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礼拝説教「ペンテコステの恵み」使徒1章8節
 

序.

教会の外にある掲示板に説教題が掲げられていますが、今週は「ペンテコステの恵み」と書かれていて、道行く人が見たら、ヘンテコな題だと思ったことでしょう。私が子供の頃から言われているダジャレです。クリスチャンになられた方は、ペンテコステが何かはご存じであっていただきたいです。ペンテというのはギリシャ語で数字の5で、ペンタゴンは五角形で、アメリカ国防省の建物の名前です。ペンテコステは50で、イースターから50日目です。この日に聖霊が教会の上に下り、宣教の働きが始まったことから、教会の誕生日だと言われています。もう一つ、私たちの教会が所属しています、日本ホーリネス教団にとっては創立記念日となっています。とにかく、ペンテコステは聖霊降臨日と呼ばれます。では、聖霊とは何か、と言いますと、分かっているようで分からない、大変難しいことです。今朝は、聖霊ということについてお話しをさせていただきます。いつもと違って、聖書の講解という形ではありませんが、大切なことですので、いつもは話しきれないことも含めてメッセージをさせていただきます。聖霊とは何か、それは聖霊が教会に与えられたことによりどれほどの恵みがあったのか、ということにつながります。それを忘れるなら、せっかく聖霊が教会に下られて素晴らしい働きが始まったことが忘れ去られてしまいます。全ての教会に、そして全てのクリスチャンに知っておいていただきたいこと、それがペンテコステの恵みです。

いつものように三つのポイントに分けてお話しいたします。第一に「聖霊なる神」ということ、第二に「聖霊による教会」、そして第三に「聖霊による祈りと信仰」です。週報の内側のアウトラインに沿ってお話ししますが、少し脱線するかと思いますが、ご容赦下さい。

1.聖霊なる神

さて、聖霊とは何か。正しくは、聖霊とはどなたか、と質問しなければいけません。聖霊は、三位一体の神様のお一方です。「お一方」なんて変な言い方ですが、人間では無いので「お一人」と言うのも正しくないので、こんな言い方をします。聖書学院の小林和夫先生は良く「お方様」とおっしゃいます。神様ですから、それくらい尊ぶ言い方をされべきお方で、本当は「聖霊」と呼び捨てにするのは憚られるのですが、聖霊と呼ばせていただきます。

聖霊が分かりにくいのは、その前に三位一体が人間の理解を超えているからです。3が1である、数学では矛盾になってしまいます。神様に関する真理であり、神秘ですから、理解できなくても、そのまま受け止めるしかありません。父なる神、子なる神、そして聖霊なる神、このお三方がばらばらではなく一体であり、お一人の神であり、しかし、三つの人格、人間ではないので神学用語では「位格」と言いますが、三つのご人格を持っておられる。そのお一方が聖霊です。もう一つ、聖霊が良く分からないのは、聖書もあまり多くのことを教えていないからです。特に旧約聖書の時代は、周りの偶像の神々と混同しないように、神の唯一性が強調されておりましたから、「神の霊」という表現は使われますが、あまり詳しい説明はされませんでした。新約でもどちらかというと子なる神であり、救い主であるイエス・キリストについて多くの説明がされていて、聖霊については書かれていることが限られている。しかし、それは聖霊が重要ではない、ということではありません。むしろ、聖霊なくしては教会も聖書もなかったほど、重要なことなのです。

旧約時代から聖霊の働きはあったのですが、それが顕著となったのが新約のペンテコステの時からです。使徒の働き、古い翻訳では「使徒行伝」と呼ばれていましたが、使徒の働きよりも聖霊の働きの方が大きいということで、これは「聖霊行伝」だと言う人もおります。この聖霊のなさることは、実に多彩であり、今の私たちにも重要な存在です。その中で三つのことだけをお話しします。

第一に、聖霊は力を与えてくださいます。旧約時代にも神の霊によって特別な力をいただいたり、大きな働きをした人がたくさんいました。新約では聖霊によって教会は力あるわざを行ってきました。聖霊無くしては教会もクリスチャンも、力を失います。ただ、一つ注意しなければならないことは、聖霊イコール力ではない、ということです。三位一体を否定する人は、聖霊は神の力であって、意志をもった人格ではない、と言いますが、それは間違いです。聖霊は感情やお考えを持っておられるお方です。非人格的な力ではないのです。聖霊に関して誤解されるのは、この点です。ギリシャ語聖書では、突然、文法の話をしますが、ギリシャ語では名詞は男性、女性、中性の三つに分類されます。そのとき、霊という単語は文法上中性に属し、その場合、代名詞は彼ではなく「それ」が使われる。それで、聖霊が「それ」と訳されて、人格ではないかのように誤解されるのですが、あくまで文法上の中性ですから、「それ」ではなく「そのお方」なのです。聖霊は力ではなく、力を与えてくださるお方です。

第二に、イエス様は弟子たちに聖霊のことを、助け主と紹介されました。どのような意味で助け主かと言いますと、イエス様が、人間となられたとき、肉体の故の制限があります。人間ですから疲れることもあります。そのイエス様を助けて、神の働きを出来るようにしておられたのが聖霊です。イエス様がバプテスマを受けられたときに聖霊が鳩のように下ったと書かれています。そのイエス様が昇天され、天にお帰りになった後、弟子たちの群れを、すなわち教会を助けられたのが聖霊です。そして、今でも私たちの助け主なのです。どのように助けておられるか、それが第三のこと。

聖霊は私たちに信仰と救いをもたらすことにおいて、助けていてくださいます。誰も聖霊によらなければ、イエスは主、すなわち救い主だと告白することは出来ないと教えられています。イエス様を信じるとき、聖霊が助けてくださるから、信じることが出来るのです。もう少し、具体的には、聖霊は、私たちに御言葉を悟らせてくださいます。最初は良く分からない御言葉を、段々と分かるようにしてくださいます。頭で理解するのではなく、心の中で、神様からの言葉だと分からせてくださいます。そして聖霊は信仰の決心を促しておられます。決して、無理強いされるお方ではありません。それでは洗脳になってしまいます。あくまで人間の意志を尊重し、しかし、頑固な私たちは信じるのが難しいこともあります。そこで、そっと心の中で語りかけてくださり、信じたいと願っている人の背中を押してくださるのです。信じてクリスチャンになるときだけではなく、今も助けていてくださり、祈るとき、その祈りの言葉を導いてくださいます。

このような大切な働きをしておられる聖霊が、共にいてくださらなければ、私たちの信仰も救いもなりたちません。イエス様が「聖霊を汚す罪は赦されない」と言われたのは、これも難しい意味なのですが、しかし、聖霊がさまざまな形で私たちの信仰を助けようとしておられるのに、その聖霊の語りかけを拒むなら、救いを受けるのは困難です。イエス様が「聖霊を汚す罪」ということを言われたのは、イエス様の教えを聞き、奇跡も見ていながら、なおイエス様が神から遣わされたお方だと信じようとしないパリサイ人や律法学者たちに言われた言葉です。分かっているのに、自分の面子のため、自分が一番でいたいという欲望のため、彼らは聖霊の語りかけを拒んだ、そのためにイエス様を信じようとしなかったのです。

私たちは、御言葉を聞き、祈っている中で、信じよう、神様を信頼しよう、と聖霊が促していてくださるとき、それに素直に従うなら、恵みが与えられるのです。この聖霊なる神の働きに感謝し、従いましょう。

2.聖霊による教会

さて、二番目のポイントですが、この聖霊が下られたことで、教会は力を与えられた、それが使徒の働き、2章から書かれていることです。ペンテコステは教会の誕生日といいますが、生まれる前であっても、弟子たちの群れは以前から教会でした。イエス様も時々、教会ということを言っております。しかし、ペンテコステまでは世界宣教という使命を果たす力が無かったということです。それが、ペンテコステ以来、力が与えられ、正確には弟子たちや教会の力ではなく、聖霊の力ですが、教会は宣教の働きを力強く始め、ペンテコステの日から救われる人が続々と起こされました。120名ほどだった弟子の群れですが。最初の日に3000人が弟子となったと書かれています。人間の力ではなく、聖霊なる神様の力です。

それまでは弟子たちは殺されることを恐れて隠れていました。それが、大胆に命がけで、イエス様の復活を証言したのです。聖霊によって証しがなされたのです。神からの恵みを隠すのではなく、大胆に証しするとき、聖霊が助けていてくださり、用いてくださるのです。

途中ですが、ちょっとコマーシャル。最近の若い人は、15分に一回、コマーシャルが入らないといけない、かどうかは知りませんが。今年は池の上教会50周年ということで、教会員の皆様にお証を書いていただいております。提出期限は6月末となっておりますが、原稿を整理する奉仕の方々のために、出来るだけ早めにお願いします。6月30日にいっぺんに押し寄せますと、大変かと思いますので。神様がこの教会に、そしてお一人お一人にしてくださった恵みを自分の中に閉じこめておくのではなく、大胆に語らせていただき、もっと多くの恵みにしていただきましょう。コマーシャルでした。

さて、聖霊は教会に力を与え、宣教の使命を果たせるようにしてくださいました。3000人、4000人という人が続々と教会に加わったときに、いろいろな人がいますから、混乱します。みんなが自分勝手なことを言っていたら、教会はバラバラになってしまいます。その教会を一体としているのも聖霊です。パウロは教会をキリストの体だと言いました。体のあちこちがバラバラに動いていたら、歩くことも何もできなくなります。教会がキリストの体として正しく機能し、使命を果たすために、主にある一致をさせてくださるのが聖霊の働きです。考え方は様々であっても、イエス様のために、という思いで協力しあうことが出来る、それが教会のあり方です。主の御心に従う教会です。主の愛による一致があるとき、教会は生き生きとします。魅力ある教会となります。そこに人が集まってくるのです。一体となるとき、成長も起こります。

教会が目覚ましい働きをして、多くの人が救われることを嫌うのが、悪魔です。ですから教会が一致することを妨げようとします。また人間の中にある自己中心や名誉欲といった罪が一致を妨げます。それは聖霊の働きに逆らうことです。私の尊敬する大川先生は、若い頃に、この使徒の働きの時のようにぞくぞくと救われる人が起こって欲しい、と願いました。どうして今の教会は、なかなか働きが進まないのだろう。それは聖書の時代のように聖霊の働きがないから。では、どうして聖霊が働いてくださらないのだろう。そう思ったときに、聖霊が働きやすい教会になったら、自然と働きが進むのでは、と考えました。一致をさせてくださる聖霊の働きに逆行すること、たとえば、お互いのことを審き合う、そんな心の中に、聖霊は、いてくださるでしょうが、居心地が悪いでしょう。だから、教会の中でお互いを審き合うことを止めましょう。牧師は信徒を、信徒は牧師を、また信徒同士も、お互いを裁かない。そう言われたときから、その教会の成長が始まったそうです。

池の上キリスト教会も、50周年を迎えました。礼拝も120名となり、この4月から礼拝を二回に分けましたので、10時半からの礼拝も100名ほどのこともありますが、全体では減っているのではありませんが、しかし、この数年、伸び悩んでいることも事実です。しかし、聖霊が働いてくださるとき、それは神様の時もあると思うのですが、しかし、もっともっと多くの方が救いに与って欲しい。教会の働きが前進して欲しいと願っております。そのためにも、聖霊の働きを妨げるようなことがあってはならない。審き合い、分派分裂、自分だけ良ければよいと言う自己中心、そう言ったことが無いように、まず自分自身を吟味しましょう。

来週は、証し礼拝です、お二人の方がお証しをして下さいます。大変、素晴らしい、恵みの機会です。人の話なんか聞きたくない、というのはもったいないことです。他の方が受けた恵みを知ることで、私の信仰にも勇気が与えられ、また神様の御業を賛美する思いが生まれます。恵みが何倍にも増えるのです。100人の方が聞かれたら、恵みは100倍の実を結ぶのです。人数が多くなるとお互いのことが分からないことが出てきます。そのためにも、お互いの証しを聞き合いましょう。毎月の「いずみ」の働きも大切です。どしどし原稿を、お証しをお寄せください。編集の働きをしてくださる方が、困るほどに沢山のお証しを書いてください。コマーシャル第二弾でした。

聖霊は私たちを一致させ、キリストを伝える働きを進めさせてくださろうとしておられます。一致を壊すような言葉や行い、考えがあるならば、そこをまず変えていただきましょう。しかし、そのように思いを変えることも聖霊の働きです。最期のポイントに移らせていただきます。

3.聖霊による祈りと信仰

さて、復活後のイエス様は弟子たちに対して、直ぐに働きを始めるのではなく、かねて予告しておられたように、聖霊が来て助けてくださるから、聖霊を待ち望んで祈るように命令されました。来ることが決まっているなら、なぜ祈るのでしょうか。また、今でも聖霊の働きが力強くなされるようにと、祈ります。しかし、祈ったら必ず聖霊は働かれるのでしょうか。決して、祈りは呪文ではありません。祈りと自動的に聖霊が働かれるなら、人間の思い通りに聖霊を動かすことになってしまいます。祈りの目的はそんなことではありません。

祈りは、自分自身が変わることです。祈っているときに、聖霊が心の中にある罪を示してくださいます。聖霊の働きを妨げる罪、イエス様に従わないようにする罪です。物事を自分の思い通りにしたいという自己中心の罪です。祈っていてもなかなかその通りにならない、何故だろう、そう考えながら、なお祈っていると、祈りが聞かれない原因へと導かれるのです。祈りことで、自分自身が変えられ、悔い改めに導かれます。また、祈り自身も整えられていき、御心に適った祈りへと成長して行きます。そして信仰が変えられていくのです。だから、イエス様は祈りなさいと命じたのです。

弟子たちは十日ほど、祈り続けました。その中で、イエス様を裏切った罪を悔い改めたでしょう。誰が一番かという虚栄心を示されたでしょう。また、これまで教えていただいた御言葉が整理され、救い主に関する理解が深められていったでしょう。だから、ペンテコステの日から、彼らは一致して、大胆に福音を教えることが出来たのです。祈りによって、整えられたから聖霊が働きやすくなったのです。

この最初のペンテコステの日のような目覚ましい働きが、教会の歴史の中で何回もありました。それをリバイバルと言います。各国で、そして日本でもありました。ホーリネス教団も、戦前のことですが、二回のリバイバルを経験し、そのときは非常に多くの方が救われました。このリバイバルの歴史を調べますと、その多くが熱心に祈っていたときに始まったことが分かります。アメリカで、ビジネスマンクリスチャンがお昼休みに集まって一緒に祈った、そこから始まったリバイバルがあります。ホーリネス教団も、聖書学院での祈祷会が発端となりました。リバイバルを求める祈りが今でもなされています。

しかし、ここでも気を付けなければならないことは、教会の働きが爆発的に進むという、いわばリバイバルの実だけを求めやすい、ということです。それは結果です。本当のリバイバルは何か。リバイバルとは、正しくは信仰復興です。祈っている中で信仰が変えられ、眠っていたような信仰が目覚めるのです。そこに聖霊の働きがなされるのです。自分はそのままでいて、結果だけを求めようとすると、上手くいきません。まず自分自身の信仰が変えられなければなりません。それは、悔い改めです。リバイバルは祈りと、そして悔い改めから始まるのです。

悔い改めと言っても、あら探しをすることではありません。罪を示してくださるのも聖霊の働きですから、神様が示してくださったときに、素直にそれを認めて悔い改めるのです。御言葉が心に響いたとき、あるいは自分の心が刺されたとき、神様の前に進み出て祈るなら、聖霊が働いてくださる、その導きに従うのです。ですから、イエス様がおっしゃったように、私たちも祈りましょう。時間の都合を付けて、是非、教会の祈祷会に来てください。また、それが出来ない方も、時間を定めて、ひとつ思いで一緒に祈りましょう。そこから聖霊の働きが始まるからです。信仰が変えられ、成長するのです。ペンテコステの恵みは二千年まえで終わったのではなく、今も続いている恵みです。私たちもその恵みの中にあることを信じ、期待しましょう。

まとめ.

教会の働きがもっと進むように、と多くの方が考えていてくださいます。もちろん、人間の努力や工夫も大切ですが、人間の力だけで宣教は進みません。最終的には、聖霊の助けが無ければ出来ないことなのです。様々な働きをさせていただきながら、主に祈ることを大切にしましょう。そして、祈りの中で、聖霊が私たちの心を整え、信仰を生き生きとさせ、聖霊の働きやすい教会となっていくなら、あとは神様の御心のままに働きは進められるのではないでしょうか。いえ、すでに聖霊の働きは始まっております。それを妨げるのではなく、その導きに従順に従う、その思いを持って、聖霊が豊かに注がれるように祈ってまいりましょう。

『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』

 

(c)千代崎備道

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