トップへ

 

礼拝説教「困った子供たち」創世記49章5〜7節(34章全体)
 

序.

聖書を読み進めておりますと、こんなことが聖書に書かれていて良いのだろうか、と思うほどに人間の罪の恐ろしさを描いていることがあります。今日は創世記の34章を見てまいりますが、ここも目を背けたくなるような事件が記録されています。あまりに残虐な出来事ですので、礼拝で朗読するのもはばかられる気がして、聖書朗読は49章の中から、この事件に関連する言葉を読んでいただきました。

ここに出てきますのは、レビとシメオンという、ヤコブの息子たちが引き起こした殺戮と、その原因となった一人の若者の蛮行です。どちらの父親も登場しますが、彼らにとっては、この息子たちは親を困らせる子どもたちでした。どうも聖書に出てくる人物は、子育てに失敗しているケースが多いのですが、失敗の結果、たくさんの「困った子ども」が出てきます。

今朝は、礼拝の中で子ども祝福式を行いました。また今日から明日にかけて、教会の建物の中で、JKのキャンプが行われます。この子どもたちが神様に祝福され、やがて素晴らしいクリスチャンとなってくれることを心から願っております。教会に子どもたちがたくさんいる、ということは、素晴らしい恵みです。将来に希望を持つことができます。しかし、子どもが多いということは、少なからず難しいこともあります。子どもは静かにしているよりも走り回るほうが好きですから、どうしてもざわつくことが出てきます。しかし、いつまでも同じままではないのも子どもたちです。彼らが、良い礼拝者として成長できるように、どうぞお祈りください。この子どもたちが、困った子どもたちではなく、祝福の子どもたちであるように、教会全体で育ててまいりましょう。

前置きが長くなりましたが、今朝は、この34章の息子たちの姿を通して、罪の世界に生きることの難しさを考えてまいりたいと思います。いつものように三つのポイントで。第一に「罪に染まる生き方」、第二に「罪を認めない生き方」、そして第三に「救いを待つ生き方」という順序でお話を進めてまいります。

1.罪に染まる生き方(34:1〜12)

カナンの地に戻ってきたヤコブは、シェケムという町の近くに滞在していました。娘のディナ、ヤコブの息子たちのことばかりが取り上げられることが多いのですが、娘もいました。そのディナがシェケムの町に友達が出来たのでしょうか、町に遊びに行きました。そこでシェケムという、町と同じ名前を持つ若者が、ディナを捕まえて乱暴を働いたのです。ところがこの青年シェケムはディナを愛した、と書かれています。愛していたら何をしても良い、のではありません。これはカナンの地に住む人々の倫理観の低さを物語っています。欲望のままに生きる生き方です。シェケムの父親、ハモルは、息子がこの娘を気に入ったことを知り、ヤコブと話し合いにやってきました。それは結婚の交渉です。一言も息子のしたことを詫びるのでもない。むしろ、結婚したら双方の家族にとって利益がある。ハモルが息子のために結婚の申し込みに行ったのも、実は欲のためでした。

かつて神様がアブラハムに、カナン人の罪について語ったことがあります。やがて、最悪の状態になる時が来る、そうなったら神様は彼らの罪をさばき、かのソドムとゴモラのようにカナンの民を滅ぼす、と予告されました。ヤコブの時代には、まだ最悪にはなっていませんでしたが、そうとう悪くなっていたことが、この出来事から分かります。滅びに向かって進んでいた、悪の世の中です。その中で育った若者が、欲望の赴くままに行動していたことも、さもあらん、です。

罪に満ちた世界に生きているなら、放って置けば、罪に染まって行きます。そこで生まれた、子どもたちが不幸です。良いことではなく悪いことを見て育つのです。悪を選ぶことが常識だと思い、それを疑いもしない。間違いであることを教えてくれる大人がいない。良心が少しでもあって、悪いことを止めようとしたら、周りからいじめられる。社会全体が間違った考えに基づいて動いているなら、小さな存在はあまりにも無力で、それに逆らうことは不可能です。それは、シェケムの町だけのことでしょうか。現代の日本を見ているなら、それと五十歩百歩かもしれません。性的な罪はあたりまえ。人を騙して儲けることが賢い。一緒に赤信号を渡らなければ仲間はずれ。真面目に生きるのはバカなことだ。そんな考え方や生き方が、陰に隠れてではなく、あちこちで見聞きするようになってきているのではないでしょうか。

そのような世界で、これから生きていかなければならない子どもたちを、私たちはどのように守っていったら良いのでしょうか。神に選ばれ、祝福の歴史を歩み初めていた、ヤコブの一族は、どのように生きていけばよいのでしょうか。

2.罪を認めない生き方(34:13〜31)

不幸な娘ディナは、ヤコブの第一の妻、レアから産まれました。同じレアが産んだ息子は四人おりましたが、長男のルベンはあまり頼りにならない人物でした。次男と三男がシメオンとレビが、ルベンを除けば一番年長でもありましたので、この二人が中心となって、ディナのかたきを打つ相談をしました。結婚の交渉において、父親の代わりに年長の兄が交渉にあたることがありました。兄たちはシェケムとその父ハモルに提案をしました。14節。

14 彼らに言った。「割礼を受けていない者に、私たちの妹をやるような、そのようなことは、私たちにはできません。それは、私たちにとっては非難の的ですから。

15 ただ次の条件であなたがたに同意しましょう。それは、あなたがたの男子がみな、割礼を受けて、私たちと同じようになることです。

16 そうすれば、私たちの娘たちをあなたがたに与え、あなたがたの娘たちを私たちがめとります。そうして私たちはあなたがたとともに住み、私たちは一つの民となりましょう。

17 もし、私たちの言うことを聞かず、割礼を受けないならば、私たちは娘を連れて、ここを去ります。」

割礼とは、中近東世界全体に知られていた風習ですが、神様はアブラハムに対し、契約のしるしとして必ず割礼をするように命じておりました。ですから、他の民はいざ知らず、ヤコブ一家にとっては、割礼は祝福の契約の象徴です。その信仰的に重要な行為を、彼らは悪巧みに用いたのです。シェケムとハモルにしてみれば、割礼を受けるだけで、ディナを妻にすることが出来、ヤコブたちが自分たちの仲間になり、その財産により自分たちも潤される。だったらお安いことです。ハモルは町の有力者でしたから、町の人々を説得して、大人の男性が全員、割礼を受けました。その傷が一番痛くなる三日目、ヤコブの息子シメオンとレビは町の男たちは難なく皆殺しにしたのです。他の兄弟たちが殺人に加わったかは不明ですが、その後、町の財産を略奪したことが書かれています。

彼らのしたことは、何だったでしょうか。妹の復讐として町全体を滅ぼすことは、目には目を、の原則を無視する、無制限の復讐です。また、やり方が残虐でした。そして、復讐だけでなく、最後は自分の利益のために行動した。戦利品のために殺したも同然です。カナンの町の人々が罪深いと言うなら、ヤコブの息子たちのしたことは罪ではなかったのでしょうか。人間は、相手の罪に対しては敏感です。自分のされたことに対して、大きな怒りと憎しみを持ちますが、自分が相手にあたえた傷については、過小評価するのです。そして、自分はそれほど悪くない、と言い張る。それが人間の罪深さです。ヤコブが息子たちの行為を諫めようとしたとき、シメオンとレビが言った言葉が、31節。

彼らは言った。「私たちの妹が遊女のように取り扱われてもいいのですか。」

この言葉の背後にある彼らの考えは、「復讐は当然である、自分たちは間違っていない」ということです。彼らは決して自分の罪を認めようとしませんでした。では、父のヤコブはどうだったでしょうか。30節。

それでヤコブはシメオンとレビに言った。「あなたがたは、私に困ったことをしてくれて、私をこの地の住民カナン人とペリジ人の憎まれ者にしてしまった。私には少人数しかいない。彼らがいっしょに集まって私を攻め、私を打つならば、私も私の家の者も根絶やしにされるであろう。」

このヤコブの言葉には、息子たちが罪を犯したということには触れていません。これから「私」が受けるであろう不利益を予想して、文句を言っているに過ぎません。ヤコブは父親であり一族の長として当然すべき、正しい審きをしていないのです。これでは息子たちを正しく導くことなどできません。なぜ、出来なかったのでしょうか。一つの理由は、ヤコブの中に、まだ古い生き方、自分の利益のために生きる生き方が少し残っていた。またそれが息子たちに悪い形で影響した、ということです。しかし、もう一つ、ヤコブたちには、何が正しいかを知るための手段が少なかったということです。具体的には、彼らはモーセの律法も十戒も持っていなかった。聖書が、神の御言葉がなかったのです。聖書を通して、神の義、正しさの根源を教えていただかなければ、例え信仰者であっても、間違った生き方をしてしまうことがあるのです。御言葉を読んでいても、神からの言葉としてそれを受けとめ、従おうとしないなら、やはり間違った歩みとなる恐れがあります。

クリスチャンになっても、罪から無縁でいることは難しい。特に、自分を正当化する罪は、なかなか身から離れないものです。あるいは、自分の罪を隠すことは、本能ではないかと思うほど、自分自身が気が付いていないくらいに巧妙な罪です。自分の罪、自分の間違いを認めることが出来ない、自分は正しいと思いこむ。この罪を認めようとしない生き方は、聖霊が光を照らしてくださらなかったら、気が付かないままでいることが多いのです。周囲の社会が悪い、家族が悪い、誰が悪い、と他者を批判するのは簡単です。しかし、自分は悪くないと言い張っている自分にはなかなか目が向かないものなのです。

3.救いを待つ生き方(49:5〜7)

さて、34章をそれだけで読みますと、そこには救いがありません。ですから、さらに読み進めていかなければなりません。しかし、長くなりすぎますので、少しだけ、先のことをお話しいたします。34章の問題に対する一つの解決は、次の35章の冒頭です。35章1節。

神はヤコブに仰せられた。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」

神様の方から語りかけてくださり、正しい道、すなわち信仰の原点であるベテルへと導いてくださったのです。これは神様の憐れみです。このままでいたらヤコブ一家も罪の世界に染まっていく。それを神様が正してくださったのです。しかし、これだけですと34章で息子たちが犯した罪はうやむやになってしまいます。もう一つの結論は、49章です。そこには「ヤコブの遺言」とも言うべき言葉が書かれています。ヤコブが召される前に、12人の息子たちそれぞれに言い残した言葉です。その中で、残虐なことをしたシメオンとレビに対しての言葉が、司会者に読んでいただいた箇所です。そこにあるのは、二人に対する厳しい審きでした。49章5節から。

49:5 シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の道具。

49:6 わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったから。

49:7 のろわれよ。彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤りとは。私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。

ここで初めて、ヤコブは二人の息子がしたことを悪であったと語っています。しかし、少し遅すぎです。しかも、遺言の中で他の息子たちを祝福しているのに、二人は呪われてしまいました。その呪いは、二人が暴虐の罪への罰として、散らされてしまう、ということでした。実際、イスラエルの歴史を見ていきますと、二人の子孫であるレビ族とシメオン族は、他の部族のようにまとまって住むことが出来ずに、あちこちに分散して生活するようになってしまいます。詳しいことはまた後にお話ししますが、罪の故に祝福から漏れてしまった、ということなのでしょうか。そうではなく、確かに彼らは罪のために罰を受けなければならない、それは義なる神様の下された審きでもあります。しかし、同時に神様は憐れみの故に、二人の子孫を消滅させるのではなく、保持してくださいました。それは、新約聖書の時代に続く恵みです。

レビ族は、新約ではレビ人と呼ばれています。彼らは神殿において神様に仕える働きをする者となりました。シメオン族のほうはユダ族に吸収されて、部族としての独立性は無くなったと言われます。しかし、それでも彼らの子孫はユダ族と共に生き延びたのです。他の部族の中にはアッスリヤによって散らされて、どこに行ったか分からなくなってしまった者たちもいるのと比べるなら、シメオン族は名前は無くなっても、子孫は残っていったのです。そして名前も残されました。それは、12弟子の中に、シモン、すなわちシメオンの名前があるからです。もう一人、マタイの別名はレビでした。神様は罪を犯した二人が、形は違いますがキリストと出会うように導いてくださったのでした。

神様はヤコブ、すなわちイスラエルの子孫のために救いの計画を立てておられました。その救いの時が実現するまでは、人間から見たら長い長い時間がかかりました。私たち個人の場合でも、時間がかかることがあります。自分自身の救いもそうですが、他の方が救われてクリスチャンになれるようにと祈って、すぐに祈りが聞かれる場合もありますが、何年もかかることがあります。そこには忍耐が必要です。特に旧約聖書は、まだイエス・キリストが来られる前のことですから、完全な救いが来るまでは、一時的な、部分的な解決しか示されていません。そこに旧約聖書の限界があり、それは新約聖書の救いが必要であることを意味しています。本当の救いは、イエス・キリストなのです。

私たちが罪を犯したとき、それを解決するにはどうしたら良いでしょうか。あのシェケムの父親が交渉によって解決を図ろうとしたように、具体的な手段で上手くやろうとしても、根本的な解決にならないことがあります。子供がボールでひとの家の窓ガラスを割ってしまった、だったら弁償すればいいんでしょう。それでは解決にならないのです。罪を認め、問題と向き合って、正しい解決をしなければなりません。また、レビやシメオン、そしてヤコブのように、罪を認めようとしない、あるいは隠したりうやむやにすることは、むしろ罪を深くしていきます。罪の問題の解決、それはイエス様の十字架以外には無いのです。御言葉により主の前に進み出ていくとき、イエス様が解決してくださるのです。

まとめ.

現代の多くの問題は、大部分が人間の罪の結果であり、欲と欲の争いによるものです。その争いは、人間の知恵や力では、なかなか解決できません。悲惨な争いが完全になくなるのは、それはイエス様がもう一度来られる、再臨のときです。それまでは一人一人が十字架の救いをいただくことが救いの道です。しかし、救われても、罪の世界の中で生きていく限り、問題が一つもなくなることはありませんし、気を付けませんと私たちの方が罪の影響を受けてしまいます。そこには、忍耐が必要です。

しかし、私たちが自分の努力で忍耐するしか無い、のではありません。神様が私たちを保っていてくださるのです。神様は神の子とされた者たちを、天国に至るまで保ち続けてくださるお方です。私たちがすべきことは、イエス様が「私につながっていなさい」とおっしゃったことです。例え、問題に囲まれていても、いえ、他でもない、自分自身の中に罪が潜んでいても、それでもなお、神様とのつながり、具体的には教会につながり続けるなら、神様が正しい道へと導いてくださるからです。ヤコブが神様からの声によって正しい道に戻っていけたように、私たちも聖書の御言葉によって、罪を示され、悔い改めに導かれ、イエス様による解決へと導いていただけるのです。

 

(c)千代崎備道

トップへ

inserted by FC2 system