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礼拝説教「骨肉の出会い」創世記29章9〜14節(1〜14節)
 

序.

今朝は、少し変なタイトルをつけてしまいました。骨と肉が出会うとは何だろうか、と思われた方もいらっしゃるかも知れません。骨肉とは近い間柄のことで、たとえば家族、親戚、あるいは同じ民族のことを指す場合もあります。骨肉の争い、という言い方で使われることが多いようです。本来は骨肉とは一体となって助け合い支え合うべき存在です。それが争うようになりますと、悲惨な結果となります。また、骨肉の争いというのは見苦しいもので、あまり見たくはないことです。ところが、聖書の中に、まさに骨肉の争う姿が出てくるのです。それは、聖書という書物は、決して聖なる人々を描くのではなく、人間の現実の姿、すなわち人間の罪深さを教えるために書かれ、人間関係の難しさを描くことで、神による救いが必要だということを示す目的があるからです。今朝は創世記29章の前半から、親戚であったヤコブとラバンという二人が出会った時のことを通して、骨肉、すなわち人間関係を用いて神様が示された救いの道を考えてまいります。いつものように三つのポイントに分けてお話しいたします。第一に「骨肉の助け」、第二に「骨肉の争い」、そして第三に「骨肉の救い主」。変なタイトルと言いながら、スリーポイントも骨肉で揃えてみました。

1.骨肉の助け

さて、先ほど司会者に読んでいただいた、創世記29章9節に登場しますヤコブは、双子の兄であるエサウに命を狙われておりました。それは兄や父を騙して、兄が受けるはずの長男の権利を奪ったからでした。まさに骨肉の争いです。彼は母に助けられ、母親であるリベカの実家に身を寄せることになりました。親戚を頼って、母の生まれ故郷に行きましたが、当時は親戚とは言え、遠いところですから、ヤコブも初めて行く場所であり、会ったこともない親戚です。ところが町の井戸のところで、ヤコブは母の兄であるラバンという人の娘ラケルに出会いました。彼女が水を汲むのを助け、それから事情を話したところ、ラケルは急いで父親のラバンに伝えました。親戚が来たと聞かされたラバンは急いでやってきて、ヤコブを迎えた。それが13節です。聖書はいちいち全部のことを書いていませんが、おそらくヤコブはラバンに、何故自分が来たのか、その理由を全て語ったことでしょう。その時ラバンが言った言葉が、14節。

ラバンは彼に、「あなたはほんとうに私の骨肉です」と言った。こうしてヤコブは彼のところに一ヶ月滞在した。

旧約聖書の世界では、自分の一族を大切にします。ルツ記という書に、「贖い」という言葉が出てきますが、それは、もし誰かが、例えば飢饉のために貧しくなり、とうとう先祖伝来の土地を手放さなくなったとき、さらに落ちぶれて奴隷となってしまったとき、その親戚の誰かが犠牲を払って、売られた畑を買い取り、あるいは奴隷の主人に代金を払って自由の身とすることで、彼が再び自分の土地で生活できるように助ける、この親族による救いのことを「贖い」と言う言葉を用いて描いたのがルツ記です。美しい物語ですので、是非一度お読みください。

家族、親族、同胞、いずれであっても、骨肉は助け合って生きるべき存在です。なぜなら、神様は人間を助け合う存在として作られたからです。神様が最初の人アダムのために、彼を助ける存在として、妻となるエバを造られた、そのとき、アダムは「これこそ我が骨の骨、肉の肉」と叫びました。最初から神様は助け合う存在として人間を造られたのです。その助け合う人間関係の基本が夫婦であり、家族です。それが発展したものが、親族であり、地域のコミュニティーです。それが正しく機能するなら、最も強い助けとなるのですが、その反対に骨肉が争うようになると大変です。二番目のポイントに移ります。

2.骨肉の争い

ラバンがヤコブの話を聞いたとき、「私の骨肉です」と言ったのは、単に親戚であることが分かった、という以上に、ヤコブの中に自分と同じ性質があることを悟ったからです。ラバンとヤコブ、叔父と甥ですが、二人は似たもの同士でした。ヤコブも家族を騙しましたが、この後を読み進めますと、ラバンもヤコブを何度も騙します。ヤコブは十回騙されたと文句を言っています。もちろん、泣き寝入りするヤコブではありませんから、騙し返して、叔父の財産を横取りして、ついには一緒に住めなくなります。まさに骨肉の争いです。

信頼や愛と言った人と人を結びつけるものを破壊するのが、罪です。それは自己中心であり、また自己義認、すなわち私は正しい、間違っているのはアッチだ、という心です。利己的な人間同士は、必ず衝突します。そのとき、お互いに自分は悪くないと言い張れば、争いはエスカレートします。それが人間関係を難しくするのです。聖書は、そのようなトラブルの解決のためには、自分の心にある自己中心に気づき、相手ではなく自分の中に間違っているものがあることを認めることが必要だと教えています。しかし、気が付いただけでは、なかなか解決しません。助けてくれる人、仲介者が必要です。三つ目のことをお話しいたします。

3.骨肉の救い主

「ほら吹き男爵の冒険」という童話があります。この男爵、沼に落ちて困ったとき、自分の首根っこを自分でつかんで、よいしょと持ち上げたそうです。だからほら吹き男爵と呼ばれたのですが。人間は自分で自分を救うことは出来ない存在です。まして、他者を救うことも難しい。だから神様は救い主を送ってくださった。それが聖書の告げているメッセージです。人間関係、すなわち罪の問題で悩む者を救うことは、罪ある人間ではさらに問題がこじれてしまいますから、罪の無い神様だけが救うことが出来る。しかし、本当は骨肉である人間が救うことが正しい方法です。そこで神様は、神の御子を人間として、遣わしたのです。それがイエス・キリストです。イエス様は、私たちと同じ肉体を持って生まれました。人類の親戚、骨肉となってくださった。しかし神の子ですから、罪を犯すことはなかった。そのお方が、人間の代表として全ての人の罪の罰を受けてくださったのです。このキリストを私の救い主として信じるとき、私にとっても骨肉となってくださり、助け、救ってくださるのです。

このキリストにより、特にキリストが私たちの罪を背負うために掛かられた十字架を信じるとき、私たちは新しい人生、罪を赦していただく人生を歩み出します。そのとき、人間関係も変わり始めます。なぜなら、自分の罪を認めることが出来るようになります。相手が悪いと言い続けるのではなくなるからです。やがて相手もキリストを信じるようになると、その関係は大きく変わります。お互いが、赦された者同士として、相手を赦すことが出来るからです。キリストを中心とする夫婦、家庭、そして共同体は、骨肉の争いではなく、助け合う場所、救いが実現するところとなるのです。

まとめ.

今朝は、この後、すぐに聖餐式を行います。聖餐式は、パンと葡萄液をキリストの肉と血を意味するものとして、信仰をもって受け取る式です。それは、神の御子であるキリストが肉体を持って来てくださり、十字架の上で肉を裂かれ、血を流されて、私たちの救いを成し遂げて下さったことを記念することです。この救い主を心にお迎えし、文字通り、私の骨肉となっていただくなら、あなたの人生も、あなたの人間関係も新しくされるのです。今朝は礼拝後に結婚式を行います。新しい家庭も、キリストを中心とする家庭となっていただきたい。この教会もキリストを中心とする教会で在り続けていただきたい。そのとき、骨肉の争いではなく、支え合う骨肉となることが出来るからです。

 

(c)千代崎備道

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