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礼拝説教「人生の三つの秘訣」創世記25章7〜11節(25章全体)
 

序.

聖書の中にはたくさんに人が登場しますが、ある人は詳しく取り上げられ、ある人は少ししか描かれていません。それはちゃんと目的があってのことなのですが、それは後でお話しします。でも、注目されていない人は神様から愛されていないとか、脚光を浴びている人は神様から依怙贔屓されているのではありません。神様は一人一人を恵みのうちに導いておられます。創世記の中ではアブラハムが最も重要な人物として描かれています。その次はヤコブ、それからヨセフでしょうか。どうもイサクは父のアブラハムと息子のヤコブの間で、あまり目立っていないようです。今日開かれました25章も、あまり注目されない箇所です。後半に、ヤコブが兄のエサウから長子の特権を食べ物と引き替えに手に入れた記事は時々引かれますが、それ以外は、あまり印象にないのではないでしょうか。しかし、そこには三人の重要な人物が簡潔ですが示されています。その三人が、それぞれ違った形ですが、神様の祝福を受けている様子を知ることが出来ます。あの三人とは、アブラハム、イシュマエル、そしてイサクです。イシュマエルも祝福されていると言いますと、疑問に思われる方もおられるかもしれません。しかし、神様は、それぞれを祝福しておられるのです。私たちも、人間の判断では、目立つ人もいれば、目立たない人もいる。祝福を多く受けているように思える人も、そうでないと思っている人もいます。でも、神様は一人一人の人生に目を留めていてくださるのです。今朝は、三人の人生を通して、祝福の秘訣、ということを考えてまいります。

いつものように、三つに分けてお話しを進めてまいります。第一に、「信頼する人生」、第二に、「戦う人生」、そして、最期に「とりなす人生」ということをお話しさせていただきます。

1.信頼する人生(1〜8節、アブラハム)

さて、1節からはアブラハムに関する一つのエピソードが書かれています。それは、アブラハムがサラ以外の妻をめとり、6人の子をもうけていた、ということです。すこしびっくりされる方もおられるでしょう。サラの死んだあとに娶ったとしても、かなりの高齢でしたから、6人の子供がよく生まれたと思うでしょう。しかし、必ずしもサラに死後かは分からないのです。聖書の時間の進み方は単純に、直線的ではありませんで、ときどき、少し時間を遡って出来事を報告する場合がよくあります。もし、「これらのことの後」という言い回しを使っていたら、それは確かに時間順で書かれているのですが、25章の最初は時間に関しては、サラの死ぬ前だったと考える学者も少なくありません。だとすると、以前にサラにつかえめハガルのことで失敗したのに、何故、と疑問に思います。また、二人の妻を持っていたのか、という倫理的な問題を感じる人もいるでしょう。確かに、古代においては一夫多妻は明確には禁じられていませんでした。聖書も、特に非難めいた書き方はしておりません。でも、信仰の父と呼ばれたアブラハムですから、倫理的にも立派な生き方をしているはず、と思うと、この記事は納得できません。歴代志という箇所を読みますと、このケトラという女性を、アブラハムのそばめ、つまり側室として紹介していますので、ますます、これで良いのか、と思ってしまいます。

現代の基準を、直接に古代の人々に当てはめるのは、必ずしも良いとは言えませんが、大切なことは、聖書は、一人一人の人物を、ありのままに描いている、ということです。ことさらに美化はしないのです。ですから、もしこれがアブラハムの間違いであったとしても、それを淡々と述べているのかもしれません。しかし、アブラハムの偉大さは、彼が聖人君子だったからではなく、信仰における偉大さです。彼の人生には失敗がいくつもありました。しかし、彼は、失敗しながらも、神様に信頼して生きた。その信仰を、神様も認めてくださったのです。では、この、ケトラをめとったということも、信仰によることだったのでしょうか。

ある人が、このような説明をしておりました。アブラハムが神様からいただいた祝福の約束、その最初の時に言われたのは。アブラハムの子孫が多くの国民となる、ということでした。もちろん、それは約束の子であるイサクを通してなのですが、しかし、神様はイシュマエルの子孫も多くすると約束されました。ですから、彼は、イサクの子孫以外にも、多くの国民が子孫として出てくると信じ、ケトラをめとった。そのような説明でした。アブラハムが何を考えてケトラをめとったのかは書かれていませんし、もしかすると間違っていたかもしれない。でも、神様はケトラをとおして6人の息子を与えてくださったということです。創世記の時代においては、子供が多く与えられることも祝福のしるしの一つでした。ですから、これらの子孫も、神様の祝福の表れです。神様は失敗であっても、それを取り扱ってくださり、祝福に変えることの出来るお方です。

アブラハムは、信仰の父でした。パウロは、アブラハムの信仰を、神様は義と認めたと語っています。もちろん、ヤコブの手紙には、アブラハムの行いによって義と認められたと書かれていますが、その行いとは、良いことをした、という行いではなく、信仰を持ってイサクを神様に捧げる、という、信仰に基づく行いです。ですから、やはり、アブラハムの信仰による義、この義というのは、新約聖書の表現では、救いと同じ意味です。信仰による救いです。

私たちも同じです。イエス様を信じる、その信仰によって救われたのです。救われてからも失敗があります。後から悔い改めることもあるかも知れません。でも、たとえ失敗があっても、神様に立ち帰り、神様を信頼して、もう一度御言葉に従おうとするなら、神様は喜んで助けてくださり、祝福の生涯へと導いてくださるのです。アブラハムだって、完全無欠の人間ではありません。しかし、信仰により生きた、それが祝福の秘訣だったのです。

2.戦う人生(9〜18節、イシュマエル)

二番目は、イシュマエルです。イシュマエルはイサクの異母兄弟でした。本来でしたら先に生まれたイシュマエルの方が長男の権利を持っているはずでしたが、イサクが神様からの祝福の約束をいただいた。そして、イシュマエルは母と共に追い出されてしまいました。もしかしたら、彼は自分を放り出した父アブラハムを憎んだかもしれません。ところが、9節。

9 彼の子らイサクとイシュマエルは、彼をマクペラのほら穴に葬った。

イシュマエルは、父アブラハムの死にあたり、イサクと協力して葬りをしています。彼が父アブラハムを憎み続けなかった理由の一つは、神様はイシュマエルをも祝福しておられたからです。

12節からはイシュマエルの系図です。「歴史」と訳されている言葉は系図の意味でも使われます。13節から15節にあるのは、イシュマエルの12人の息子です。先ほども言いましたように、創世記においては子供が多いことは祝福のしるしであると考えられていました。しかも、12人です。12という数は聖書の中では特別な意味を持つ数字です。イスラエル12部族であり、12弟子です。ですから16節でわざわざ12人と書いてあるのは、イシュマエルが、イスラエルに匹敵する祝福を受けたことを意味しているのです。

イシュマエルの祝福は彼自身というよりもアブラハムの故の祝福でした。アブラハムに関わる者にもアブラハムの祝福は及んでいました。アブラハムと別れる前のロトがそうでした。そしてイシュマエルのためには、アブラハム自身が神様に祝福を求めており、神様もその祈りを聞き届けてくださいました。もし、イシュマエル自身も、アブラハムのように神様を信頼し、従っていたら、もっと祝福があったでしょうが、残念ながら彼の祝福は子孫にまで伝わらなかったようです。

その原因はイシュマエルの生き方でした。開かなくて結構ですが、彼が母親のハガルの胎内にいたとき、神様がハガルに言ったのは、やがて生まれる息子イシュマエルは、野生のロバのようなたくましい生き方をすること、そして、兄弟や周囲の人と戦う生き方となる、そのように予告されたのです。事実、イシュマエルが追い出された理由の一つは、彼が弟イサクをからかうようなことをしたことです。イサクへの対抗意識があったのです。それが本当の争いになり、相続の争いにならないように、イシュマエルとハガルの親子は追い出されたのです。さらに、彼の性質は子孫にも受け継がれました。12人の息子たちは12氏族へと増えて行きました。しかし、その12部族は互いに争った、と18節は告げています。協力するのではなく、戦い合った。そのため、イシュマエルの子孫は一体となって強い国を作ることは出来ませんでした。祝福が無駄にされてしまったのです。

イシュマエルの戦う生き方は、せっかくの祝福を妨げる結果となってしまいました。ところが、聖書は戦いそのものを禁じているのではないように書かれています。もちろん戦争が良いことなのではありません。しかし、当時の世界においては戦うこと自体は日常茶飯事であり、戦わなければ自分が滅びる、弱肉強食の世界でした。でも、だからといって私たちも互いに争い合うようにとは聖書は教えていません。たとえ戦うとしても、誰と戦うか、が問題です。少なくともイシュマエルの子孫は、自分の兄弟である部族同士で戦うべきではありませんでした。では、何とだったら戦うことが大切なこととなるのでしょうか。

イシュマエルの生き方と似ているのが、イサクの次男、ヤコブです。彼も争う人生でした。兄であるエサウと争ったことは、彼の不幸の始まりです。25章の後半には、有名な記事ですが、ヤコブがエサウの持っていた長男の権利を奪い取ったことが書かれています。もちろんエサウの自業自得でもあるのですが、この争い、そして、次には父をも騙して、神様の特別な祝福を奪い取ったことで、彼は父の家から逃げ出さなければなりませんでした。ヤコブは、その次に、頼っていった叔父であるラバンと騙し合いのような争いをします。またヤコブの嫁たちも姉妹なのに互いに争います。それでも神様はヤコブを祝福されて12人の息子が与えられたのですが、彼の争う生き方は、やはり混乱を産み、彼は再度逃げ出すこととなったのです。ところが、最期に彼が争ったのは、こともあろうに神様でした。

彼が兄エサウと戦った理由は、神様の祝福を求めたからでした。そして、最期に神様と争ったときに、やはり祝福を求めて、戦い続けました。彼が求めたのは、実は神様からの祝福であり、その結果、ヤコブは神様と戦って、祝福をいただいたのです。人と、特に兄弟や、骨肉と言われる相手と戦うことは混乱を引き起こします。しかし、神との戦いは祝福につながったのです。では神との戦いとは何でしょうか。

それは神様を敵とすることではありません。そんな戦いをしたら自分が滅びるだけです。神との戦いとは、真剣に神様に向き合い、取り組む姿勢です。これも一つの信仰と言えます。ヤコブは神様を信じていたからこそ、祝福を求めた。しかし、それを人間から受け取ろうとして、兄や父と争い、親戚と争った、それが間違いだったのです。そこで直接に神様に祝福を求めるように、神様はヤコブととっくみあいをしてくださったのです。

私たちも、人との戦いにならないように気を付けなければなりません。もちろん、たとえば商売をされている方には、商売敵ともいうべき相手と戦うことはあるかもしれません。しかし、それは特定の人間との戦いではなく、仕事における競争です。人との争い、特に、主にある兄弟姉妹との戦いを避けなければなりません。でも、知らない間に、そうしていることがあります。人と比べることがそうです。妬みもそうです。それは分裂を引き起こし、愛の関係を破壊します。

では、私たちにとって大切な戦いとは何でしょうか。もちろん、罪との戦い、悪魔との戦い、ということもあります。しかし、それも神様への信頼を忘れて、自分の力で取り組むなら、失敗します。罪の力はそれほど強いのです。もう一つの戦いは信仰の戦いであり、それは神様と四つに取り組む信仰です。神様に対して、表面だけつきあって、当たり障りのないようにする生き方は、神様を心から信頼する生き方とは違ってきます。状況が良いときはそれでもなんとか上手くいきますが、苦難に陥ったときに、神様から離れてしまう危険性があります。信仰を持っていても問題は起きる、そのとき、正面から神様と取り組むのです。「神様、なんでこんなことを私になさるのですか」と喧嘩をするような祈りをしても、神様は受け止めてくださいます。そのような真剣な姿勢で神様に向かうなら、神様は必ず引き上げてくださり、祝福に変えてくださいます。問題だらけの人物だったヤコブが、神様に愛され祝福された理由は、彼が真剣に神様を求めていったからです。戦うのなら、人ではなく神様と戦う、それが二番目の秘訣です。神様に対して表面を取り繕って良い子のふりをするのではなく、ありのままの心で全力で神様に向き合い、祈り、求める。そのような信仰者となりましょう。

3.とりなす人生(19〜21節、イサク)

三人目はイサクです。イサクはアブラハムの祝福を受け継ぎました。神様が特別にイサクを祝福されたのは、依怙贔屓ではなく目的がありました。それはイサクの子孫から救い主を誕生させることでした。ですから、この特別な祝福はイシュマエルには与えられなかったし、エサウも受け継げなかったのです。神様は特別な祝福をイサクに、そしてヤコブに与えられました。しかし、祝福をいただいていても、問題はおきます。祝福をいただいたイサクが直面した問題は、21節です。

21 イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。

イサクの問題は、子供が生まれないということでした。アブラハムの時と同じですが、祝福を受け継ぐべき子供が生まれないということは、祝福の中には子孫が多くなるという約束が含まれていましたので、祝福自体が無くなってしまう、という大問題だったのです。もちろん、当時の文化にあっては、子供が生まれないことは、女性にとっての悩みであることも大きかったのです。そこでイサクは妻のために祈った、と書かれています。これはイサクが始めて祈った祈りです。もしかすると、これ以前にも祈ったことがあったかもしれませんが、聖書が記録しているのは、ここが最初です。イサクの最初の祈りは、自分のためではなく、妻のためでした。神様はイサクの祈りを聞いてくださり、妻リベカは双子を産みました。簡単に書かれていますが、イサクが結婚した年齢は40歳で、子供が生まれたのは60歳と書かれていますから、20年近く、彼らは悩み、祈ったのです。

この時のイサクの生き方、彼の信仰の姿勢は、とりなしの祈りでした。この場合は妻ですが、自分のためよりも他の人のために祈る、祈りです。もちろん、それは信仰による祈りであるのは当然です。祝福を受けていても問題が起こる。そのときには祈ったら良いのです。神様を信じて、祈るなら、神様は聞いていてくださり、期待以上の答えを下さるお方です。特に、その祈りが自分のためではなく他者のために祈ることを、神様は喜んでくださいます。

クリスチャンの祈りの一つの特徴は、良く他の人のために祈ることです。もちろん、自分のために祈ってはいけないのではありません。自分のことはやせ我慢をして隠しておく、なんていう姿勢は、神様の前に正直ではありませんし、信頼の祈りではありません。自分の必要のためにも、祈ります。しかし、自分のためだけではない。他者のために祈る、取りなしの祈りを、神様は喜ばれます。それは、何故でしょう。アブラハムが神様から祝福の約束をいただいた、最初のとき、神様はアブラハムに対し、彼を通して、そして彼の子孫を通して、全ての人々が祝福を受ける、と言われました。ですから、アブラハムやイサクが他者のために祈ることは、神様の御目的に添った祈りなのです。口語訳聖書の言葉では、祝福のもといとなる、と書かれています。祝福のもとい、祝福の源泉となることが、神様のお考えなのです。

恵みをいただいたときに、それを自分の独り占めにするのではなく、他の人のためにそれを用い、また恵みをお伝えし、そして取りなしの祈りをする。それが神様の御心であり、そのような生き方をする人を、神様は祝福しないハズがないのです。人のために何かをしたり、祈ったりしたら、自分の分の祝福が減ってしまう、そんなケチな祝福ではないのです。神様は、あふれるばかりの豊かな恵みを与えて下さる、そう信頼して、祈るのです。そのとき、イサクの祈りが聞かれ、一人ではなく二人の息子が与えられたように、神様は私たちの祈りに、豊かに応えてくださるのです。

まとめ.

私たち、一人一人も、これまで様々な祝福をいただいてきました。忘れていたり、感謝をしなかったこともあったかもしれません。しかし、私たちが理解している以上に多くの恵みを神様は与えてくださいました。その祝福を自分のところで止めてしまうのではなく、恵みにお応えしてまいりましょう。それは、ますます神様を信頼することであり、もっと豊かな祝福を大胆に求めて、神様と取り組む生き方であり、そして、祝福の基として取りなしの祈りをする生活です。それが祝福の人生なのです。

一人一人がそうであると共に、私たちの教会も、多くの恵みをいただいてまいりました。今年は50周年を迎えます。50年の間の恵みを忘れないために、記念誌が計画されています。この恵み、豊かな祝福を、私たちも独り占めしてはなりません。さらに豊かな祝福を求めつつ、他の方々のために、それを用いていきましょう。具体的には、第一に伝道です。チャペルコンサート、グレースランチョン、そして6月には特別伝道会が行われます。祈って備えましょう。身近な方にお伝えしましょう。第二に、他の教会のことにも目を向けましょう。世界中の全ての教会、というと「広く浅く」になりがちです。特に近い関係にある教会のことを知っていただきたい。私が遣わされて来た事をきっかけに、ホーリネス教団のことを紹介してまいりたいと思っています。第三に、同じ教会に連なる兄弟姉妹のために祈りましょう。特に、小さな子供たち、そして若者たちのために祈ってください。またお年を召されて、またはご病気のために、教会に来ることのできない方々のためにお祈りください。取りなしの祈りをたくさん捧げてください。それが神様の恵みに応えることだからです。そして、50年目、これまでに増して、祝福をいただく年としていただきましょう。

 

(c)千代崎備道

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