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礼拝説教「上からの祝福」創世記28章10〜17節(28章全体)
 

序.

この教会の建物の上、と言いますか、正確には横かもしれませんが、上に向けて伸びているハシゴのようなものは、「ヤコブの梯子」だそうです。今日、開きました28章で、ヤコブが夢の中で見た梯子をイメージしたものだと伺っております。もっとも、夢で見たものなので、どんな形だったかは、よく分かっておりません。ある翻訳では「階段」と訳されております。どんな形であっても、この「ヤコブの梯子」は、天と地を結ぶもので、ヤコブに神様からの祝福があることを象徴しております。ですから、この会堂が建てられたのも、神様の祝福の故であり、また、この会堂で神様を礼拝する私たちの上に、神様からの祝福が豊かにあるようにとの思いが込められているのだと思います。

今朝は、神様がヤコブという人に示された祝福がどんなものであったのか、そして、それが私たちにも与えられている祝福であることを、お話しいたします。「上からの祝福」と題しまして、いつものように三つに分けてお話しいたします。第一に「どん底のヤコブ」、第二に「天からの梯子」、そして第三に「祝福への応答」、です。

1.どん底のヤコブ

この創世記28章に登場するヤコブは、失意のどん底におりました。前の章で、ヤコブは父親を騙して、兄であるエサウが受けるはずだった特別な祝福の約束を、奪い取りました。これで自分の人生は成功が約束されたようなものだ、と思ったら、そうではありませんでした。反対に全てを失ってしまったのです。兄に憎まれ、命を狙われるようになったため、遠い親戚を頼って逃げ出さなければならなくなったからです。今までは自分の家で、何一つ不自由なく育てられてきました。祝福の故にイサクの家は大変豊かだったからです。しかし、その豊かな生活を失ってしまいました。逃亡生活です。たくさんの荷物を持って行くことは出来なかったはずです。身一つと、必要最低限の物を持っての旅です。途中でコンビニも無ければ、ホテルも無い。最初の夜は、野宿です。道ばたにあった石を枕にしました。それまでと比べたら、雲泥の差です。

また、ヤコブは特に母親に愛されて育てられました。その母の愛からも引き離されてしまいました。家族から離れて、それも一時的ではなく、いつ帰ることが出来るか、まったく分からない、もしかしたら一生の別れかもしれないのです。実際、この後、ヤコブは母であるリベカとは会うことが出来ませんでした。

その夜、石を枕にして横たわったとき、彼は何を思ったでしょうか。なかなか寝付けなかったでしょう。そうすると、いろいろなことが思い起こされてきます。何でこんなことになってしまったのだろう。最初は兄が悪い、母親が悪い、などと考えていたでしょうが、でも結局は自業自得です。父を騙して祝福を奪ったのですが、それが初めてではありません。以前にも兄から長子の特権を手に入れようとしました。どうにか人を出し抜いて、自分が良い物を得ようとする。その自己中心な生き方が、こんな結果につながってしまったのです。

もう一つ、ヤコブを悩ませたのは、神様からの祝福についてです。父親のイサクから、父や祖父アブラハムが受けた祝福について聞かされてきました。その祝福の故に、彼らがどれほど豊かになったかを知ったからこそ、自分もその祝福を手に入れようとしたのです。ところが手に入れたはずなのに、今は無一文になってしまった。あの、神からの祝福は本物だったのだろうか。だとすると、自分が求めてきたことは無意味だったことになります。ヤコブは豊かな生活を失っただけでなく、希望までも失ってしまったのです。絶望のどん底でした。

誰の人生にもどん底のような時があるかもしれません。一所懸命に努力してきたのに、挫折してしまうことがあります。人間関係に行き詰まることがあります。受験や就職、結婚や子育て、事業、商売、さまざまな場面で、失敗をしたことが無かったでしょうか。そのとき、何故、そうなったのか、周囲を批判しても、状況は良くなりません。結局は、自分自身の問題を解決しなければ、どうしようもありません。そのような状態に置かれたとき、クリスチャンであれば、自分の心にある罪が原因ではなかったのか、自問自答します。そして、その罪を神様に悔い改めるでしょう。あるいは、聖書の御言葉から励ましや希望の言葉を見いだして、それを信じてみようとします。でも、直ぐに全てが上手くいくようにはならない。信仰をもってやってきたのに、それでも行き詰まったとき、私たちは希望を失います。四方八方がふさがれたとき、上を見ても黒雲があって神様が見えないとき、どうしたら良いのでしょうか。どうすることも出来ないのです。そのとき、神様の方から近づいてきてくださる、それが「ヤコブの梯子」です。その梯子を自分が上っていって何かを得るのではなく、自分は上に昇る力がない、だから神様が一方的な恵みとして下って来てくださる、そのような、上からの助けが必要なのです。努力は大切です。しかし、人間の力が尽きたとき、この、神からの助けが私たちを救うのです。

2.天からのはしご

12節をご覧下さい。

そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。

この梯子と訳されていることばが、大変に珍しいヘブル語で、良く意味が解らないことは、先ほどもお話ししました。形が、日本の梯子のようなものだったのか、あるいは階段のようなものだったのか。形はどうあれ、それは「地に向けて立てられている」と書かれています。口語訳聖書では「地の上に立っていて」と訳されていますが、原文では確かに、「地に向けられて」と書かれています。これは、地面から段々と高くしていって、天に届いた、ということでは無いことを意味しています。創世記の前のほうに、有名がバベルの塔があります。それは、人間が高慢にあって天に届くような塔を建てようとして、神の罰を受けた話です。ヤコブの梯子は神様が作られたものであり、地上に向かって伸びてきているのです。

どん底の状態だった、全てに絶望し、父から教えられた信仰すらも失いかけていたヤコブに、神様の方から近づいてきてくださったのです。夢の中ですが、ヤコブが見ると、その梯子のようなものを、天使たちが上り下りしていた、と書かれています。ある人は、天使がまず昇って、それから下っている、その順番が大切だと説明されていました。天使が人間の祈りを神様のところに届けて、神様がその答えを天使に託して人間へと送り届けてくださる。確かに、祈りの大切さを考えるときに、登り下り、という順序は大切です。でも、祈ることが出来るのも、先に神様が祈ろうと思う信仰を与えて下さったから、祈ることが出来るのです。私たちに、神様が聖霊を与えてくださった、このお方が、祈りを助けてくださるのです。ですから、本当は「上り下り」のまえに、やはり上から下へと梯子がのばされているのです。

ヤコブの場合、彼が寝る前に祈った、というわけではありません。祈る気持ちも起きなかったでしょう。でも、神様が夢を見させてくださった。そして、天使が上り下りしている様子を見ていたら、ふと気が付くと、神様ご自身が、側に立っておられた。この言葉も原文では、ヤコブの上に立っている、という言い方です。寝ていたら自分の上に神様が立っておられる。押さえつけられて、苦しい、金縛りのような状態かしら、ということではありません。この上に立つ、というのは、側に立って見下ろす状態を意味するそうです。13節、

13 そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。 14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。 15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

傍らに立たれた神様は、ヤコブに約束の言葉をかけて下さったのです。それは、父や祖父が神様からいただいた約束の言葉と同じものでした。ヤコブは初めて、神様からの言葉を、自分に対する言葉を聞いたのです。ヤコブは兄が受け継ごうとしていたアブラハムとイサクの祝福を、自分の力で手に入れようとして、失敗しました。ところが、ここで神様のほうから祝福の約束を与えてくださったのです。しかも、それは彼が聞いていた父たちの祝福よりも素晴らしいものでした。

このカナンの地を子孫に与えること、また子孫が地の塵のように多くなること、これはアブラハムもイサクも言われたことです。15節、

15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

「あなたと共にいる、どこに行ってもあなたを守る」、これと似たようなことは、父たちも言われました。しかし、「あなたを連れ戻す」こと、そして最期の「約束を成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」。そこまで言われたのはヤコブだけです。何もかも失ったヤコブに、神様は父たちに勝る祝福を約束されたのです。

聖書が教えていることは、信仰とは神からの賜物だということです。救いも祝福も、全ては神様から与えられるものです。最初は、自分の方から神様に近づいて、自分で信仰を持ったと考えていたのが、段々と聖書を学ぶうちに、実は、自分が神様に近づく前から、神様のほうから手を差し伸べておられたことを知るのです。

人間の努力の積み重ねだけでは、解決できないこともあります。「私は自分の努力でなんでもしてきた」と言える人は、ある意味恵まれているのです。努力が出来る状況であり、努力が報われる社会だったのです。世界の中には極貧国と言われる地域があります。そこでは何を努力しても、どうすることも出来ない貧しさがあります。日本も、段々と変わってきています。いくら努力をしてもダメなのではないか、という閉塞感を感じている人たちが出てきています。実際に、様々な苦難の中で、努力を続けてきたが、その力も尽き果ててしまうことがあります。信仰すらも弱ってしまうことがあるかもしれません。でも、どんな状況に陥っても、全てを失い、全ての力が尽きても、なお、神様は「決してあなたを捨てない」のです。

絶望の淵にいたヤコブに、神様は、人間の努力であるバベルの塔ではなく、神からの一方的な恵みとして、「ヤコブの梯子」を見せて下さり、祝福の約束の言葉を語ってくださいました。それを聞いたヤコブはどうしたでしょうか。

3.祝福への応答

神様の御言葉を聞いたときから、ヤコブの信仰が芽生え始めました。それまでも信仰が無かったわけではありません。信仰があったからこそ、祝福を手に入れようとしたのです。でも、それまでは、いわば、父を通しての信仰でした。イサクが神様を信じて祝福されたから、だから自分も信じよう。それが、ヤコブ自身の信仰となったのが、この28章です。あの人が信じて良いことがあったから、だから私も、ではない。他の人がどうであれ、「私は」この神様を信じる。そのような信仰です。このヤコブの信仰がどのようなものであったのかを、最後に見てまいります。

16節。

16 ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言った。 17 彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」

彼は「恐れ」ました。しかし、この恐れは、恐怖ではなく、畏れ敬うという意味の恐れです。それまでのヤコブは、神様を畏れていたかというと、はなはだ怪しかった。神様の祝福を受けている、神の代理人であるイサクを騙すのですから、神様に対する態度も似たようなものです。しかし、神様が畏れ多いお方だということを、初めて知ったのです。ここは「神の家」、これをヘブル語ではベトエルと言いますが、そこからベテルという地名が出来たと書かれています。18節に「その町の名は」と書かれていますが、ヤコブが寝ていたのは、町の中の広場か、町の近くだったのかも知れません。真っ暗で何も出来なかったので、朝になって、ヤコブは自分が枕にしていた石を立てて、記念としたと書かれています。それは当時の文化では、神様を敬う行為でした。

もう一つは、20節から。

20 それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り、 21 無事に父の家に帰らせてくださり、こうして主が私の神となられるなら、 22 石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます。」

まだ、こうしてくれるなら、という条件付きという点では、まだ信仰が幼いとは思いますが、彼は自分が受ける祝福の十分の一を献げる、と約束しました。これは献身のしるしです。献身とは、伝道者となるために神学校に行って、将来牧師や宣教師となる、というのも献身ですが、聖書は、全てのクリスチャンがすべき献身を教えています。それは、自分を神様に献げることです。具体的には、神様を重んじて、神様を第一として生きることです。ヤコブは、自分の祝福、自分のため、という自己中心の生き方でした。そのために、どん底の状態になってしまった。それが、神様を第一とする生き方へと変えられ始めたのです。

実際に、彼の生き方が変わるには、まだまだ時間が掛かります。この後のヤコブの生涯を見ますと、実際に十分の一を捧げたという記事は書かれていません。書かれていないだけで、したのかも知れませんが、分かりません。しかし、これが単なる口約束ではなかったことは−−18節で、石の柱の上に油を注いだ。この油はどこから出てきたのでしょうか。恐らく、旅のために持っていった荷物の中にあったでしょう。油は、医薬品にも非常食にもなります。逃亡中ですから多くの物は持てない、その中で大切な油を神様のために注いだのです。まだまだ小さな信仰ですが、ヤコブの中に神への恐れと献身の生き方が生まれてきたのです。

神様が御言葉を通して語りかけ、あるいは具体的に助けを与えてくださった。その時、その恵みに応答することから信仰は成長します。いえ、信仰を成長させてくださろうとして、神様は恵みを与え、応答をさせてくださるのです。信仰とは何でしょうか。それは神様を信頼することであり、神様に期待することです。ヤコブは何もかも失った中で、神様の御言葉を聞き、それを信じ、油を、十分の一を捧げても、なお神様はさらなる祝福を与えてくださることと期待し、決して捨てないと言われた神様を信頼したのです。その神様が、私たちにも「あなたを捨てない」と語っていてくださるのです。

まとめ.

誰でも絶望する時があります。行き詰まりがあります。悩み苦しむ日々があります。その中でも、たとえ上も雲が覆っていたとしても、なお神様を見上げましょう。あなたを捨てないと言われたお方を仰ぐなら、神様は上からの恵みをもって私たちを救ってくださるからです。ヤコブが「知らなかった」と言ったように、私たちが知らなくても、目には見えなくても、私たちのためにも「ヤコブの梯子」、天からの梯子があります。この神様が与えてくださった、神様との繋がりを忘れないように、それを大切にしてまいりましょう。この教会もその梯子の一つです。聖書を読むことも天からの恵みを通すパイプです。神様は、今も私を守り導いていてくださいます。苦難の中に置かれていても、神の家へと、祝福への連れ帰ってくださるのです。このお方を信頼し、第一として生きてまいりましょう。

 

(c)千代崎備道

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