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礼拝説教「争いの種が祝福の種に変わる」創世記29章31〜35節(29:15〜30:24)
 

序.

説教の中で、ときどきジョークやダジャレが入ることがあります。今回も説教題を考えていたときに、頭の片隅にちょっとした言葉遊びをしてタイトルを付けたのですが、よく考えて見ましたら、誰にも分かってもらえない、いや、ダジャレにもなっていないことに気が付きました。今朝の聖書箇所では、ヤコブという人に沢山の子供たちが生まれます。祖父アブラハムにとっては子孫です。説教題の中にあります、「種」という言葉、ヘブル語ではゼラアというのですが、この言葉は子孫という意味もあります。ですから、ヘブル語を知っている人なら結びつきが分かる。で、誰がヘブル語を知っているのか。自分だけしか分からないダジャレを解説するというのは、とても残念なことです。こういうのを、シャクの種、聞いている皆さんにとっては頭痛の種です。

気を取り直しまして、いつものように三つのポイントです。第一に「罪から生えた芽」、第二に「華々しい争い」、そして第三に「神による結実」。説教題でダジャレに失敗した代わりに、スリー・ポイントは種にちなんで植物に関する言葉にしてみました。

1.罪から生えた芽

創世記29章を読んでいきますと、どうしてヤコブが二人の妻を持つようになったのかが、書かれています。現代の日本でしたら、当然、法律に違反しますが、昔は日本でも、また世界の様々なところで一夫多妻の習慣がありました。また創世記の時代は、まだモーセの律法も無かったくらいですから、法律を当てはめるということはしないほうが良いこともあります。誤解の無いように付け加えておきますと、聖書は決して一夫多妻を薦めているわけではありません。人間の罪もありのままに描いているのが聖書ですので、悪いことを真似する必要はありません。確かに律法を含めて、明確に一夫多妻を禁じている言葉は無いのですが、一夫一妻が神様の御心であることは聖書全体から導き出される真理です。また、一夫多妻の家庭は、どれも様々な問題を引き起こしていることから、暗黙の内に、そうすべきではないことを示しています。ですからヤコブの場合も、今のところは書かれているままで受け止めておくのが良いでしょう。

さて、何故、ヤコブは二人の妻を持ったのか。それはラバンの所為でした。ヤコブは親族を頼って家を出てきました。叔父のラバンと出会い、そこにしばらくお世話になっていたのですが、いつまでもお客さんのままでいるのも迷惑です。おそらく彼はラバンの手伝いをしていたでしょう。ラバンはヤコブが大変に役に立つことに気が付き、彼をずっと手元におけば自分の助けになると思いました。もしかしたら、神様からの祝福の故に、ヤコブがすることはみな成功したのかもしれません。そこで、ラバンは、ただ働きではなく、何か報酬をあげると持ちかけました。一見、親切で言ってくれたように思えますが、実は、報酬によって働く、一種の労働契約です。悪く言えば、ラバンはヤコブを自分の僕としようとしていることになります。それに対し、ヤコブは、ラバンの娘を妻とすることを要求しました。それは、ラバンの義理の息子となることです。ただの僕ではない、という主張でもあります。

さて、ラバンには二人の娘がおりました。姉がレア、妹がラケルです。ラケルは美人だったと書かれています。レアは、美人ではない、ということではありませんが、「目が弱かった」と書かれていて、それは魅力的な目ではなかった、一方のラケルは人を引きつける魅力的な表情だったのだろうと思われます。いずれにせよ、ヤコブが最初に出会ったのがラケルでした。彼はラケルを愛するようになり、そこでラケルと結婚させて欲しいと願いました。普通、花婿から花嫁の父に花嫁料とも言われるお金を渡すのですが、ヤコブは何も持っていません。彼はその代わりとして七年分の労働をすることを申し出て、ラバンも承知しました。七年が過ぎて、結婚の時が来ました。ところがラバンはラケルではなくレアをヤコブの妻としたのです。約束と違う、と起こるヤコブに、ラバンはヤコブの知らなかった習慣を持ちだして、言うことを聞かせたのです。26節。

26 ラバンは答えた。「われわれのところでは、長女より先に下の娘をとつがせるようなことはしないのです。

27 それで、この婚礼の週を過ごしなさい。そうすれば、あの娘(ラケル)もあなたにあげましょう。その代わり、あなたはもう七年間、私に仕えなければなりません。」

こうしてヤコブは、レアとラケルの二人を妻とし、二人分として14年間、ただ働きをすることになったのでした。ラバンから言えば、ただで労働力を手に入れたことになります。つまり、ラバンの狡さ、貪欲さのために、彼はヤコブを騙した。その結果が、二人の妻、ということでした。このような経緯ですから、ヤコブだって、二人の内、どちらを愛するか。もともとラケルが好きでしたから、騙されて娶ったレアよりもラケルを愛したというのも仕方がないことです。でも、レアだってヤコブに愛されたい、そこから妻たちの争いが始まったのです。ラバンの貪欲さと、人を騙すという罪の種が、争いという芽を出して、それが大きくなっていったのが、29章から30章のヤコブの家族の争いです。

私たちの人間関係にも様々な争いが起きることがあります。人と争う原因は、競争心や嫉妬のようなものが自分の中にあるのかもしれませんし、相手が原因かもしれません。また、ヤコブのように、叔父のラバンが悪い、つまり周囲の状況が原因かもしれません。しかし、何が原因だとしても、相手を責めてばかりでは、人間関係は決して良くなることはありません。

あるところに一人のお嫁さんがおりました。彼女の頭痛の種はお姑さんの意地悪というか、悪口でした。それに悩まされていた彼女は、ある人に相談したところ、その人がビンに入った薬をくれました。「この薬は毒薬です。これを毎日、少しずつ、お姑さんの飲むものに混ぜなさい。一ヶ月たったら、死んでしまうから。でも、誰かに怪しまれないように、これから毎日、お姑さんには優しくしなさい」。そこでお嫁さん、言われるままにしてみました。ところが、お嫁さんが優しくなったので、お姑さんも悪口を言うことが無くなり、ご近所にも「うちの嫁は良くできた嫁で」と言うようになったのです。お姑さんとの仲が良くなったら、彼女もお姑さんのことが嫌いではなくなった。でも、これまで毒薬を飲ませてしまった。どうしよう。彼女は毒薬をくれた人に相談に行きました。すると、「ああ、あのビンの中身は、毒でも何でもないですよ。お姑さんは死ぬことはないから心配しないで。それよりもお姑さんと仲良くなれて良かったですね。」

聖書は、人間関係を変える秘訣は、まず自分自身が変わることだと教えます。しかし、なかなか難しいことでもあります。2番目のポイントに移ります。

2.華々しい争い

もともとレアとラケルは姉妹ですから、競争心があったのかも知れません。29章では、跡継ぎとなる子供がいるほうの妻を、ヤコブもより愛すると考えて、子供を産む競争となりました。まずレアには、次々と男の子が生まれ、彼女は四人の息子を産みました。ラケルには子供が生まれない。そこで、彼女は、これも当時の習慣ですが、跡継ぎが生まれないときは、奴隷を通して子供を作ることも行われた。アブラハムの妻サラも奴隷のハガルを用いたことがあります。ラケルは自分の侍女であるビルハという女奴隷によってヤコブの子を産ませ、二人の息子を設けました。数の上では4対2ですが、もともとラケルのほうが好かれていましたから、これだったら自分の勝ちだ、とラケルは思った。そうすると、レアも自分の女奴隷のジルパを用いて二人の息子を産ませました。さらにレア自身ももう二人の息子を産みました。すると今度はラケルに待望の息子が生まれ、彼女は自分の息子にヨセフという名前を付けましたが、この名前の意味は、「神が増し加えるように」。彼女はまだまだ息子が増えることを願っていたのです。

争う心には際限がありません。相手が勝てば、自分もやり返して勝つまで続けます。自分が勝てたら、今度は相手が黙っていません。戦いはエスカレートして行きます。良くなるどころか、ますます問題がこじれていきます。人間の心の中に罪がある限り、争いの種は尽きません。それは、教会の中にまで入り込むことがあります。そして、争いの種は混乱の実を結びます。何でも争いの種となり得ます。

冷房の季節となりましたが、暑がりの人もいれば、寒がりの人もいます。アメリカで一時、独身寮に入っていたときがあったのですが、暑い国出身の人と、寒い国出身の人がいます。冬になると、アメリカはセントラルヒーティングですが、建物全体の温度をコントロールするスイッチがロビーにありまして、熱すぎると思った人が温度を下げると、寒いと感じる人がスイッチを上げて、するとまた誰かが下げる。エンドレスの戦いです。私たちも、暑さ寒さがトラブルの種にならないようにしましょう。暑がりの人が一枚脱ぐ、訳にはいきませんので、寒い人は一枚羽織るモノをご用意ください。教会には様々な人がおります。その違いが争いや混乱となるのではなく、キリストにあって一致するなら、その様々な賜物が用いられ、多様性が生かされていきます。助け合う機会となります。助け合いの畑には愛の実が結ばれます。人数が増えるほどトラブルも増える、のではなく、ますます恵みと愛の多い教会となるようにしましょう。

さて、ヤコブの家族の場合は、ますます混乱が増えていきます。この女の争いとも言うべき競争は、何だか江戸時代の大奥を思わせます。一見すると華々しい世界ですが、そこに争いの種が蒔かれますと、毒の花になります。このままでは、大変なことになりそうです。しかし、神様は、ヤコブの家族にも目を留めていてくださいます。三つ目のポイントに移りましょう。

3.神による結実

最初、レアの方に子供が生まれた理由を、主がそのようにされた、と創世記は説明しています。ラケルが子供の生まれないことをヤコブに文句を言ったときも、ヤコブは、自分は神ではないから、と言っています。ですから、ある意味ではヤコブが二人の妻を持ったことも、子供が次々と生まれていったことも、神様によることでした。一面では人間の罪、それはラバンの貪欲であり、レアとラケルの競争心や嫉妬が原因であることも確かですが、神の計画という側面もあります。罪のために争いとなってしまいましたが、それによってヤコブに多くの息子、つまり多くの子孫が与えられたことにもなっています。神様はアブラハムに多くの子孫を約束されましたが、アブラハムには正式な息子は一人、イサクも二人の息子だけでした。しかし、ヤコブから後は、どんどんと人数が増え、実際に一つの民族が形成されていく。その一歩となったのが、この「女の争い」だったのです。

32節で生まれた息子の名前はルベン、その次がシメオン、それからレビ、ユダ、と続いていきます。これらの名前は、次の出エジプト記以降は、イスラエルの十二部族の名前となって行きます。暗記する必要はありませんが、何度も通読をしておりますと、これらの名前は良く見ますから、慣れておくと読みやすくなるかも知れません。ルベン、シメオン、レビ、ユダに続いて、ガド、アシェル、ダン、ナフタリ、イッサカル、ゼブルン、それからヨセフが生まれ、最後にベニヤミンが後から生まれます。この十二人の名前を憶える競争をすると、争いの種になるかもしれませんので、よしておきましょう。

神様は、競争心も含め、全てのことを用いてくださいます。ヤコブの妻たちの争いを用いて、十二部族の土台を築かれたように、私たちの失敗をも善に変えてくださる力を持っておられるのが、全能の神様です。一人一人に違いがあります。与えられた賜物も異なります。自分が出来ないことが上手に出来る人がいます。そのとき、それを妬んだり、自分の出来ないことを嘆くなら、混乱や争いが生じます。しかし、その違いを神様が生かしてくださり、お互いが出来ることで協力しあうのなら、神様がここを麗しい神の家としてくださいます。それが分かってまいりますと、そして全てを用いて善としてくださる神様に信頼するなら、違いがあっても、争う必要は無くなってしまいます。争いの種であったことが、祝福の種に変えられ、素晴らしい実を結ばれていくからです。

まとめ.

私たちは、競争社会に置かれています。仕事をしておられる方は、当然、そこに競争があります。しかし、それが争いとなり、相手をけ落とすことが第一となるなら、悪い実を結びます。お互いが切磋琢磨して、良い製品を生み出す競争となるなら、良い実となっていきます。競争そのものが悪いのではありません。そこに罪や欲が働くと歪んだ競争となり、争いの世界となります。私たちはそのような世界に生きなければならないかもしれません。また、このような世界で成長してきた故に、私たちの心の中にも争う思いがわき上がることがあります。しかし、そうであっても、全てを祝福の種としてくださるお方を信頼し、その言葉に従って歩むなら、良い実を結ぶ人生としていただけるのです。

周囲の争いは、なかなかなくなりません。最終的には、再臨、すなわち世の終わりにキリストがもう一度来られるとき、全ての争いが終わりとなります。そのときまで、時には忍耐も必要ですが、ヤコブの神様を信頼し、混乱ではなくて平和を作り出すものとなりましょう。良い種を蒔けば良い実が結ばれます。心に御言葉の種を蒔けば聖霊の実が結ばれます。証しの種を蒔けば、救いの実が結ばれます。私たち自身を、祝福の種としていただきましょう。

 

(c)千代崎備道

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