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礼拝説教「死から命への出発」創世記23章19節〜24章4節
 

序.

今週から再び創世記に戻ります。創世記は、11章までは世界の始まりに関して書かれていますが、12章から神の民イスラエルの歴史が始まります。神様はアブラハムを選び、その子孫がイスラエル民族となっていくのですが、去年は23章までのところをお話しました。24章からは、中心人物がアブラハムから、その息子イサクへと切り替わり始めます。そのイサク時代の始まりとなった出来事が24章のイサクのお嫁さん探しです。今朝は、新しい時代がどのように始まったのか、その背景となる小さな出来事を取り上げてまいります。

今朝の説教のタイトルは、「死から命への出発」としました。ちょっとストレート過ぎると思いまして、最初は違う題をつけていました。「祝福への再出発」としようと思ったのですが、どうもどこかで聞いたことがある。調べてみたら、去年、自分がつけた説教題でした。危うく、同じ題をつけるところでした。物忘れが酷くなった、とは申しません。酷くなったのではなく、元々です。それはさておき、今朝もいつものように、三つのポイントに分けてお話を進めてまいります。第一に「葬りの悲しみ」、第二に「祝福への応答」、そして第三に「信仰による行動」という順序で語らせていただきます。

1.葬りの悲しみ(23:19)

先ほど読んでいただいた箇所を、もう一度見てみましょう。23章の19節。

こうして後、アブラハムは自分の妻サラを、カナンの地にある、マムレすなわち今日のヘブロンに面するマクペラの畑地のほら穴に葬った。

地名は良く分からなければ飛ばして読みますと、アブラハムは自分の妻サラを葬った、と書かれています。家族を葬る、ということがどれほど悲しいことであるか、多くの方が身をもってご存じだと思います。アブラハムの心も私たちと同じです。

アブラハムにとって、妻サラはどんな存在だったでしょうか。結婚したときの年齢は分かりませんが、二人が故郷であるハランを出発したのは、アブラハムが75歳、サラは65歳でした。それは、「私が示す地に行きなさい」という神様の言葉に従っての出発でした。神様の約束以外、何も目に見える保証はない。しかし、様々な困難がありました。親族との別れ、近隣の国との戦い、飢饉もありました。何より、神様の約束があるにもかかわらず、子供が生まれない、という悩みがありました。家庭内に問題が起こったこともありました。一方、とうとう約束の子であるイサクが生まれたときの喜びはどれほどだったでしょうか。二人は、そのような苦しみも喜びも、共に味わってきたのです。そのような、長年一緒に歩んできた者を失う悲しさや寂しさは、どれほどだったでしょうか。アブラハムは様々な思いを抱きながら、妻を葬ったのでした。

この時の葬りがどのようなものであったのかは、聖書には書かれていません。時代も文化も違います。創世記の最後の方で、アブラハムの孫であるヤコブが亡くなったときは、エジプトの国賓扱いでしたので、盛大な葬りでした。国全体が70日にわたり喪に服しました。その後、七日間にわたっての葬儀があったと書かれています。サラの場合が、これよりも長いのか短いのかは分かりませんが、アブラハムと、息子のイサクにとっては必要な時間をかけたことでしょう。人間と人間の関係、表面的ではなく、人格と人格とが向き合うような交わりというのは、一朝一夕ではなく、長い時間をかけて築き上げるものです。ですから、そのような相手との別れにも、それだけの時間が必要です。生物学的には、一瞬か、比較的短い時間で人間の死は訪れますが、愛する人が亡くなったことを受け入れていくのは、長い時間とプロセスが必要なのです。

仏教では亡くなってから七日目、四十九日目、などの式があります。それは歴史の中で徐々に出来てきたものでしょうが、今では日本の文化の中で定着しています。そのような儀式を何度も行うことで、徐々に亡くなったことを受け入れ、消化していくのではないかと思うのです。キリスト教では特に決まっているわけではありませんが、日本においては、同じようなことを行うことは、ご遺族の慰めのために大切な意味があると思わされています。ごく近い人が亡くなったような場合、時にはそれが現実のこととして受け入れるのが難しく、最初の何日間かは涙のような感情のほとばしりが無い場合もあります。しかし、日が経ってから、ある日突然に涙があふれ出してくる、ということがある、と聞いたことがあります。死を受けとめるのは、時間が掛かるのです。

アブラハムも、何日かは悲しみの中に過ごしたでしょう。しかし、いつまでも悲しみに留まるべきであるとは、聖書は教えていません。やがて、時が来たら、死の悲しみから立ち上がり、将来に向けて歩み出すことが神様の御心です。では、どのようにしたら、死から命へと目を向けることが出来るのでしょうか。

2.祝福への応答(24:1)

24章の出来事は、おそらくサラの死から二年後か三年後と考えられます。1節。

アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。

サラが召されてからも、それまでと同様、神様はアブラハムを祝福しておられた、ということです。旧約聖書では、祝福というのは具体的、物質的な祝福を指す場合が多いのですが、ここでは「あらゆる面で」と書かれています。人間関係においても、心の問題に関しても、祝福があったということでしょう。その祝福は、悲しみや悩みが無いということではありません。サラの死による悲しみがあった。しかし、希望を失うことはなかった。平安を持つことができる。それが、クリスチャンの遺族に与えられる祝福の一つでしょう。もちろん、日々の必要が与えられていることも恵みです。慰めや励ましを与えてくださる、周囲の人を、神様は備えていてくださいます。悲しみの中で、何もできないような状態であったとしても、神様は祝福と恵みを与え続けていてくださいます。

救われて、神様の豊かな恵みをいただいている者には責任があります。それは、その恵みにいかに応答するかです。もちろん、それは家族を失ったときだけではなく、どんなときも、です。苦しみの中でも、悩みの中でも、神様の祝福に応答する生き方が大切です。なぜなら、神様の恵みに応じることが、神様の前に生きることだからです。神様が共にいてくださり、様々な恵みを通して語りかけていてくださるのに、何も応えようとしないなら、それは神様の前に生きていないのです。私たちが救われて永遠の命をいただいている、それは神様の前に生きているということです。ですから、与えていただいている祝福に、応答する、それが救いをいただいた者の生き方なのです。

神様の祝福にお応えする方法は、決して機械的な反応ではありません。感謝や喜びも、応答の一つです。奉仕や隣人愛もそうでしょう。また、辛い気持ちの中で、それでも神様に心を向けて祈ること、神様の前に心の思いを隠さずに伝えることも、大切な応答です。決して、悲しみでいっぱいな人に、無理をして何かをしなければならない、などとは神様はおっしゃるはずがありません。辛いときは、「神様、辛いです」と申し上げる、それだけでも神様は喜んで聞いてくださいます。

もちろん、神様のために出来ることをすることも、尊いことです。でも、一番重要な応答は、神様を信頼することです。アブラハムは神様から与えられている祝福に対して、信仰によって行動することで、神様に応答しました。私たちは、どのように神様の恵みに応答しているでしょうか。

3.信仰による行動(24:2〜4)

神様はアブラハムを祝福してくださった。その祝福は、アブラハムにとっては、神様からの約束の言葉と切り離せないものです。御言葉に基づく祝福なのです。神様の約束とは、どんなものだったでしょうか。12章から始まり、神様は徐々に祝福の内容をアブラハムに教えられました。その明らかになっていった神様の約束は、主に二つのことでした。第一は、子孫です。アブラハムに数多くの子孫が与えられる。それは海の砂、空の星のように多くなる、と、神様は約束なさいました。しかし、現状は、イサク一人です。他にも子供がいましたが、それは約束の子ではない、イサクの子孫が祝福を受ける、と言われています。たった一人です。とても多いとは言えない。そんな現状を前にして、しかも、妻サラを失い、それでもアブラハムは神様の御言葉への信頼を失いませんでした。その信仰を具体的な行動として表したのが、24章のお嫁さん探しです。イサクが妻を娶り、子供たちが生まれ、そこから数多くの民が生まれる。そう、アブラハムは信じた。信仰による応答です。

神様の約束、二番目は、土地です。今、アブラハムが寄留しているカナンの地を、アブラハムの子孫に与える、と神様は約束されました。これも今すぐではない。その理由として、「まだカナンの住民の悪が満ちていない」と神様は言われました。罪に満ちたソドムの町が滅ぼされたように、やがてカナンの町々も滅びるときが来る、そのときアブラハムの子孫にその土地が与えられる、それが第二の約束です。アブラハムはその約束を信じ、やがて滅んでしまう、罪深いカナン民族の中からイサクの妻を選ぶことをしませんでした。むしろ同じ神様を信じる、同族の娘を連れてくるように、と僕に命じた。それがアブラハムの信仰でした。

2節には、少し不思議なことが書かれています。

2 そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。

3 私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。

この、手をももの下にいれる、というのは、誓いの作法の一つです。必ず、その誓いを果たす、ということです。なぜ、そんなことをしたのでしょうか。この誓いにより、しもべはイサクの嫁を決めるという重要な決断を委ねられた、いわば、全権大使となったのです。本当なら、アブラハムは自分で行って、自分の目で選んできたかったでしょう。体力的にそれが出来ないので、代わりとしてしもべを遣わした。4節で、アブラハムは「行きなさい」と命じています。それは、アブラハム自身が、神様から「行きなさい」と命じられて、祝福へと旅立ったのと同じです。神様の祝福の約束、その御言葉を信じて、アブラハムは僕を用いて再び出発したのです。どこに向かってでしょうか。生まれ故郷に向けてではありません。そこからお嫁さんを連れ帰り、そして、彼女とイサクを通して、新しい命、約束の子孫へと一歩前進する、そのような出発でした。

妻サラの死を乗り越えさせたのは、神様の御言葉です。その御言葉の約束を信じる、その信仰がアブラハムを立ち上がらせ、新しい時代へと進ませたのです。

今日は、イースターから一週間目です。イエス様の十字架の死から、弟子たちを立ち上がらせたのは、もちろん復活があるからですが、復活してすぐに彼らは立ち上がったのではありません。イエス様の約束を信じて祈り続け、やがて聖霊が下ったときに、彼らは宣教へと立ち上がったのです。私たちも聖書の御言葉を信じ、神様の約束を信じて祈るとき、立ち上がることができます。どんな困難も試練も、乗り越えられないものはない、と神様は約束していてくださいます。その御言葉を信じ従うなら、神様が解決へと導いてくださいます。どんな悲しみも、神様の御言葉が慰めを与えてくださいます。死でさえも、恐れる必要は無い。復活の主が、永遠の命へと進ませてくださるからです。

まとめ.

先週の祈祷会では、詩篇49篇が開かれました。その中に、「死が彼らの羊飼いとなる」という一節があります。人間は死に導かれている。誰もが死ななければならない。羊飼いが羊を連れて行くように、死が私たちの手を引っ張って、むりやり連れて行ってしまう。だから人間は死ぬことを恐れるのです。ところが、その直後に、「神は私のたましいを、黄泉の手から買い戻される」と書かれています。神様は十字架の贖いにより、私たちの魂を買い戻して、死に引っ張られる羊ではなく、イエス様の羊にしてくださいました。死に導かれるのではなく、主イエスに導かれる人生に、私たちは入れていただいているのです。だから、羊飼いである主の御言葉を信頼し、従うなら、命の道を歩むことができるです。

一人一人も、御言葉を信じ、従う人生を送りましょう。また、教会も、御言葉を信じて歩むとき、未来に向かって前進することができるのです。死で終わるのではなく、困難によって行き詰まってしまうのでもなく、命に向かって、希望を持って出発する、それが御言葉を信じる信仰なのです。

 

(c)千代崎備道

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