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礼拝説教「確かな決断」創世記24章6〜15節(24章全体)
 

序.

朝のテレビドラマで、たった五日で花嫁、という話がありました。お見合いをしてから五日目にはもう結婚という話でした。今日、開かれました創世記24章に出てくるのは、たった二日で結婚が決まった話です。人生において最も大切なことの一つであるのに、そんなに簡単に決まって良いのか、と思うくらいです。しかし、本人も周囲の家族も、この重大な決断が、決していい加減なものではない、確かな、正しい決断であることを確信しております。実際、決断の正しさは、時間の長さとは別問題かもしれません。きわめて短時間で命が掛かるような重要な決断をしなければならないこともあります。お医者さんは、そのような決断をする職業です。あるいは飛行機のパイロットも、着陸すべきかどうかを迷っていることは出来ません。彼らの決断を支えているのは、確かな技術や知識と、長年の経験や訓練でしょうか。

さて、私たちも様々な決断をします。そのとき、時間がかかるにしても、そうでないにしても、どこかで決心をしなければならない。その決断が確かなものであると確信を持って判断するために、どうすれば良いか。特に、クリスチャンとして、信仰をもって決断するためには、何が大切なのか。今朝は、創世記24章に出てくる人々の姿を見ながら、決断の根拠は何かについて考えてまいります。いつものように三つのポイントに分けたいと思います。第一に「祈りによる決断」。第二に「導きによる決断」。そして第三に「神に従う決断」です。

1.祈りによる決断

先ほどは司会者の方に創世記24章の6節から読んでいただきました。当たり前のことですが、これは先週お話しました箇所の続きです。アブラハムは、自分の一番信頼できるしもべに、息子イサクの嫁を探してくるようにと命じました。この名前のない僕は、神様に誓って、この使命を託されました。自分の主人一族の未来を決定する、大変に責任の重い使命です。彼を支えたものは、それは主人の約束と命令です。7節。

私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える』と約束して仰せられた天の神、主は、御使いをあなたの前に遣わされる。

この言葉を僕はどのように受けとめたでしょうか。彼は、神様から直接に言葉を聞いた経験はありません。しかし、主人アブラハムが神様の言葉を聞いたことは、何度も聞かされていたでしょう。そして、それが本当であることを、アブラハムの生涯を見ていて、はっきりと信じたことでしょう。確かに、神様がアブラハムを祝福している。神様の約束は確実に実現している。ですから、アブラハムから神様のことを聞かされたとき、それは彼にとっては、神様からの言葉と同じだったのです。今の私たちと違い、当時は聖書が無かった時代のことです。直接神様から聞くか、神様の言葉を聞いた人、この場合はアブラハムの言葉を通してしか、神様のことを知ることは出来ないのです。ですから、このしもべにとっての主人アブラハムの言葉は、私たちにとっての御言葉と同じ重みがあったということです。

その主人が、「天の神、主は、御使いをあなたの前に遣わされる」と言った。神様がアブラハムと一緒におられることを、彼はよく見て、知っていました。ですから、そのアブラハムから、神様の御使いが先に遣わされていると言われたとき、それを文字通り信じたのです。ですから、必ず、イサクの妻となる女性は備えられている。後は、自分がその女性を見つけることが出来るか、です。

僕はラクダ十頭に、たくさんの贈り物を背負わせて出発しました。アブラハムのいた所から彼の故郷までは、正確な場所は分かりませんが、およそ一ヶ月の旅路だと言われています。それは困難な旅でしたが、お嫁さんを見つけることに比べれば、重大なことではなかったようで、途中のことは省いて書いています。11節。

11 彼は夕暮れ時、女たちが水を汲みに出て来るころ、町の外の井戸のところに、らくだを伏させた。

12 そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。

町に着いたとき、彼は神様に祈りました。その祈りは、「私のために取りはからって、主人アブラハムに恵みを与えてください」という祈りです。つまり、神様の助けによって任務が果たせるように、ということです。具体的には、その後に書かれていますが、簡単に言いますと、「私の目の前にその女性を連れてきて、その人が間違いなくお嫁さんだと分かるようにしてください」ということです。ずいぶん、ムシの良い願いです。それだったら、誰でも簡単に任務が果たせます。

しかし、この祈りの持つ意義は、そんなムシの良いことではありません。それは、祈ることで、最も大切な決断を神様に委ねている、ということです。それ以外のこと、すなわちその女性の家族と交渉して連れ帰ることは、彼のすべき責任です。行き帰りの旅路も自分自身で果たさなければなりません。しかし、最も重要なところは、神様に委ね、神様の意思に従う、ということです。彼は祈って、そして神様に委ねて決断をした。それが確かな決断の秘訣です。

十字架の直前に、ゲッセマネの園でイエス様が祈られた祈りを思い出します。イエス様は、まもなくお受けになる十字架の重さ、すなわち父なる神様との関係が絶たれ、罪の呪いを一身に受けるという、その重さをよくご存じでした。だから「出来ることなら、この杯を去らせてください」と願ったのです。しかし「私の願いではなく、父なる神の御心のとおりにしてください」と、委ねられたのです。

これらの祈りは、神様への信頼と、神の言葉が必ず成就することへの信仰が無ければ、祈ることはできません。神様は信頼を寄せる者を決して見捨てないこと、そして御言葉、このしもべの場合は主人アブラハムの言葉を通して示された神の約束です、その約束を必ず神様は果たしていてくださる、と信頼したのです。そして、確かに神様は約束通りに、先に御使いを遣わしていてくださったのです。彼が町に到着して祈るよりも前から、祈りの答えを用意しておられた。ですから、ちょうど良いときに、イサクの妻となるリベカがそこにやって来たのです。

私たちも、何か重大なことをする前に、祈ります。その祈りは、決してお守りのように「祈っておいたらひと安心」ということでもないし、また御利益宗教のように「祈ったら何でも願いが叶う」ということとも違います。まして、祈ることで神様を思い通りに動かそう、ということではないのです。祈りは、神様への信頼です。神様の言葉への信頼であり、祈ったら、後は神様の御言葉に従うのです。そのように神様に一番大切なことを委ねるほどに信頼するなら、神様はその信頼に応え、祈る前から祈りの答えを準備しておられるのです。15節。

15 こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。リベカはアブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘であった。

神様は、アブラハムの兄弟のナホルに息子ベトエルを与え、そのベトエルからリベカを誕生させておられたのです。神様は何年も前からリベカを備えておられたのです。僕が祈る前から、しもべの祈りに応えておられたのです。

2.導きによる決断

祈ったら、あとは全自動で物事が上手く進む、ということではありません。神様が祈りに応えてくださる、そのことを一つずつ確認しながら進む必要があります。なぜなら、神様の導きは一歩ずつだからです。信じて一歩踏み出してから、次の道を示してくださる。一歩を踏み出さなければ、先の道は分からないのです。ですから、神様の導きを信じ、その導きにより歩みつつ決断をしていくのです。

僕は、「水を飲ませてくれる娘を」と祈りました。そして、その通り、一人の娘が登場して、彼とラクダに水をくれました。井戸から水を汲むのです。コップ一杯ではありません。十頭のラクダがどれくらい水を飲むかは知りませんが、何回も水を汲み、水がめを運びました。確かに、親切で、働き者で、気が利く娘です。イサクのお嫁さんにぴったり。おまけに「非情に美しい」と書かれています。こんなに条件の良い女性だったら、間違いない、でしょうか?そうではありません。神様の選ばれた人でなかったら、どんなに条件が良くても、それは人間の基準に過ぎません。では、神様の選ばれた人であることをどのように知ることが出来るでしょうか。

確かに、祈った通りに、良い娘が現れました。しかし、その女性がどんな人か、特にその信仰が問題です。カナン民族のように恐ろしい神々を拝むような女性だったらどうでしょうか。まだ分からないこともありますが、22節。

らくだが水を飲み終わったとき、その人は、重さ一ベカの金の飾り輪と、彼女の腕のために、重さ十シェケルの二つの金の腕輪を取り、

この金の飾りは、ただの贈り物ではなく、結納とまではいきませんが、結婚の申し込みの意味をちょっと含んだプレゼントです。贈り物をしてから家族のことを尋ねました。つまり、どこの家の娘であろうと、とにかくアブラハムの故郷の女性というのが条件ですから、神様が選んだ娘なら大丈夫だろう、と信じて決断をしたということです。ところが、彼女の答えを聞いて、びっくりしました。「ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘」というのは、アブラハムの近い親戚です。しもべの祈りは、神様が、良い妻を定めてください、との願いでした。神様は、僕が期待した以上の結果を下さったのです。最初に、この娘で良いと信じて、一歩進み出てみたら、確かにこれは神様の導きだと分かったのです。

リベカの家に行き、家族と会いました。リベカの家族もびっくりしました。遠くに行った親戚の家からの使いです。アブラハムが故郷を出てからの話を聞きたかったでしょう。すぐに歓迎の食事が用意されましたが、しもべは自分の責任を果たすまではもてなしをうけるわけにはいきません。これまでの経緯を詳しく述べています。37節から48節までは、24章の前半をもう一度述べているので、読むのが面倒くさくなりますが、同じ事を繰り返すのは、それが大事なことだったからです。でも時間の都合で、とばしまして、48節から。

48 そうして私はひざまずき、主を礼拝し、私の主人アブラハムの神、主を賛美しました。主は私の主人の兄弟の娘を、主人の息子にめとるために、私を正しい道に導いてくださったのです。

49 それで今、あなたがたが私の主人に、恵みとまこととを施してくださるのなら、私にそう言ってください。そうでなければ、そうでないと私に言ってください。それによって、私は右か左に向かうことになるでしょう。」

50 するとラバンとベトエルは答えて言った。「このことは主から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません。

51 ご覧ください。リベカはあなたの前にいます。どうか連れて行ってください。主が仰せられたとおり、あなたの主人のご子息の妻となりますように。」

しもべの話を聞いて、ラバンとベトエルも、このことが神様から出ていることを理解しました。この二人、すなわちリベカの兄と父は、一家のことを決める立場です。二人とも、神様が全てのことを導いておられることを信じ、神様に任せることを決心しました。

信仰者として、大切なことを決断するとき、私たちはまず祈ります。祈って、神様を信頼し、歩み出したとき、神様は少しずつ道を示してくださいます。もし、間違った道を選んだのなら、それを教えてくださいます。時には御言葉を用い、時には他の人の言葉を用いて。そして神様が祈りに答えてくださったと分かったとき、私たちは神様の御心であることを確信します。あるいは、一歩進み出したとき、神様が状況を整えてくださり、確信がさらに確かにされていきます。ヨシュア記でヨルダン川を渡るとき、祭司たちが足を一歩踏み出したときに水が止まりました。ヨシャパテという王様は、大軍に攻められたときに、神様を信頼して賛美をしながら戦いに臨み、大勝利を納めました。信仰を持ったら、将来のことが全部分かるようになる訳ではありません。でも分からなくても、導いてくださる神様を信頼して踏む出すことができるのです。

信仰があっても無くても、この先何が起こるのか、最初から全部分かっている人はいません。しかし、神様を信じて一歩を踏み出す決断をするとき、神様が導いてくださり、その導きに従っていくとき、確かな道へと進むことができるのです。

3.神に従う決断

さて、ラバンとベトエルはリベカをイサクの嫁とすることを了解しました。ところが、アブラハムのしもべが、次の日の朝、すぐに出発しようと言い始めたとき、二人は反対しました。人情的に、家族を突然に送り出すことへのためらいもあったかもしれません。しかし、神様が定めたことに、すぐに従わないで、いろいろな理由を付けて先に延ばすことは、必ずしも従順とは言えません。遅らせているうちに、従うことを辞めてしまう場合も少なくありません。どうしたら良いでしょう。二人は本人に選ばせることにしました。リベカも、神様の導きを感じ、それに従おうと思ったのです。リベカの下した決断は、「直ぐに、そして自ら進んで従う」ということです。家族と別れを惜しむことよりも、神様に全てを任せることを選んだのです。

信仰による決断は、服従と献身を伴うものでなければなりません。神様を信頼して決断したのですから、神様の言葉に従うこと、それも進んで従うことが無ければ、信頼を持っていないことになります。また、神様が導いてくださるのですから、自分の思い通りではなく、神様に従い、身を委ねるのでなければ、導きを無視することになります。信仰による決断は、服従であり、献身の生き方なのです。

リベカは、神様を信頼し、神様に従い、自らを捧げる信仰を持って、まだ見たこともない相手と結婚するために、行ったことの無い国へと出発できたのです。彼女の信仰は、12章で最初にアブラハムが神様の言葉に従ったときの信仰と同じものです。そのリベカの信仰に応えて、神様はヤコブ、すなわちイスラエルを誕生させてくださったのです。神様は、神様を信頼し、自分を委ねて従う者を、決して見捨てることなく、必ず導いてくださり、助けを与えてくださるお方なのです。

まとめ.

今朝は、アブラハムの僕、ラバンたち、そしてリベカ、それぞれの信仰と決断を見て参りました。この後のイサクやリベカへの祝福を見るなら、確かに神様の導きがそこにあったこと、そして彼らの決断は確かなものであったことを知ることができます。しかし、彼ら自身は結果がどうなるかを予め知っていたのではありません。信仰による決断は、結果が出てから信じて従うのではなく、結果が出る前に、まず神様を信頼するところから始まるのです。そのように信頼と祈りを持って決断し、一歩ずつ神様の導きに従いながら勇気を持って進み、神様に従うのです。それは、明日がどうなるかは分からないという点では不確かな選択に見えるかもしれません。しかし最も確かな決断であり、確実な人生なのです。見えるものに頼って歩む道は、いつ崩れるか分かりません。しかし、見えない神様に従って歩む道は、全能の神様が支えていてくださる。そのことを心に留めて、信仰生涯を進んでまいりましょう。

 

(c)千代崎備道

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