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礼拝説教「人生に不可欠なもの」創世記37章3〜11節(37章全体)
 

序.

たちは今、礼拝において創世記から学んでおりますが、ここにはアブラハムから始まる一族の歴史が描かれております。その中で、37章から始まるヨセフの生涯は、この一族の物語にとってクライマックスであり、今まで読んできたことのまとめとなっています。後に、アブラハム一族にとって大切な役割を果たすようになるのがヨセフですが、今朝は、その子供時代のことを見て参ります。「人生に不可欠なもの」という説教題をつけました。人生に於いて不可欠であるものが、このときのヨセフには欠けておりました。それが何であるのか、いつものように三つのポイントに分けて、お話しを進めてまいります。第一に「愛されたヨセフ」、第二に「憎まれたヨセフ」、そして第三に「知らされるヨセフ」ということを考えていきます。

1.愛されたヨセフ

ヨセフの父ヤコブ、別名がイスラエルである彼は、周囲の人々から一目置かれる存在でした。その裕福な家庭にヨセフは育ちました。彼は十二人の息子の、11番目でしたが、ヤコブから一番愛されていた、と書かれています。それは、「年寄り子」だったから、と書かれていますが、これまでのところを読みますと、他の理由がありました。ヨセフの母ラケルは、ヤコブが最も愛した女性です。そのラケルが最初に生んだ息子ですから、本当だったらヤコブはヨセフを跡取りとしたかった。また、旅の途中で亡くなったラケルへの愛情がヨセフに注がれた、ということもあるでしょう。とにかく、ヤコブは誰よりもヨセフを愛し、明らかに贔屓をしました。3節の「そでつきの長服」、よく分かりませんが、特別なものだったでしょう。人間的な言い方をするなら、裕福な家庭で、特別な愛情を注がれて育った、ということです。さらに、ヨセフにはもう一つ、特別なことがありました。それは夢です。5節に彼が不思議な夢を見た、とあり、その内容が6節から書かれています。この時代、夢は神様からの特別なメッセージと考えられていました。難しい言葉で「啓示」と言いますが、神様が特別な秘密を人間に告げることです。いつでも誰でも受けることができるのではない、そのような特別なことです。すなわち、ヨセフは神様からも特別に扱われていた、ということです。似たような存在として、神の声を聞いた子供時代のサムエルを思い出します。ヨセフは人間的にも満たされた存在であり、神様との関係でも他の人が持っていないものを持っていた。そう考えると、彼は人生のスタートにおいて、素晴らしい環境に置かれていた、と見ることが出来ます。

しかし、彼には大きな欠けがありました。それは、他の人への配慮です。言い換えれば、愛と知恵に欠けていたということです。もともと父から贔屓されていたことで、兄たちは彼を妬んでおりました。そのヨセフが自分の見た夢を自慢げに語っている、その内容は、ヨセフが家族の誰よりも偉くなる、ということです。そんなことを兄たちに語ったら、さらに憎まれることが分からない、知恵がなかった。兄たちの心中を察する愛が無かった。それでは人間関係が上手くいくはずがありません。

例え、他の全てのものに満たされていても、大切なものが欠けていたら、その人生は決して良いものではありません。その大切なものの一つが、愛であり、また人生における知恵だということは、聖書が教えている真理です。では、どのようにしたら、その愛や知恵を持つことが出来るでしょうか。

2.憎まれたヨセフ

さて、今度は兄たちを見てみます。彼らはヨセフを妬み、憎んだ。でも、父がいるところではどうすることもできません。しかし、その憎しみは、殺意へと変わっていたのです。兄たちが父から離れたところで羊を飼っていた。遊牧といって、あちこち移動しながら、羊に草を与えていました。そこにヨセフがやってきた。18節。

彼らは、ヨセフが彼らの近くに来ないうちに、はるかかなたに、彼を見て、彼を殺そうとたくらんだ。

彼らは互いに言った。「見ろ。あの夢見る者がやって来る。

さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。」

穴の中に入れたままにしておいたなら、やがては飢えと乾きと暑さで死んでしまいます。後で、彼らは殺すよりはましだということで、奴隷商人にヨセフを売り飛ばすのですが、弟を亡き者にしたということです。何故、兄たちがそこまでヨセフを憎んだか、その心の底には、父からの愛を求めていた、ということがあります。彼らの母親たちも同じでした。レアはラケルのほうがヤコブに愛されていることを知り、彼女と争いました。誰もがヤコブの愛を求めていた。しかし、兄たちのしたことはヤコブの愛を取り戻すのではなく、父を深い悲しみに沈めただけでした。

兄たちも、父に対する思いやりに欠けていたのであり、また、これで上手くいくと思っていたのは浅知恵です。溺愛されていたヨセフだけでなく、他の息子たちも人間として大切なものが欠けていた、ということを見るとき、良い環境に育ったら人間は良くなり、悪い環境だからダメになる、ということではないのだと思わされます。誰もが、そして私たちも、大切な何かが欠けていることがある。問題は、それに気が付いているか、その欠けを補うことが出来るかです。自分のしていることは間違っていない、自分は上手くやっている、そう思いながら、実は大きな間違いを犯している。それが、この章に出てくる兄たちの姿でした。

3.知らされるヨセフ

さて、ヨセフは売り飛ばされて、エジプトの国で奴隷として生きることになります。その後の彼の人生については、これから少しずつ学んでいきますが、もう聖書を読んでご存じの方も多いかと思います。彼は、最期にはエジプトの大臣となり、ヤコブの一家を救うことになります。創世記の最初の方でノアの箱船が一家を救ったように、ヨセフは家族の救いとなる存在です。しかし、愛も知恵も欠けているヨセフでは、大切な役割を果たすことは、到底出来ません。彼には成長する必要がありました。そのために、神様はヨセフを厳しい環境に移されました。彼は、それまで持っていた、裕福な家庭、父の愛、といったものを失ってしまいました。しかし、全てを失ったとき、彼は初めて神様を知り、人々を救う存在へと変えられていったのです。このあと、ヨセフは様々な苦難を味わいます。人生のどん底を通ります。裏切られます。しかし、その苦難を通して、彼は神様の御心を知ったのです。そのことを示す言葉を一カ所読みたいと思います。少し後の方ですが、45章の5節。

今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。

ヨセフは兄たちが自分を売り飛ばしたことが、神様のご計画であり、命を救うためだった、と知ることが出来た。自分は神様に遣わされた、全てを支配しておられる神様がおられ、その神様が、自分と共にいてくださったことを、彼は知ったのです。

何が若いときのヨセフに欠けていたのでしょうか。愛と知恵に欠けていた。そして、本当の愛と知恵の源である、神様を知らなかった、それが最大の欠けです。もちろん、知識としては父から教えられていたでしょう。でも、自分のこととして知らなかったのです。天地創造の神、全能の神様を知ること、これこそ人生に不可欠なことなのです。他の何が足らなくても、この神様を知っているなら、必要なものは与えられます。また苦難でさえ用いて善いことに変えてくださることが出来るお方です。この神様を知ることこそ、人生において全てのことに対処できる秘訣です。この世における問題だけではありません。人生最大の難問である、死という問題でさえ、神様を知るとき天国への道を示していただけるのですから、恐れることではなくなります。イエス様の弟子のヨハネは、この神様を知ること、そのものが永遠の命なのだ、と教えています。また彼の書いた手紙には、神様を知るとき、私たちは本当の愛を知るのだと記しています。

まとめ.

私たちの人生において、もし神様を知ることが欠けていたら、他にどのようなものを持っていても、全ては無意味となってしまいます。この神様を、私の神として、知っているでしょうか。欠けだらけの自分、いえ、聖書の言葉を使えば、神様に逆らって自分勝手に生きているような罪人である私をも、神様は愛してくださり、私を救うためにイエス様を十字架につけてくださった。その神様を知ること、それが私たちの人生において、一番知るべきことであり、欠けてはならないことなのです。今日は、説教の後、聖餐式を行います。もう一度、イエス様の十字架を思い、神様がここまで私を愛し救ってくださったことを、頭ではなく、体と心でも知るものとなりましょう。

 

(c)千代崎備道

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