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礼拝説教「母の愛より大きな愛」創世記27章6〜13節(27章全体)
 

序.

今日は母の日ということで、ハンドベルの美しい音色を聞かせていただきました。感謝です。母の愛は偉大です。時には理屈では考えられないことがあります。命がけで子供を守ることも、その一つです。確かに母の愛は素晴らしい。でも、人間には間違いもあります。子供を甘やかしてしまう、英語ではスポイルと言い、子供をダメにすることです。また、子供を母親の思い通りにしようとする。コントロールしてしまうと、子供は良い成長ができなくなります。愛は素晴らしいものでも、人間の内側にあるものが愛を歪めてしまう。それを聖書では「罪」と呼んでいます。甘やかすのは、正しさの基準がずれているためです。間違っていても、良いよ、良いよ、で済ましてしまう。子供は善悪の基準が分からなくなってしまいます。子供が間違ったことをしたときには、時には厳しい態度であっても、正しい生き方を教えなければなりません。また、子供を思い通りにしたくなるのは、親のエゴです。自己中心です。子供のため、と言いながら、実は自分のためだったりします。素晴らしい母の愛が、おかしな結果になってしまうのです。

聖書は私たちに人間の現実の姿を示しています。今日は、旧約聖書に出てくるリベカという母親を見ながら、「母の愛よりも偉大な愛」を考えてまいります。いつものように三つのポイントに分けてお話を進めます。週報の内側に簡単なアウトラインがあるのですが、今日はいくつも誤字脱字があります。気が付いた方は、申し訳ありません、ご自分で直してください。第一のポイント、「間違った方法」ということ。第二に「刈り取る果実」、そして第三に「神の計画と愛」という順序で進めて参ります。

1.間違った方法

さて、先ほど読んでいただいた27章には一つの家族が出てきます。リベカの夫がイサク、双子の息子の兄がエサウ、弟がヤコブという名前です。なぜか父親のイサクは兄のエサウのことを愛し、母親のリベカは弟のヤコブを愛した。別に分担したのではありません。むしろ、偏愛です。父は兄だけを、母は弟だけを可愛がった。子供が大きくなったとき、一つの問題が起きました。それは相続問題、と言っても財産ではありません。父のイサクは、祖父のアブラハムから引き継いだものがありました。それは、神様からの特別な祝福です。この祝福を受けたアブラハムもイサクも、豊かになりました。例え、財産が失われても、この祝福があれば、必ず、また豊かになる。問題は、この祝福を誰が引き継ぐか、です。父イサクは、このとき100歳くらいです。病気のため気弱になっていたのかも知れません。イサクは自分が愛している兄息子のエサウに祝福を譲り渡そうとしました。神様に祈って、祝福の宣言をするならば、それを受けた人が祝福を受け継ぐ、と考えていたようです。ところがそれを知った母リベカは、このままだと兄だけが祝福を受け、弟息子のヤコブは祝福されない、と思った。そこで、イサクがエサウではなくヤコブを祝福するようにと、夫を騙すことにしたのです。目が悪くなったイサクを欺いて、ヤコブにエサウの「ふり」をさせました。鹿肉が食べたいとイサクは言ったのですが、山羊の肉で偽物を作りました。騙してでも良いから、ヤコブが祝福を受けるようにしたのです。

なぜ、リベカがそんなことをしたのか、それは単にヤコブへの偏愛だけではありません。実は、双子が生まれる前に、神様が彼女に言われたことがありました。それは、兄よりも弟のほうが祝福される、という約束でした。彼女は、その神様の言葉を信じたからこそ、必死でヤコブに祝福をもたらそうとしたのです。しかし、例え動機が良かったとしても、手段が間違っていたら、それは良いことではなくなります。ヤコブに祝福を与えたい、それが良い思いであっても、夫を騙して良いはずはありません。もちろんリベカだけが悪いのではなく、ヤコブも、母の計画に荷担して、父を騙した。その点でヤコブのリベカと同罪です。

間違った愛を貫こうとしたら、人間関係がおかしくなります。罪は人間関係、そして神様との関係を破壊します。愛は人を生かす、しかし罪は愛を歪ませます。自己中心。また、自分は正しいと言い張る自己正当化。これらの罪があるとき、愛は歪み、人との関係は混乱します。リベカとヤコブによる虚偽のため、兄弟の関係は最悪になり、殺人事件一歩手前になってしまいます。私たちの愛は、正しさに裏打ちされているでしょう。罪が背後に潜んでいないでしょうか。

2.刈り取る果実

ヤコブは、父親を騙すことはいけないと言いました。それは彼の良心ですが、もしバレたら反対に呪われる、という恐怖心によるものでした。心配するヤコブに、母リベカは言いました。13節。

母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。...」

一見、自分が犠牲になっても良いから、ヤコブが祝福されるように、という自己犠牲の愛に見えます。しかし、罪の故に、結果も良いものとはなりませんでした。母は愛する弟息子と離ればなれになります。この後、二度と会うことが出来ませんでした。ヤコブも、祝福を騙し取ったつもりが、この後、彼は苦難の人生を歩むことになります。

罪は実を結びます。その実を誰が刈り取るかは、分かりません。自分の蒔いた種を自分で刈り取ることもあれば、周りの人がその害を受けることもあります。良い種を蒔けば、良い実が結ばれ、良い収穫を得ることが出来ます。しかし、悪い種を蒔けば、悪い実が結ばれ、その悪影響も広いのです。自己中心、自己正当化、間違った価値観や歪んだ正義、これらの罪に基づいて生きる人生は、苦労したことが悪い実となる、実に空しい人生です。

私たちは努力しても上手くいかないとき、それを周囲の所為にします。不平不満を言ったり、誰かを攻撃します。でも、それで良くなる訳ではない。自分の内側にある問題、すなわち自分の心の中の罪を認めるとき、変化が始まります。それをしないと、努力の結果、何も得られないのではなく、努力した分、悪い実を刈り取ることとなるのです。

3.神の計画と愛

さて、ここで終わりでは救いがありません。27章も、それだけを読んだなら、望みが無い。でも神様に目を向ける時に、違った結果を見いだします。詳しいことは来週以降にお話しますが。ヤコブは、確かに苦難の人生を歩みますが、彼の苦悩は別の形で報われます。すなわち、祖父や父が神様に約束されたこと、それは一つの民族の祖先となることです。ヤコブは後に神様からイスラエルという新しい名前をいただき、その子孫がイスラエル民族です。そうなるのは、ヤコブが死んでから何百年もたってからです。ではヤコブが生きている内には、何も良いことは無かったのでしょうか。彼は、この後もしばらく、自分勝手な生き方を続けます。その結果、トラブルも多かったのですが、神様は見捨てませんでした。彼は、罪の生涯を送りながらも、神様の恵みをいただいたのです。完全無欠の素晴らしい人だけが祝福を受けるのではなく、心の中に罪を抱えて悩み、また周囲の人を傷つけているような、私のことを神様は救ってくださるのです。この救いを、ヤコブは身をもって味わったのです。

このヤコブの経験よりも、もっと大きな神の愛を、私たちは知ることができます。それは、ヤコブの子孫として生まれたイエス・キリストにより、イスラエル民族だけでなく、全ての人が救いをいただくことが出来るようになったということです。なぜ、神様はそんな気前の良いことをなさったのでしょう。それは、悪いことをしても良い、ということではありません。それは甘やかしの愛であり、神様の愛とは違います。神様は、罪の思いや行いに対して、必ず罰を下される、正しいお方です。ところが、神様は私たちではなく、他の者が身代わりとなって罰、すなわち罪の故の呪いを受けるようにされたのです。

ヤコブの場合は、長子であったエサウが祝福を受けずに、次男であったヤコブが祝福を奪ってしまった。ではその罰は誰が受けたのか、母リベカが自分で言ったように、彼女が呪いを受けたのか。いえ、それぞれの罪の果実を家族の誰もが受け取りました。私たちの場合はどうでしょう。神の御子、いわば長子であるイエス様が、私たちの身代わりとして十字架に掛かり、罪の呪いを受けてくださった。そのことを信じるとき、私たちの罪が赦され、神様からの祝福を受けることが出来るのです。

まとめ.

母リベカの愛は大変に強いものでした。そのおかげでヤコブは父からの祝福を受け継ぐことができた、と思った。でも、リベカの愛だけではヤコブの人生は救われなかったのです。ヤコブのような人間でも愛してくださる神の愛こそが、ヤコブの人生を変え、ヤコブの子孫の未来までも変えることが出来たのです。そして、この神様の偉大な愛は、時間も民族の枠も越えて、私たちをも救ってくださるのです。神様は、私のような人間には目を留めてくださらない、と諦めるのではなく、この偉大な愛を、ぜひ受けとめてください。その時、あなたの人生も変えられるのです。

 

(c)千代崎備道

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