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礼拝説教「恐れから勝利へ」創世記32章6〜8節(32章全体)
 

序.

ある若者が家を出ていったときは、たった一人で財産らしきものは何も持っていませんでした。しかし、20年後、彼は大家族と一財産を築いて、故郷へと戻ってきました。明治か大正のころの日本でしたら、「故郷に錦を飾る」という表現がぴったりです。しかし、創世記のヤコブの場合は少し違ったようです。彼は故郷に帰ることを恐れつつ、しかし他に帰るところがない。その恐れと不安の中にいたヤコブが、この32章の体験を通して、大きく変えられて行きました。私たちも、クリスチャンであっても恐れや不安を持つことがあります。しかし、それが勝利の信仰へと変えられていく、その秘訣が、ヤコブの体験の中に隠されています。今朝は、「恐れから勝利へ」と題して、創世記32章よりメッセージを取り次がせていただきます。いつものように三つのポイントで。第一に「ヤコブの恐れ」、第二に「勝てない戦い」、そして第三に「変えられた勝利」という順序でお話を進めてまいります。

1.ヤコブの恐れ(32:1〜24)

ヤコブが故郷を出た理由は、父や兄を騙したためです。兄のエサウはヤコブを殺そうと思うほど怒っていました。20年が過ぎた今、彼はまだ怒り続けているのでしょうか。あるいは、昔のことと、水に流してくれるでしょうか。ヤコブはどのように調べたのか分かりませんが、エサウがカナンの地の南東にあるセイル山地にいることを知り、使者を送りました。すると、6節、

使者はヤコブのもとに帰って言った。「私たちはあなたの兄上エサウのもとに行って来ました。あの方も、あなたを迎えに四百人を引き連れてやって来られます。」

エサウは400人のしもべを連れて向かってくる、それが、歓迎のためか、攻撃のためかは、何も言っていません。過去のいきさつを考えるなら、自分を殺すために違いないと、ヤコブは考えたのです。以前、アブラハムがロトを取り返すために敵と戦ったときは、318人の僕を引き連れていったと書かれていますから、400人は敵と戦うに十分な数です。戦いなどしたことのないヤコブの僕たちではひとたまりもありません。ヤコブは非常に恐れました。

彼はまず自分の財産、家畜や召使いを、二つの群れに分けました。一方が襲われても、その間にもう片方の群れが逃げることができる、と考えたからです。それから、エサウに贈り物を届けます。全部で500頭以上の家畜を、いくつものグループに分けて進ませます。受け取る側から見れば、プレゼントがいくつも並んでくれば、悪い気持ちはしないだろう、ということです。様々な手を尽くしてみましたが、恐れは消えません。彼は神様に祈りました。神様が彼に現れたことはありましたが、ヤコブが自分から、しかも必死に祈るのはここが初めてです。しかし、祈っても不安は無くなりません。

私たちも不安の中で祈ることがあります。祈るうちに信仰や平安が与えられることもありますが、祈っても祈っても、悩みが残ることがあります。それは、もしかすると、神様の前に取り扱っていただかなければならない、何かがある、からかもしれません。ヤコブの場合は、まさにそうでした。恐れの原因がエサウであるなら、確かにエサウは即物的な人物です。だからプレゼント作戦で気持ちが和めば、手荒なことはしないはずです。人間が原因なら、人間の努力でどうにかなるかも知れません。しかし、ヤコブの恐れは、外からではなく、彼の内側に原因があるのです。だから、いくら手を尽くしても不安は消すことができないのです。彼の心の中には二つの問題がありました。

第一は、神様への信頼を失っていたことです。ヤコブが家を出たとき、神様はベテルで天からの梯子を見せて、ヤコブを励ましてくださいました。帰ってきたときも、32章の2節を見ますと、神の軍隊をヤコブは見た、と書かれています。いつも神様が一緒にいて守ってくださる。その天使の軍隊が、ヤコブの両側に二つの群れとなっていたのです。その地をヤコブはマハナイムと呼びましたが、それは二つの陣営という意味です。そんな幻を見たなら、恐れる必要はないはずです。しかし、ヤコブが考えたのは、「そうだ、自分も財産を二つの群れに分けよう」という程度のことでした。また祈りの中で、以前に神様が約束してくださったことを語っています。神様の約束の言葉に信頼を置けば良いのに、それもしない。彼の中に神様を信頼する思いが無かったのです。

第二の問題はもっと根本的なことです。彼は恐れのために、夜中に川を渡っています。敵に見つからないためでしょう。財産を渡らせ、家族を渡らせ、あとは自分が最後に渡ろうとしたのですが、どうしても自分自身は先に進めない。彼の問題は、自分自身だったのです。そのことについては、次のポイントの中で詳しくお話いたします。

2.勝てない戦い(32:24〜27)

一人、川を渡れずに残っていたヤコブのところに、一人の人がやってきてヤコブと格闘を始めました。「人」と書かれているのは、最初ヤコブはそれが人間だと思ったからです。しかし、後で、それが神様だったと語っています。この人の正体に関しては諸説があります。天使だと言う説。あるいは人間として生まれる前のキリストだと言う人もおります。どちらにしても、ヤコブからしたら、神様と同じ事です。決して敵う相手ではありません。25節で、「その人は、ヤコブに勝てないのを見て」と書かれていますので、てっきりヤコブのほうが強いと思ったのですが、本当はその人が勝とうと思ったら、簡単に勝てるはずです。ですから、これは、その人が勝つはずなのに、ヤコブが負けを認めないために勝ちにならない、ということです。そこで、その人はヤコブの「もものつがい」を打って、はずした。関節技です。これでは腰が砕けてしまって、戦うことができないのですから、どう見てもヤコブの負け、勝負あり、です。しかし、ヤコブはしがみついたまま、その人を行かせようとしません。そして、「祝福してください」と求めたのです。それが誰かは、まだ良く分からない。でも、祝福を受けなければ、この先一歩も進むことは出来ない。自分の力ではどうすることも出来ない、そうヤコブは知ったのです。これまでのヤコブは、どんなトラブルがあっても、自分の力でどうにかしてきました。しかし、そのために、結局は兄や叔父との関係が悪くなっていったのです。27節、

その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」

彼は自分が「ヤコブだ」と認めました。ヤコブとは「押しのける者」という意味です。他者を無理矢理に押しのけて、自分の思い通りにしてきた。その自己中心な生き方がある限りは、ヤコブはどこに行っても同じ事の繰り返しです。例えエサウと和解しても、また同じトラブルを起こしてしまう。それが自分です。他者をどうにかしても、自分がそのままでは、本当の解決は無いのです。全ての問題の原因は自分だ、そう認めた言葉なのです。

しかし、自分を変えようとしても出来ないのです。独り相撲です。それを、神様は独り相撲ではなく、神様との相撲に変えてくださったのです。よく、このときの体験は祈りを表すと言われます。本当の祈りは神様との格闘です。自分の全身全霊をかけて神様に祈る祈りです。全力で祈るために、結果として断食の祈りをする場合もあるでしょう。徹夜の祈りになる人もいます。形が大切ではなく、また時間の長さでもない。言葉だけで、表面を取り繕う祈りではありません。信仰深いような言い方で、実は神様の前に本当の自分を隠してしまう祈りでもありません。100パーセント自分をさらけ出し、神様にくってかかるような、そんな祈りが、格闘の祈りです。心の奥底にある問題、罪の根っこにある自己中心を取り扱っていただくためには、そのような祈りの時が必要なのです。

自分に行き詰まったヤコブは、神様によって、格闘の祈りへと導かれたのでした。その結果、ヤコブに何が起こったでしょうか。

3.変えられた勝利(32:27〜32)

勝負に勝って試合に負ける、なんて言い方があります。ヤコブはどう見ても負け勝負でした。ただ相手に憐れみを求め、祝福を願っただけです。ところが、28節。

その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」

ここで、その人はヤコブに「あなたは勝った」と言っています。敗北がいつのまにか勝利にすり替えられているのです。全ての上に立っていられる審判者である神様が「勝利」だと宣言したら、負けが勝利に変えられるのです。それは言葉だけのことではありません。この後のヤコブの姿は、来週お話しますが、次の章のヤコブはこれまでのようには恐れていません。いつのまにか恐れは消えていたのです。それは彼の心が変えられたからです。闇の中に隠れようとしていたヤコブが、明るい日の光の中で先頭に立って進んでいきました。それは恐れに勝利したからです。

もう一つ、変えられたのは、彼の名前です。ヤコブからイスラエルに変わりました。聖書では名前は本質を表すことがあります。イスラエルという名前の意味は、「神が戦う」という意味です。確かに神がヤコブと戦いました。また、神の軍隊が共にいてヤコブのために神が戦ってくださる、という意味もあるでしょう。他にも、神が勝利する、あるいは、神が支配する、という意味だという説もありますし、「神の皇太子」という意味だとも言われます。どれにしても大切なのは、「神」という言葉が入ったことです。自分の力で人を押しのけていたヤコブが、神によって生きる者に変わったのです。ヤコブが勝ったのではなく、神のものとされたときに、神の勝利を与えられるものとなったのです。最強軍団の一員にしてもらったのだから、どんな問題にも勝利できる。変えていただいたから勝利なのです。

この、彼自身の変化は、神との関係の変化でもあります。ヤコブは、その人が神であることを知り、神と顔を合わせたのに命を救われた、と語り、その場所をペニエル、後に少し変化してペヌエルになりましたが、もともとの意味は「神の顔」ということです。それは地名が変わったのではなく、ヤコブは神様と顔と顔を合わせることのできる間柄となった、ということです。神様から離れて勝手な生き方をしていたヤコブが、神のものイスラエルとされ、神と共に生きるようになったのです。その時、自己中心ではなく、神様を中心とする生き方が、彼の中に始まったのです。この後も、問題が無くなった訳ではありません。しかし、彼の生き方は、これまでのようなヤコブ、人を押しのける生き方から徐々に変わって行きます。この体験が彼の人生の転機となったのです。

まとめ.

私たちも中にもヤコブと同じ罪があります。それは自己中心です。それを認めないで、外面を取り繕ったり、他者に責任をなすりつけても、決して問題は解決しません。神様の前で、自分はヤコブだ、自分は罪人だと、心から認めるとき、自分では変えることの出来なかった自分自身を、神様が造りかえてくださるのです。それが新しい生き方なのです。

どうしたら、恐怖と敗北の人生ではなく、勝利の人生を送ることができるでしょうか。それは、ヤコブが神様によってそうしていただいたように、問題のさなかで、神様と祈りの格闘をすることです。そして、誰でもない、自分こそが罪人なのだと、神様の前に認める、全面降伏をすることです。そのとき、神様が頑固な私の心に触れて、腰を砕いてくださって、自分の力ではなく、神様によってしか立つことが出来ない自分に変えてくださるのです。自分ではなく、神様が中心となり、神様のために生きる者となったとき、例え自分ではどうすることもできない困難であっても、全能の神様が勝利を取ってくださる、勝利の信仰に立たせていただけるのです。

今日は、この後に聖餐式を行います。聖餐式は信仰による儀式として、すでに洗礼を受けられた方に限らせていただいております。まだ洗礼を受けておられない方は、本当に申し訳ありませんが、見学をしてください。しかし、その大切な意味を知っていただき、ぜひ洗礼を受けていただきたいと願っています。その意味とは、イエス様が私のために十字架に掛かって、肉を裂かれ、血を流してくださったことです。そして、そのイエス様が私の中に入ってくださる。だから、これを受けた者は、これから自分のため、自己中心ではなく、神の御子イエス・キリストのために生きるのです。そのことを忘れないために、この教会では毎月一回、聖餐式を行っております。どうぞ、洗礼を受けてクリスチャンとなられた方も、単なる習慣ではなく、もう一度、キリストを心にお迎えし、キリストのために生きる決意を新たにしてまいりましょう。

 

(c)千代崎備道

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