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礼拝説教「平和の契約」創世記26章1〜5節(26章全体)
 

序.

聖書の中にはカタカナの名前がたくさん出てきて、なかなか憶えられないものです。アビメレクという王様が1節に出てきます。イサクが生まれる前にアブラハムが会ったペリシテ人の王様もアビメレクでした。26章がイサクの息子たちの生まれる前の事件だとしたら、4、50年前です。25章の出来事の後でしたら80年くらい前でしょうか。どちらにしても相当の年齢になっていたかもしれません。しかし、アビメレクという名前、ヘブル語の意味は「私の父は王である」という名前です。王様が自分の息子につける、よくある名前かもしれませんし、息子に自分と同じ名前をつけることは少なくありません。ですから、名前は同じだけれど違う人物、おそらくアブラハムが会ったアビメレクの息子であったとも考えられます。だとしたら、親子二代どうしのつきあいです。アビメレクが名前を引き継いだとするなら、イサクは何を引き継いだでしょうか。神様からの特別な祝福の約束を引き継いだのは、言うまでもありません。そして、その神様に対する信仰も父から学びました。しかし、それとともに、父の罪も受け継いだようです。息子というのは父親の良いところだけでなく、悪いところも遺伝する、のでしょうか。私は、父のような文章を書く才能は受け継がなかったようですが、読めない字を書くのは父譲りです。

さて、イサクはアブラハムに似ている部分もありますが、イサク特有の性格もありました。その一つが、争いを好まない生き方です。今朝は、イサクがペリシテ人と平和の契約を結んだ、26章の記事から学んでまいります。いつものように三つに分けてお話しを進めてまいります。第一に「危機における御言葉」、第二に「失敗における御言葉」、そして最期は「御言葉による平和」です。

1.危機における御言葉(1〜5節)

聖書の中で飢饉がたびたび起こります。もともと雨の少ない地域では、牧草も無くなり、牧畜をしていたイサクのような遊牧民は多くの被害を受けます。イサクはペリシテ人の町に避難をしました。士師記やサムエル記の時代には、ペリシテは強力な軍事国家となっていましたが、創世記の時代はまだ小さな都市国家であったようです。しかし人が集まる場所は、水があるところです。イサクはおそらく多くの羊や山羊を失ったでしょうし、異国の民の中に住むのは楽なことではなかったでしょう。その危機において、神様は始めてイサクに語りかけました。当時は聖書の「せ」の字も出来ていなかった時代ですから、神様が直接語りかける必要があったのです。それまでイサクは、父アブラハムに神様が語られた話を聞いてきました。父を通しての信仰でした。しかし、始めて自分自身も神様の声を聞き、そして、3節、

3 あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。

4 そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与えよう。こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。

ここで神様が約束された内容は、アブラハムに語られたことと同じです。神様の祝福が必ずあること、神様が共にいてくださること。これまでは父への約束の故に何となく信じていた。それが、今、本当に自分に対する約束として信じることが出来たのです。飢饉の中で心細かったイサクにとって、どれほどの励ましだったでしょうか。神様は、この約束の言葉を通して、アブラハムが神様を信頼し、従ったように、イサクも同じ信仰を持つようにと、教えておられるのです。それは私たちも引き継ぐべき信仰です。

神様は危機にあったイサクに語りかけました。今も、私たちが苦難の中にいるときに語りかけてくださるお方です。もちろん、普段、恵まれているときにも、御言葉を通して語っていてくださいます。しかし、問題を抱えているときは、表面的ではなく、心の深いところで御言葉を受け止めるのではないでしょうか。同じ御言葉を読んでも、こうして同じメッセージを来ていても、受け取るところは人により異なります。その人の心の状態に応じて神様が語られ、受け取り方も違ってくるからです。平穏無事な時と、悩んでいる時では、心に響いてくる御言葉が違うのです。神様は十把一絡げに語られるのではなく、一人一人の思いをご存じでいてくださるからです。

難しいのは、危機に陥ったときに、神様の語りかけを「聞く」ことです。苦しいとき、辛いとき、他の人の言葉を素直に聞けないことがあります。どうせ分かってくれない、同じ苦しみを味わったことはないだろう、とねじ曲がって受け止めるなら、せっかくの励ましが伝わりません。神様からの言葉も、聞き漏らしてしまいます。列王記の中で、預言者エリヤは、挫折をして逃げ出したことがあります。そのとき、神様はエリヤに語りかけられた。それは細い御声でした。私たちにも細い声で神様は語りかけられます。苦しみ悩む時には、神様は必ず声をかけて、救ってくださるお方です。ですから、心を開いて、耳を傾けるなら、神様の言葉を知ることが出来ます。祈りつつ聖書を読むなら、何かを語ってくださるのです。その声を素直な心で受け止め、御心を示していただくとき、問題は問題ではなくなり、神様への信頼が生まれてきます。

忘れてはならないことは、語ってくださる神様の御言葉に、どのように応答するか、です。イサクは神様の言葉に、信仰を持って応答したでしょうか。どうも最初は失敗をしたようです。

2.失敗における御言葉(6〜16節)

7節を見ましょう。

その土地の人々が彼の妻のことを尋ねた。すると彼は、「あれは私の妻です」と言うのを恐れて、「あれは私の妹です」と答えた。リベカが美しかったので、リベカのことでこの土地の人々が自分を殺しはしないかと思ったからである。

妻を妹だと偽ることで自分の命を守ろうとする。同じ失敗をアブラハムもしました。しかもアブラハムの場合は二回も同じ事をしています。それをイサクは聞かされていた。どう思ったでしょうか。親父は何て愚かなんだろう、二回も同じ失敗を犯すとは。ところが、同じような状況に陥ったとき、イサクも父親と同じ失敗を犯したのです。罪が遺伝した、という単純なことではありません。アブラハムを通してイサクに示された、神の戒めと教えに学んでいなかったのです。アブラハムが自分の恥を息子に伝えたのは同じ失敗をしないためです。それをしっかりと受け止めていなかったところに、すでに失敗の原因があったのです。最初の人、アダムとエバも、神様からの戒めの言葉をいい加減に聞いていたために、悪魔の誘惑に引っかかってしまいました。私たちも聖書の言葉を真剣に読まなければ、聖書の中の人たちと同じ失敗をしてしまいます。アブラハムやイサクを笑うことはできません。

このイサクの罪の結果、何が起こったでしょうか。美しいリベカを自分のものにしたいと考える人がいたのは当然です。イサクの妹であり、結婚していないと聞かされたからです。父親の時と同様に、イサクは異国の王様に叱られてしまいます。それだけですんだのではありません。彼らの中にイサクに対する不信感が生まれました。だから、やがてイサクが神様の祝福を受けて繁栄したとき、ゲラルの住民は、それを受け入れることが出来ずに妬み、最後はイサクを追い出してしまいました。罪は人間関係を壊します。神様との関係も破壊します。イサクの、大きな失敗でした。

しかし、神様はそんなイサクに対しても真実な方です。約束されたことを実行し、彼を祝福されました。百倍の収穫があったとは、特別な祝福のしるしです。神様はご自分がイサクと共にいるのだということを教えてくださったのです。イサクが失敗したのは恐れからでした。その恐れは、神様が共にいてくださることを忘れたからです。信頼を失っていたのです。そのイサクに、神様は信頼を学ばせたのです。飢饉の時には語ってくださった神様は、この失敗の時には語ってくださらなかったのでしょうか。確かに直接の言葉はありませんでしたが、祝福を通して神様は御心を示されました。また、アビメレクを通して罪に気が付かせ、また妻が取られるという最大の危険からは守ってくださったのです。

不信仰に陥ったとき、私たちの心は聖書の言葉を受け付けなくなります。読んでも素直に受け止められなくなるからです。反発したり疑ったりしがちです。しかし、そのような状態に落ちいった私たちを、神様はそれでも愛してくださり、細い御声で語りかけられるとともに、様々な状況を通し、その中で導いてくださることを通して、御旨を示されるのです。私たちが耳を傾け、目を開くなら、神様が共にいて下さることを知ることが出来るのです。失敗した時でさえ、神様は見捨てるのではありません。失敗の中でも御言葉を与えてくださいます。この神様を信じ、聞き従いましょう。

3.御言葉による平和(17〜33節)

この失敗を通し、確かにイサクは学んだようです。そのことを示すのが、平和ということです。妬みのために、イサクは使っていた井戸をふさがれてしまいます。そして町から追い出されてしまう。さらに他の場所で井戸を掘って水を得ようとしたら、それを奪い取られてしまいます。次の井戸も取り上げられる。そんな理不尽な扱いを受けながらも、イサクは争いませんでした。気が弱かったからでしょうか。自分を殺そうとする父に逆らわなかった、意地悪するやつらにも逆らわない。どうもそんなイメージをイサクに抱いてしまいますが、彼が争わなかったのは、弱いからではなく、信仰の故でした。神様が与えて下さった祝福の約束、どこにいても共にいて下さる、その約束の御言葉を彼は信じ、神様を信頼したのです。ですから、井戸を取られても、神様が必ず次の井戸を与えてくださる、そう信じることが出来たのです。だから、争いをしかけてくるような相手にも平和に応ずることが出来ました。

このイサクの信仰に応えて、神様は24節、

主はその夜、彼に現れて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」

神様はここで再び、今度は夜、もしかしたら夢の中かもしれませんが、神様はイサクに語りかけて、彼の信じていることが確かであると、確信を与えてくださったのです。最初に御言葉を聞いたときはしっかりと受け止められなかったイサクですが、失敗を通して御言葉の真実に触れ、その御言葉に立って平和をもたらした。そして、さらに御言葉により力をいただいた。神の言葉に従って生きるイサクだから、平和を作り出すことが出来たのです。

イサクの生き方と、彼に対する神様の祝福を見たペリシテの王様は、神が共におられるイサクを敵にするのは良くないと判断し、平和の契約をもちかけてきました。喧嘩を売ってきたのはゲラルの人々ですのに、図々しい気がします。29節。

それは、私たちがあなたに手出しをせず、ただ、あなたに良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出したように、あなたも私たちに害を加えないということです。あなたは今、主に祝福されています。」

良いことだけをした、と聞きますと、ちょっと違うと思うのですが、嘘をついたイサクに危害を与えなかったのは確かです。しかし、このペリシテの人々は、イサクを妬み、しかしそれでいながら、祝福されたイサクから自分たちも益を得ようとする、まったくの自己中心です。しかし、そのような人々と、イサクは平和の契約を結んだのです。親しい仲間と平和を約束することは難しくありません。しかし明らかな敵と平和の約束をすることは出来ません。そこに信仰がなければ無理です。イサクは信仰の故に、平和を作り出すことが出来たのです。敵対する者に争いをしかけるのではなく、平和を作り出す。そのような人は幸いである、と山上の垂訓でイエス様が語っておられることを思い出します。

イサクが神様を信頼した、その信仰はどこから来ているのでしょうか。それは、神様が真実なお方であるからです。そして、真実の神は、失敗したイサクを罰する代わりに守ってくださった。だから、自分も敵対してくる相手に対し、報復するのではなく平和に迎え、祝福しようと思わされたのです。この神様が、私たちとも共にいてくださいます。

神様は、私たちと平和の契約を結ばれました。それは、十字架による救いです。人間の罪の故に神と人との間には溝ができてしまった。しかし、神様は逆らう人間を見捨てず、十字架のイエス・キリストが神と人との間に立ってくださり、神との平和を与えてくださったのです。平和の契約として、イサクと王の使者たちが共に食事をし、おそらく契約の儀式として動物を裂いて神に捧げたように、イエス様の十字架の犠牲を通して、神様は私たちとの平和を約束しておられるのです。例え私たちが失敗をし、神様の御心に背いても、神様は御手を伸ばして救い、また御声をかけて教えてくださるのです。それが神の平和の契約です。十字架がその証拠なのです。

まとめ.

私たちもイサクと同じ、弱さを抱えた人間です。いつ神様の御心に反することをするか、分かりません。しかし、神様は、それでも共にいてくださり、私たちと平和の関係を築かれます。それを定期的に示しているのが、聖餐式です。聖餐式でキリストの体と血潮であるパンと杯をいただく度に、十字架による贖いを確認します。この罪の贖いは、旧約聖書、特にレビ記では、罪祭と呼ばれる儀式につながります。それに対し、口語訳聖書では酬恩祭と呼ばれ、新改訳では和解のいけにえと呼ばれる儀式では、神に捧げると共に、人間が一緒に食事をします。共に食べることは和解を意味するのです。聖餐式で一緒にパンと杯をいただきます。それは神様と、そしてお互いの平和のしるしです。教会が一体であるのは、人間的に仲が良いからではなく、たとえ反目することがあったとしても、イエス様の体と血を中心とし、罪赦された者として互いに許し受け入れ合い、イエス様への信仰と服従の故に、一つとなるのです。

神様がくださる、神との平和、そして、そこから始まる人との平和を願い求める者となりましょう。

 

(c)千代崎備道

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