恐れて、本来ならばすべきこと、すなわち三男をタマルと結婚させることを躊躇い、彼女を実家に帰したのです。

さて、ここには様々な問題が含まれています。第一に、一体、息子たちは何歳だったのか。結婚する年齢ですから、20歳か30歳、イサクの場合は40歳で結婚でした。ですから、もし38章が37章の後に怒った事件ですと、あとでヨセフがユダと会うのは14年あるいは15年後ですので、計算が合わなくなります。これは、聖書の書き方は、必ずしも時間順ではない、ということを憶えておかなければなりません。おそらく、すこし37章よりも前の出来事なのでしょう。

もう一度、ストーリーに戻ります。嫁のタマルは実家に戻されてしまいました。でも、彼女もこの世界の住民ですので、どうにか夫、つまりユダの長男の名前を残さなければならない、と考えました。しかし、舅のユダは、自分を三男と一緒にしてくれるつもりはない。このままでは、夫の名前は一族の系図から消えてしまう。そこで彼女は非常手段に出ました。彼女は遊女のふりをして、顔を見せないでユダに近づいたのです。ユダはその女を遊女と思って、関係を持ちました。それは、あまり善いことではありませんが、カナンの習慣では普通の出来事でしたし、このときユダの妻は亡くなっていた、と書かれています。このような方法を用いて、タマルは、なんとユダによって子供を産んだのです。レビラート婚の風習では、名前を残すための結婚をする義務は、死んだ者に一番近い親戚にあります。ユダが三男をタマルに与えなかった。タマルから言えば、三男はいないも同然とされてしまった。後は、一番近い親族は、ユダ自身ですから、ユダを通して子供を産んだことは、間違いとは言え、当時の習慣には則していることになるのです。その意味で、当然すべきだった社会的責任を果たしていなかったのは、ユダの方であった。そのように、ユダ自身が告白しています。タマルが妊娠したことが明るみに出たとき、最初はユダは、自分が関係した遊女とは知りませんでしたから、タマルがどこかの誰かと知らない間に関係を持ったと考えて、姦淫の罪で殺すべきだと言いました。しかし、タマルが、胎内の子供の父がユダであることの証拠を見せたとき、26節。

ユダはこれを見定めて言った。「あの女は私よりも正しい。私が彼女にわが子シェラを与えなかったことによるものだ。」それで彼は再び彼女を知ろうとはしなかった。

このようにして、タマルは子供を産んだのでした。こうして、レビラート婚という当時の文化を考えれば、この章の出来事は理解できます。しかし、遊女という方法は、カナン人の悪い習慣です。ですから、全てのことが正しいのではありません。ここには人間の罪も描かれています。しかし、神様はその罪の世界に中で、ご計画を実行しておられたのです。

タマルのしたことは、ユダの家族の中に割り込むことでした。長男、次男、その次は三男に嫁ぐべきなのに、それがダメなら、ということで、順番ではない、ユダのところにいったからです。そのタマルが産んだ双子、ペレツとゼラフのことが、最初に司会者の方に読んでいただいた、27節から30節に書かれています。先に生まれた方が長男だと考えられ、長男は特別な権利を持ちますので、間違えてはいけない。助産婦は、先に手を出した子に区別のために赤い糸を結びました。ところが、その子よりも、もう一人のほうが先に出てきてしまった。これも割り込みです。そこで、その名前はペレツ、これは「割り込む」という意味のヘブル語パラツからつけられた名前です。「割り込み屋」という意味でしょうか。ヤコブの名前が「足をつかむ」という動詞から出来ていて、「押しのける者」と言われたのと似ています。また、その後の歴史を見ていきますと、長男のゼラフではなく次男のペレツの家系のほうが、栄えるようになります。ヤコブも次男でしたが祝福を受け継ぎました。また、ずいぶん先の話ですが、ヨセフの息子たち、マナセとエフライムも、次男のエフライムが祝福を受け継ぎます。どうも、この一族、みんなが順番を抜かすのが好きなようです。

聖書の中で起きている出来事は、順番通り、決まり通りではないことも多くおります。そこには人間の罪が原因であることもあります。でも、私たちの人生も同じです。時には間違ったことをしてしまいます。人より先になりたがるのも人間です。割り込みは人ごとではありません。人に割り込まれることには敏感ですが、自分が知らず知らずのうちに人を抜かしていることには気が付かないことがあります。ですから、ユダやタマルのしたことを批判する前に、一体何故、このようなことが書かれているのかを、考えなければなりません。

2.割り込んだ物語

先週、37章からヨセフが主人公になる、ということをお話ししました。主役がアブラハム、イサク、ヤコブと代わってきて、最期がヨセフを中心とする物語です。ところが、ヨセフの話しだと思っていたら、割り込むようにしてユダの話しが出てくる、それが38章です。なぜ、こんな書き方をしているのか。そこにも大切なメッセージが隠されています。

さて、ヤコブの12人の息子の中で、ヤコブが最も愛したのがヨセフでした。ですからヤコブとしてはヨセフに祝福を与えたかった。ところが、法律的にはヨセフは11番目です。長男はルベンです。しかし、ルベンはある罪を犯したため、長子の権利を失ったと書かれています。その次は次男と三男の、シメオンとレビ。この二人は34章で残虐な罪を犯したので、ヤコブから呪われることになってしまいます。従って、長男の資格は四男であったユダに移ります。ユダは法律的な意味で長子の責任を持つようになっただけでなく、神様からの使命を引き継ぐこととなります。それは、他者の祝福のもとい、もう少し正確には、他者の救いという使命です。このことについては後でお話ししたいと思います。この後の歴史、すなわち旧約聖書全体を見て行きますと、確かにヨセフ族であるエフライムと、このユダとが、イスラエル全体の中心となっていきます。ですから、決してヨセフだけが主人公ではない、そのことを示しているのが、38章であり、著者は適当に出来事を並べているのではなく、深い考えがあって書き記しているのです。

聖書は、創世記だけでなく、どの箇所も、深い考えによって書きつづられています。ですから、読む方も注意深く読んでいきますと、さまざまな発見をすることがあります。発見、と言いましても、面白いことがあった、というのではなく、もっと大切なのは、神様のメッセージが込められているということです。人間の著者も深い考えをもって書いていますが、それらの人々を用いて聖書を書かせたのは神様です。神様が真の著者であるとするなら、その背後にどれほど深いお考えがあるのでしょうか。ですから、聖書のどの部分にも神様のメッセージが込められているのです。時々は理解しにくい部分や、なんでこんなことが書かれているのだろうと不思議に思うこともあるかも知れませんが、そのようなことをも用いて、神様が語りかけておられるのです。そのメッセージをしっかりと受け止めるために、熱心に聖書を読む信仰者となりましょう。

3.割り込んだ神

聖書の神様は、語りかけられる神様です。聖書を通して、私たちの心の中に語ってくださるお方です。しかし、それは話すのが好きだからではありません。聖書の神様は、語りかける神であるとともに、働きかけるお方です。聖書は、この神様が歴史の中で人類に働きかけてこられたことを報告しています。

この38章には、神様があまり登場されません。7節と10節に神様が出てこられるのですが、それはユダの長男と次男に対して神が怒られたので、二人が死んだことを述べているだけです。特に長男に関しては、なぜ彼が神様を怒らせたかは何も書かれておりません。それは、あまり重要ではなかったからです。むしろ、この箇所が告げようとしていることは、どのようにユダの子孫であるペレツが誕生したか、についてです。なぜならば、このペレツの子孫が後に重要な働きをするようになるからです。ペレツの子孫として誕生するのが、イスラエルの国を救う働きをするダビデ王です。そして、私たちはさらに、このダビデの子孫としてイエス・キリストが誕生されることを知っています。マタイの福音書の冒頭にイエス・キリストの系図がありますが、その中にペレツのギリシャ語風発音であるパラスが出てきます。神様は、この38章での出来事を用いて、救い主へと歴史を導いておられるのです。

このイエス・キリストこそ、神様ご自身が人間となって、人類の歴史の中に介入されたお方です。よく、なぜ2000年前の十字架が私のためなのだろうか、と思われる方がおられます。私個人は数十年しか生きられませんので、理解できないのですが、人類の歴史ということを考えるなら、そして神様にとっては「1000年は一日のごとし」ですから、歴史全体の中心に来てくださったイエス様は、その歴史の全ての時代の人のために、十字架に掛かられたのです。ペニシリンなどの薬の発見は、その時代だけでなくその後の歴史の全ての人を助けたように、イエス様の十字架の出来事は歴史の中心に起こった一回限りの出来事ですが、歴史全体にその救いは及ぶことができる。なぜなら、神様は歴史を導かれ、歴史の中に働きかけるお方であって、そのお方は創世記の時代から数千年かけて十字架の準備をされたお方だから、数千年後の私たちのことも考えていてくださり、救いをなしとげてくださったのは、不思議ではないのです。ちょっと話が脱線してしまいました。

神様は歴史の中に働きかけ、また私たちに語りかけられるお方です。そして、このお方が、私の心の中に語りかけ、働きかけておられるのです。私たちがイエス様を信じるとき、そこに神様が助けを与えて下さり、私たちの心の中で、信じる決心が出来るように導いていてくださいます。頑なで、信じようとしない私の心を、様々な方法を用い、御言葉を通して、入り込んできて下さるのです。だから、私たちは救っていただけたのです。私の力、私の考えだけでしたら、いつになっても救われません。キリスト教のこと、聖書のことが完全に理解できてから、なんて言っていたら、一生かかってもクリスチャンになることは出来ません。しかし、幼子のように素直になって、イエス様を信じます、と告白するとき、そこに神様が働いてくださるのです。

イエス様を信じた人の人生にも、神様が働いていてくださいます。その人が神の子として相応しい人に成長できるように、そして天国の準備が出来るように、助けてくださるのです。このお方を、私の主として、心の中にお迎えに、自分中心の人生ではなく、キリスト中心、神様第一の人生を送るなら、私の人生も、この歴史に働かれる神様によって用いていただけるのです。

まとめ.

ユダとタマルの事件は、現代の日本の倫理観では理解しがたい出来事です。しかし、現代日本も、他の基準で測るなら、その道徳心は危ないものかもしれません。しかし、どのような人生、例え、それが罪や問題に満ちた人生であっても、神様はユダとタマルとペレツに働きかけておられたように、私たちにも救いの手を差し伸べて下さる。それが38章を通して、神様が語っておられることなのです。確かに、この章に出てくる人々は混乱の中にいます。それは、彼らが神様に聞いて、神の言葉に従うのではなく、自分たちの考えに従い、時には欲望に従って生きる、そのような生き方だったから、乱れたありさまとなっていたのではないでしょうか。私たちも、救われても、神様を第一とせず、自分を中心として生きるなら、問題だらけの人生となってしまいます。自己中心ではなく、神を中心として、語りかけてくださる神様に聞き従うなら、神様の救いの働きは、私の中に豊かに実を結んでいくのです。

神様は、私たちの人生に、心の中に、割り込もうとしておられます。しかし、力づくではなく、私たちに語りかけておられるのです。あなたの人生に入っても良いか、と。このお方を、私の主として、喜んでお迎えし、割り込んでいただきましょう。

 

(c)千代崎備道

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