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礼拝説教「悲しみを覆う恵み」創世記35章1〜3節(35章全体)
 

序.

今日、開かれました創世記35章は、ヤコブという人の生涯のまとめです。彼はまだ生き続けますが、37章からは、その子ヨセフが主人公となります。ヤコブの生涯は、兄の手から逃れるための旅が中心でした。彼はベテルで神様と出会い、旅路を進み、そしてついにベテルに帰ってきたのが、35章です。それまで、旅先で彼は沢山の経験をして、信仰者として成長して来ました。彼の、これまでの信仰生涯の結論が35章なのです。この箇所を通して、クリスチャンが信仰を持って生きる生涯がどのようなものであるかを考えてまいります。いつものように、三つのポイントに分けて、説教を進めてまいります。第一に「正しく歩むヤコブ」、第二に「悲しみを味わうヤコブ」、そして最期に「恵みを受けるヤコブ」という順序でお話しいたします。

1.正しく歩むヤコブ

34章でヤコブは息子たちの残虐な行いに心を痛めました。それは、彼らが間違った場所にいたからです。35章1節で、神様がヤコブに言葉をかけて、正しい場所に導いてくださいました。それがベテルです。エサウから逃げ出したとき、最初の夜を過ごした場所で、そこでヤコブは初めて神様と個人的に出会いました。彼の信仰の原点です。ベテルとは、「神の家」という意味です。彼は本当の家に戻ってきたのです。さて、ベテルに行く前に、ヤコブにはするべきことがありました。それは、ただ場所だけ正しいところに行けば良いのではなく、正しい姿勢で神の前に進み出ることが大切だと考えたからです。

彼は家族に、偶像を取り除き、身を清めるように命じました。それは神様を礼拝する姿勢です。身を清め、着物を着替えるとは、外面を整えることです。偶像を取り除くとは信仰を整えることです。ヤコブの家の中に偶像があったことは驚きですが、ラケルのように家の偶像を持ち出したものもいました。また34章でシェケムの町を襲ったとき、町にあった金銀の偶像をぶんどりものとしたでしょう。どんな経緯があれ、それが神様の御心に反するものがあったら、取り除く必要があります。4節で、耳輪が偶像と共に書かれているのは、キレイだと思って奪い取った装飾品の中に、偶像を飾りとして使っているものがあったのでしょう。ヤコブはそれを「樫の木の下に隠した」と書かれています。「隠した」とは、あとで掘り返すためではありません。「埋めた」ということです。ギリシャ語の聖書では、「破壊した」と意訳しています。何であれ、彼らは間違ったものを取り除いて、正しい姿となって神様を礼拝しようとしました。ヤコブは自分の一家が神に仕え、礼拝する民となるようにと導いたのです。

礼拝は、場所も大切です。ベテルでなくとも礼拝は出来ます。しかし、自分の好き勝手ではなく、神様が導かれた場所、神様に従う場所です。

そして、ヤコブにとってベテルでの礼拝は、特別な意味がありました。それは、自らが神様に誓ったことを果たすことでした。エサウから逃げたとき、夢に現れた神様に、ヤコブは、無事に帰ってくることが出来たら、そのときは財産の十分の一を捧げて礼拝します、と誓ったのでした。その約束を守るためにも、ベテルに行かなければならないのです。礼拝は約束です。私たちも、洗礼を受けたときに、それぞれが神様に対して約束をしています。洗礼式の中で牧師が語る言葉がありますが、その中で、聖餐式、すなわち礼拝を重んじることを誓っている言葉が出てきます。しかし、その言葉があるから、礼拝をしなければならない、ということ以上に、礼拝の意味が大切です。神様は私たちを十字架によって贖ってくださった、それは私たちが神様のものとされたことを意味します。神の民とされた者は、神様を仰ぎ、仕えることが本分です。それを形で表すのが礼拝です。ですから、礼拝をおろそかにするなら、それは救っていただいたことを忘れることです。神様を主とし、礼拝を第一とする生き方こそ、他の何より、神様の御心に沿った生き方なのです。

ヤコブは3節でこう言っています。

そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」

彼は、神様がいつも共にいて下さった、と信仰の告白をしています。礼拝は信仰を口で告白し、また行動で表すことです。この彼の信仰の言葉こそ、彼の信仰生涯の結論です。「私の苦難の日」と言うことを、次にお話しいたします。

2.悲しみを味わうヤコブ

さて、ヤコブは信仰の原点であるベテルに立ち返りました。家族ともども偶像を取り除き、信仰を正して礼拝しました。彼の生涯において、もっとも正しい姿がここに描かれています。正しい生き方をしたら、悪いことは何もなくなるか、というと、必ずしもそうではありません。この章でヤコブは三人の家族を失います。それは人生において誰もが味わう悲しみです。大切な人を失うことは、信仰者にも訪れる悲しみです。ヤコブが葬った三人を見てまいります。

まず、8節、ヤコブは、母リベカの乳母であったデボラを葬ったと書かれています。デボラが突然に登場することは不思議に思われますが、実は母であるリベカがここに登場しないことに気が付きます。おそらく、ヤコブが帰ってくる前に、リベカは亡くなったのでしょう。そのリベカが幼い頃から、世話をしてきたのがデボラで、母親っ子だったヤコブもデボラに育てられてきたのでしょう。またリベカ亡きあとは、母の事を語り合う相手がデボラでした。デボラを失ったとは、ヤコブにとって母リベカを失った悲しみを味わわせることです。リベカ、そしてデボラは、ヤコブが幼い頃から、愛されて育てられた過去を象徴します。懐かしい思い出を失う悲しみです。

二人目は愛する妻ラケルです。ラケルは二番目の息子ベニヤミンを出産するときに亡くなってしまいます。ラケルは、ヤコブにとって大人になってからの人生で最も大切な存在でした。おじさんのラバンのところで、最初に出会い、愛するようになりました。彼女のために14年間働きました。他の妻以上にラケルを愛したのは当然といえば当然です。その最も愛する存在を失った悲しみはどれほどだったでしょう。自分が愛した相手であると同時に、そのラケルとともにヤコブの家族は大きくなっていったのです。現在のヤコブにとって生活の象徴がラケルです。

三人目は父イサクです。イサクは180歳と、アブラハムの一族の中でも最も長生きしました。イサクの死は、ヤコブにとってどんな意味があったでしょうか。ヤコブは神様を「イサクの畏れるお方」と表現している箇所がありました。ヤコブにとって信仰とは、イサクとその父アブラハムから受け継いだ信仰です。そしてアブラハムとイサクに示された神様の計画は、アブラハムの子孫が祝福を受ける、ということです。それがヤコブの代に実現し始めて、ヤコブは大きな家族を持つようになりました。だから、ヤコブ一族の将来は、このアブラハムとイサクへの約束によって定められているのです。ヤコブにとってイサクを失うとは、もう父の信仰におんぶにだっこではいられない、ということです。未来への信仰の土台を失った。だから、これからは誰かに頼るのではなく、自分自身の信仰によって歩まなければならないのです。

一人一人の持つ意味は違っても、ヤコブにとって大切な家族を失うことは、どれほどの悲しみだったでしょうか。正しい信仰によって生きていても、悲しみや苦しみが伴うことがあります。神様が共にいてくださるとは、そのような悲しみや苦しみが無くなることではありません。悲しみの中にあっても神様が守っていてくださり、その涙をぬぐい去り、恵みへと変えてくださるのです。

3.恵みを受けるヤコブ

悲しみの中にいたヤコブを慰め、励まし、新しい力を与えたのも神様でした。デボラが亡くなったとき、神様は再びヤコブに現れて語りかけました。10節。

10 神は彼に仰せられた。

「あなたの名はヤコブであるが、あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。」

それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。

11 神はまた彼に仰せられた。

「わたしは全能の神である。生めよ。ふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。

12 わたしはアブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与え、あなたの後の子孫にもその地を与えよう。」

神様がヤコブに言われたことは二つ。一つは新しい名前の確認です。すでに32章でイスラエルという新しい名前をヤコブはいただきましたが、それは彼一人が聞いただけです。忘れかけていたかもしれません。もう一度、神は新しい名前はイスラエルであるから、ヤコブという古い名前ではなく新しい名前を使うようにと命じました。新しい名前は新しい人生を意味します。過去の思い出を考えて悲しみに沈んでいたヤコブに、新しい人生に生かされていることを思い出させてくださったのです。そして、もう一つ語られたのは、祝福の約束の確認でした。これもすでに語られていたことですが、子孫が増えることと、この地が与えられることを確認しています。さらに、その子孫から王が生まれると新しい約束も与えています。人数だけでなく立派な国となる、ということです。過去にとらわれていたヤコブに、将来の祝福へと目を向けさせた言葉です。ヤコブは改めてこの場所をベテルと呼ぶことを家族に告げたのでした。自分だけでなく、子孫にも「神の家」の恵みを伝えたのです。

ラケルが死んだとき、生まれた息子に、彼女は「私の苦しみの子、ベン・オニ」と名前を付けましたが、ヤコブはそれをベニヤミン、「右手の子」としました。右手とは力を意味します。新しい力が与えられたことを意味します。神様は、ヤコブに「生めよ、増えよ」とおっしゃいました。その言葉が真実であることを、ベニヤミンの誕生は示しています。ラケルは亡くなった。しかしラケルや息子たちを与えてくださったのは、神様の力です。ヤコブを支えてきたのは、今も支えていてくださるのは、神様の右の手なのです。このベニヤミンの子孫から、イスラエル最初の王であるサウルが誕生します。王が生まれるとの約束も成就して行くのです。

父イサクが亡くなったとき、ヤコブは兄のエサウと協力して父を葬った、と書かれています。仲違いをしたことのある兄弟が、一緒になったのが、イサクの葬りでした。その後、36章では、エサウの系図が出てきます。聞いたこともないカタカナの名前が連続しますので、36章からのメッセージはいたしません。しかし、その意義については一言だけお話しいたします。それは、ヤコブだけでなくエサウにも神様の祝福が及んだ、ということです。聖書の中での主流はヤコブの子孫です。ですから37章から再び本論の流れが再開しますが、その前に、傍流となるエサウの歴史を先に語っておく、というスタイルは、旧約聖書にたびたび見られる書き方です。その36章の系図は、エサウの子孫も大きくなり、いくつもの部族となり、そこから王たちが生まれる、ということです。これは神様のヤコブへの祝福が実現することの証拠です。アブラハムとイサクは亡くなりましたが、祝福の約束は確実に成就することを、このような形で示したのが36章です。

この後のヤコブの生涯は、37章以降に書かれていますが、それもまた苦難の連続です。愛する息子を失い、飢饉に苦しめられ、約束の地を離れなければならなくなります。しかし、その苦難の日々も、神様が共にいてくださり、守り導いてくださるのです。それはヤコブだけではありません。ヤコブの別名であるイスラエルは、やがてイスラエル民族となり、イスラエル王国となっていきます。それも苦難の歴史になりますが、その苦難の中でも神様は共にいてくださいます。最期にはバビロン捕囚となって国は滅びますが、その悲しみのどん底から、神様は彼らを立ち上がらせ、新しい国へと向かわせるのです。それは、新約にまで続きます。新しいイスラエルとしてイエス・キリストが誕生します。イエス様も苦難の人生を歩まれ、最期には十字架に掛けられて死ぬ、という悲しい最期を遂げます。しかし、神様は御子を復活させ、新約の救いを確立されたのです。

神様を信じる生涯は、苦難や悲しみがあっても、そこに神様が共にいてくださり、涙を恵みによって覆ってくださる人生です。苦難を通して、祝福への道を備えてくださる神様です。ヤコブの物語のまとめとなる35章は、ヤコブにとっては悲しみの時期でした。しかし、その悲しみの中で神様は語りかけ、働きかけて、彼の生涯を祝福へと導いていってくださったのです。信仰者にとって、悲しみの人生は、決してそれで終わるのではないのです。そこにも神様の恵みが示されていく時なのです。

まとめ.

このメッセージの後で、歌います、新聖歌252番の歌詞を書いたのはスパフォードという弁護士です。彼は19世紀にシカゴに住んでいましたが、あるとき、イギリスに旅行することになりました。仕事のため、彼だけは後から行くことになり、他の家族、妻と四人の娘たちが、先に大西洋を汽船で渡って行きました。その船が事故のために沈み、娘たちは亡くなり、妻だけがイギリスに着きました。妻は夫に電報を送り、自分だけが生き残ったことを伝えました。スパフォードは急いで船で娘たちが亡くなった大西洋を渡り、イギリスにいる妻のもとに行きました。その船の中で書かれた詩が、252番の歌詞となったのです。どれほど深い悲しみがそこにあったことでしょう。その中で彼は神様から心の安らぎをいただき、深い悲しみの中で、共におられる神様に心を向けて支えられたのでした。そして、この詩に曲が着けられ、賛美歌となり、翻訳されて、世界中のクリスチャンたちに深い感銘を与えたのでした。今でも、この歌詞を通して、悲しみの中に沈んでいる人たちに慰めと平安を与えています。彼の心に働かれた神様は、彼の悲しみを恵みに変えてくださったのです。

私たちにも、信仰の生涯の中で、喜びの時もありますが、悲しみや悩みの時もやって来ます。しかし、どのようなことがあっても、そこに神様は共にいてくださり、その悲しみの中で神様の恵みを知る、そのような人生へと導いていてくださるのです。このお方を信頼してまいりましょう。

 

(c)千代崎備道

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