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礼拝説教「仕える者の祝福」創世記33章1〜4節(33章全体)
 

序.

キリスト教の救いは、何か困っていることから助けられる、という救いに留まるものではありません。むしろ、イエス・キリストを信じてクリスチャンになるということは、新しい生き方が始まることです。旧約聖書の時代の人々は、まだイエス様がこの世界に誕生される前ですから、新約聖書における救いと全く同じなのではありませんが、救いとは何かということを深い意味で示しています。今、私たちは礼拝で創世記から、特にヤコブの生涯を通して学んでおります。前回、32章でヤコブが体験したことは、彼の人生の転機となることでした。彼は、神様によって名前を変えられました。ヤコブという名前からイスラエルになりました。聖書では名前は本質を示すことがあります。名前が変わったということは、彼の本質が変わったということです。それは、彼の生き方が変わり始めた、ということです。名前が変わったと言いましても、まだヤコブと呼ばれたりイスラエルと呼ばれたりで、行ったり来たりしているように、彼もまだ失敗することもあります。しかし、これまでとは変わり始めたのです。そのことを、今朝は33章を通して、お話してまいります。ヤコブというのは「押しのける者」という意味です。彼は人を押しのけても自分が一番になりたいタイプの人間でした。それが、この章では、しもべの姿を示しています。クリスチャンも、救われて自由の身としていただいたのですが、その自由を自己中心に用いるのではなく、神のしもべ、キリストの弟子として生きることが、何よりも幸いな生き方なのです。今朝の説教は「仕える者の祝福」という題をつけました。いつものように三つのポイントに分けてお話します。仕える者の生き方は、第一に、「平和を作り出す」ものです。第二に、それは「祝福をもたらす」ものです。そして、第三に、「新しい生き方」なのです。

1.平和を作り出す(33:1〜4)

32章での不思議な夜が明けて、朝になったのが、33章1節。

ヤコブが目を上げて見ると、見よ、エサウが四百人の者を引き連れてやって来ていた。

同じ様子が32章にも出てきました。そのときは、まだエサウは遠く離れておりましたが、近づいてくることを聞いて、ヤコブは恐れました。そして、どうにか自分を守ろうと、まず財産を分割し、また家族や財産を先に進ませましたが、自分だけはどうしても川を渡ることができなかった、それほど恐れていたのです。ところが、33章では、彼は家族をいくつかに分けたところまでは、前章と似ていますが、今度は自分が先頭に立っています。それは、怯えている姿ではありません。怖かったかもしれません。しかし、勇気を持って問題に直面していったのです。400人と共にやってくるエサウの前に進み出ました。それは戦うためではなく、平伏すためでした。それは仕える姿勢です。しかも、七回というのは、完全性を意味します。無条件に、エサウの前にしもべの姿となったのです。その後、ヤコブがエサウに語っているなかで、彼はエサウに対して自分のことを「あなたのしもべ」と呼んでます。この章で、ヤコブは押しのける者ではなく、仕える者となっています。

人間は恐れている相手に対しては、逃げるか、戦うか、です。しかし、恐怖ではなく、その相手を敬うならば、逃げたり戦ったりする必要はなくなります。ヤコブが逃げるのでも戦うのでもなく、エサウの前に平伏したのは、エサウを上だと認めたということです。それを見てとったエサウは、もう戦う必要はありません。いえ、もしかしたら、もうとっくに神様がエサウの心を変えていてくださったのかもしれません。前の章でヤコブが祈ったとき、彼は祈っても平安が無いために、いろいろと小細工をしたのですが、しかし、神様はその祈りに見事に答えてくださったのです。

ヤコブの姿を認めたエサウは、何をしたでしょうか。4節。

エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた。

エサウは、走り寄って、ヤコブを抱きしめ、口づけをした。どっかで聞いたことがありませんか。そうです。イエス様が語られた、放蕩息子の譬えです。あの放蕩息子の父親は、帰ってきた息子を、このように迎えたのでした。順番は、創世記のほうが遥かに古い時代ですが、しかし、あの父親の愛、その背後にある神の愛を思い出させる、エサウの行動です。エサウが、このようにヤコブを受け入れて迎えたのは、その陰にあって、神様がエサウの心に働きかけて、怒りではなく赦す思いを与えられたからです。神様から与えられた平和です。

仕える者の姿勢が平和を生み出すこともあれば、主に従う者のために、神様が平和を作ってくださるのでもあります。「平和を作り出す人は幸い」だとイエス様が教えられたとき、それは自力で平和を作るのではなく、神から与えられる平和なのではないでしょうか。

4節の最後、「ふたりは泣いた」と、主語がエサウだけから二人になっています。エサウのその赦しの姿を見て、ヤコブも赦されたことを知って、泣いたのです。ここに二人の和解が美しく描かれています。20年以上昔、若い二人が争い合い、仲違いをして、離ればなれになったことを思うとき、感動を覚える場面ではないでしょうか。

ヤコブ、すなわち押しのけ、出し抜く生き方、争う生き方は人間関係の破壊を生み出します。しかし、仕える生き方は、かならず平和を生み出すのです。

2.祝福をもたらす(33:5〜11)

5節からは、ヤコブが自分の家族をエサウに紹介します。8節からは、前の章でヤコブがエサウの怒りを和らげようと考えて送ったプレゼントについて二人が語っています。エサウは、自分はすでにたくさんの家畜を持っているからいらない、と言いますと、ヤコブは、ぜひ受け取ってください、と返します。このやりとりは、大変東洋的です。どうぞ、と言われてすぐに受け取るのは品がない、一度は断る。三回勧められて、ようやく受け取る、という日本的な習慣があります。ですから、このやりとりも、エサウが無欲な人間だったと言うのではなく、当時の文化的なやりとりだったと思われます。しかし、無意味な言葉ではなく、その端々にヤコブの考えが示されています。

5節で、ヤコブは、「神があなたのしもべに恵んでくださった子どもたち」と語っています。「恵み」、あるいは動詞で「恵む」、という意味のヘブル語、「ハーナン」という言葉がこの33章には何回も使われています。日本語に訳すときに、全部「恵み」とはしないので、気が付きにくいのですが、8節の「好意」も恵みと同じ意味の言葉です。それから、10節の「お気に召したら」という言い回しも、恵みという言葉を使っています。そして、11節でも「神が私を恵んでくださった」。ヤコブは、自分が家族を持ち、たくさんの財産を持つようになったことを、神の恵みだと述べているのです。これは大切なことです。本当は、イサクから受けた祝福の故にたくさんのものを得たのです。しかし、自分は祝福されている、と自慢することは相手から見ると高慢に思えます。しかし、恵みというのは、自分は価値がないけれど、神様が憐れんで、恵んでくださった、という謙遜に繋がります。仕える者は謙遜でなければなりません。

10節で、ヤコブはエサウに対し、「私はあなたの顔を、神の御顔を見るように見ています」と言っています。ある人は、これを「へつらいだ」と感じているようです。確かに、あなたは神様みたいだ、というのは言い過ぎです。しかし、これも良く読みますと、違う意味が隠されていることに気が付きます。「神の顔」という言葉は、前の章で、ヤコブが神と格闘した場所を、後で「ペニエル」と名付けていますが、それが「神の顔」という意味なのです。ヤコブにとっての神の顔とは、罪人の自分が受け入れられたことを思わせる言葉なのです。エサウの顔をみたとき、兄が弟を赦し、受け入れている、それは神がヤコブにしてくださったことを思い出させたのです。

もう一つ、11節で「祝いの品」とヤコブが言っていますが、別に再会のお祝い、ということではありません。この言葉は、本来は「祝福」を意味する言葉です。ここで、ヤコブがしていることは、エサウに祝福を返しているのです。かつて、彼が兄や父を騙して奪い取った祝福です。今、ヤコブは、自分はその祝福を兄に返す意味で、贈り物をしているんだ、と気が付いたのです。イサクがヤコブを祝福した言葉が27章に出てきますので、お帰りになってからお開きください。そこでイサクは、自分の祝福している相手に、神様が多くの物を与えてくださること、そして彼の兄弟が彼を伏し拝むようになる、と語っています。今、ヤコブは神様から恵みによっていただいたものをエサウに渡し、兄の前に平伏してエサウに祝福があるように、と願ったのでした。

仕える者は、周囲に祝福をもたらします。そして、そのような者は、もっと神様から祝福されます。アブラハムに神様が言われたのは、「あなたを祝福する者を私は祝福する」、また「全ての民族は、あなたによって祝福される」と約束しています。祝福は広がっていくのです。自分がもらった祝福を、独り占めするなら、神様は祝福を留めてしまいます。しかし、他者を祝福するものは、かならず祝福されます。ヤコブは、エサウに多くを与えたために一時的に財産は減ったかもしれませんが、また神様が多く与えてくださるのです。

私たちが救われたのも、祝福や恵みをいただいたのも、自分のためではなく、他の人に祝福と救いをもたらすためだ、ということを忘れず、祝福の基となりましょう。それは神に仕え、人に仕えることによって、実現していくのです。

3.新しい生き方(33:12〜20)

さて、12節からは、ヤコブとエサウがその後、どのような行動をとることになったかが書かれています。エサウは最初、一緒に行こうとヤコブを誘うのですが、ヤコブのほうは、別行動をとることを願っています。どうしてヤコブがエサウと共に行かなかったのか。ヤコブはまだエサウを恐れている、あるいは信用していないのではないか、と見る学者もいます。13節では、ヤコブは、その理由として、子供たちも家畜も無理に進ませることは出来ない、と説明しています。ここまで長旅を続けてきて、疲れていたでしょう。ヤコブは弱いものたちへの配慮が理由だと言っています。ヤコブ自身も、神様との格闘で腰を痛めておりましたので、足を引きずりながら歩いておりました。彼は弱さを配慮しながらの歩みをするようになりました。それまでは、自分の力まかせで、何でもしていたようなヤコブでした。しかし、今は、自分の弱さ、他者の弱さを理解できるようになりました。

エサウは、それなら自分のしもべを何人か、護衛としてつけようか、と提案しました。15節。

それでエサウは言った。「では、私が連れている者の幾人かを、あなたに使ってもらうことにしよう。」ヤコブは言った。「どうしてそんなことまで。私はあなたのご好意に十分あずかっております。」

ここでもヤコブは「好意」すなわち「恵み」という言葉を用いています。私は、もう十分な恵みを受けている。これも、もっともっと、と貪欲だったヤコブとは正反対です。パウロが神様から「わが恵み、汝に足れり」と言われたことを思い出します。

エサウと別れたヤコブは、近くのスコテというところに家を建てたと、17節に書かれています。天幕ではなく家、ということは、その場所に長期滞在した、という意味です。彼は家畜のためにも小屋をつくった、と書かれています。小屋のことをヘブル語でスコテ、言いますので、ヤコブはその場所をスコテと呼びました。おそらく建てた家もスコテ、すなわち小屋のような粗末なものだったでしょう。決して、そこに永住するつもりではなかったのです。小さな子供が若者になるまで、の滞在だったでしょう。これも家族や家畜への配慮です。これらの振る舞いから、ヤコブは、決して背伸びしない、自分や家族の弱さに合った歩みをし、また欲によって無理をするのではなく、欲によらない生き方、そう言ったことが出来るようになったのではないでしょうか。ですからエサウに対しても、一緒に行くことで迷惑にならないように、と考えたのです。

一つ、問題視される言葉があります。それは14節の最後で、「あなたのところ、セイルへまいります」と言っていることです。セイルはエサウの本拠地で、ずっと南のほうにあります。ところが、この後の部分を読んで行きますと、ヤコブがセイルに行ってエサウと会ったことが出てきません。そこで、またヤコブは嘘をついてエサウに二度と会わないようにしたのではないか、と見る人がいたりします。しかし、やがて父イサクが亡くなったとき、二人は一緒に弔っております。ですから、決してエサウを恐れて、嘘をついたのではありません。聖書は重要なこと以外は、省略して書いています。ですから、スコテ滞在中に、しっかりと歩けるようになったからヤコブが一人でエサウを尋ねていったとしても、おかしくはありません。嘘をついた、と考える必要はないのです。

それよりも問題なのは、18節からです。何年かして、ヤコブはスコテから離れて、ヨルダン川を越えて、シェケムという町のそばに移住します。そこで、20節、「彼はそこに祭壇を築き」、つまり、ヤコブはそこで神様を礼拝したのです。スコテでは、神様を礼拝しなかったのでしょうか。それは書かれていませんから分かりませんが、スコテでは神様との関係において重要なことは無かったから書いていない、ということです。せっかく、エサウとの関係も修復されたのに、神様との関係はどうなったのでしょうか。

ある人は、ヤコブが行くべきところは、ベテルではなかったのか、と考えています。ベテルは、ヤコブが家を出たときに、神様が天からの梯子を見せてくださった場所です。ヤコブの信仰にとって出発点です。彼は、無事に帰ってきたら神様に捧げものをします、すなわち、礼拝します、と約束しています。ですから、本当はベテルに行って、そこで神様を礼拝することが第一にすべきことです。彼は、礼拝を後回しにしていたのです。新しい生き方が出来るようになった、問題も取り除かれた、しかし、ヤコブに足らなかったのは礼拝の生き方です。それを後回しにした結果が、次の34章の悲劇の原因だと指摘する人もおります。34章に関しては、来週、お話しします。

私たちが救われて新しい人生を歩むようになった、その目的は何でしょうか。自己中心、それを聖書は罪だと教えていますが、その罪から救われたものは、自分ではなく、神中心の生き方になるのです。それが礼拝ということです。生活の中心が礼拝です。礼拝を何よりも大切にする生き方です。それが33章のヤコブに欠けていたことです。神様を礼拝する、神様を畏れ敬い、神様に仕えるとき、その神様が正しい道へと導いてくださるのです。まだ、ヤコブは完成されたわけではありません。確かに神様に触れて大きく変わり始めましたが、この後もさまざまな試練を通して成長していくことでしょう。しかし、大切なことは、彼が仕える生き方へと変えられ始めたことです。

まとめ.

私たちが救われ、また大きな恵みをいただいた、それは、自分のためではありません。自分だけではなく他者にも平和と祝福をもたらす、新しい生き方を始めるためです。その中心が礼拝です。そこで神様に仕えることを確認し、御言葉により正しい道を示されるからです。また、教会でお互いに仕え合うことで、仕える者としての生き方を学ぶことが出来るからです。そのとき、罪に従う生き方、自己中心のヤコブの生き方から離れて、しもべとして仕える生き方へとしていただけるからです。それが、イエス様が互いに仕え合いなさいと教えられた生き方です。イエス様ご自身が仕えるために来てくださったのですから、私たちも仕える者となること、それが幸いな人生の秘訣なのです。

 

(c)千代崎備道

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