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礼拝説教「心が燃える知らせ」ルカ24章22〜32節(1〜48節)
 

序.

イースター、おめでとうございます。英語ではハッピー・イースターと言います。いつごろからこの挨拶が使われるようになったか知りませんが、使徒の働きの時代には、復活の知らせはお祝いと言うよりも驚きのほうが多かったのではないでしょうか。一番最初のイースターは、驚き以前に、信じられない出来事でした。今朝は、最初のイースターの日の出来事を、ルカの福音書を通して見て参ります。いつものように、三つのポイントでお話しさせていただきます。(週報の内側にアウトラインがありますので参考にしてください。)第一に「耳で聞いた知らせ」、第二に「目で見た知らせ」、第三に「心で悟った知らせ」という順序でお話します。

1.耳で聞いた知らせ

イースターのニュースを最初に伝えたのは、女性たちでした。先ほど読んでいただきました箇所、22節に「仲間の女たち」と書かれています。彼女たちは朝早く、キリストの墓に行きました。そこで、天使からイエス様が復活されたと聞かされ、他の弟子たちに伝えました。それを聞いてペテロとヨハネは墓に行き、確かにイエス様の遺体が無いことを確認した、ということが他の福音書に出てきます。(復活に関する出来事を、簡単にまとめておきましたので、右の頁を参考にしてください。)その後、マリヤが直接、イエス様にお会いしました。ペテロも個人的に復活の主と会ったようです。マルコの福音書が強調していますのは、誰が復活の知らせを告げても、弟子たちはなかなか信じなかったということです。ヨハネは信じたと書いていますが、完全に理解していたということではありません。

復活の知らせは、聞いたら信じられる、というものではありません。現代人にとってもそうですが、昔の人であっても、聞いても信じられないことです。復活が事実であった一つの証拠として、弟子たちが命がけで復活を証言していったことが挙げられます。確かに、殺されても、救い主の復活を信じる彼らの姿を見て、多くの人がクリスチャンになりました。でも、信じなかった人も多くいました。それだけ信じがたい知らせだったのです。ですから、私もなかなか信じられなかった、という方も、それは当然のことなのです。では、どうしたら、復活を信じることが出来るでしょうか。信仰を持つことが出来るでしょうか。復活されたイエス様を直接見たら、信じることが出来るでしょうか。

2.目で見た知らせ

33節からは、お帰りになってからお読みください。イースターの日曜日の夕方、弟子たちは部屋の中にいました。他の福音書では戸を締めて閉じこもっていた、と書かれています。そこにイエス様が入ってこられ、弟子たちは自分の目で復活の主を見たのです。彼らの反応を、ルカは、最初は驚き、そして恐れたこと、幽霊ではないかと思ったことを記しています。見ても、簡単には信じられないのです。イエス様の言葉を聞いて、彼らは徐々に認めるようになったのですが、それでも嬉しくて信じられなかったと書かれています。半信半疑ということです。最後には信じましたが、やがて日が経つと、不安になったようです。ヨハネの福音書を見ますと、彼らはガリラヤ湖に行きましたが、そこにイエス様はいません。本当に復活されたのか、分からなくなった彼らは、元々漁師だったので、昔のように漁に出たことが書かれています。そこに彼らの迷いを感じます。

人間は、目で見たからと言って信じられないこともあるし、見て信じても、時間が経つと忘れたり、幻か勘違いだったのでは、と不安になります。聞いても見ても、信じられない、確信が持てないとするなら、何を信じたら良いのでしょうか。

3.心で悟った知らせ

見て、信じ始めた弟子たちに、イエス様は聖書、この場合は旧約聖書から教え始められました。44節、

44 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」

45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、

46 こう言われた。・・・

イエス様は、旧約聖書の中に、救い主について書かれていることを説明されたのです。そこには十字架も復活も預言されていたのです。同じように、最初に読んでいただいた、25節にも書かれています。

25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。

26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」

27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

ここに出てくる二人の弟子、一人はクレオパという名前です。エルサレムからエマオという村に向かって歩いていた二人はイエス様に会いましたが、最初はイエス様だと分からなかった。しかし、聖書の説明を聞き、最後に食事を一緒にしたとき、イエス様だと、分かった。すると、イエス様の姿は見えなくなりました。その時、見えなくなったから信じられなくなったのではありません。見えなくなってもなお、感動と喜びで心が燃えていて、その知らせをすぐに伝えたくて、二人は急いでエルサレムに戻りました。

どうして、二人の心は燃えたのでしょうか。見えなくなっても冷めてしまわなかったのでしょうか。それは、心の内側から燃やされたからです。そして、その心の変化をもたらしたのは、見たことでも聞いたことでもなく、聖書の御言葉です。32節、

32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」

説明と書かれている言葉は、聖書を開いてくださった、という意味です。ここで使われている「開く」という動詞は、普通の意味の「開く」ではなく、「閉じた瞼を引き離して再び開く」というニュアンスを持った言葉です。閉ざされていた心をもう一度開いて、聖書の真理が分かるように教えてくださったのです。だから、彼らは心の底から変えられ、心が燃えたのです。

今の私たちは、弟子たちのようには直接に復活の主を見ることはできません。しかし聖書を通してイエス様を知ることが出来ます。神様が私たちの心を開いてくださり、イエス様が分かるようにしてくださるとき、私たちも心が燃やされ、喜びがわき上がり、新しい命、復活の命に生きる者とされる、それが復活の知らせなのです。

まとめ.

聖書を読んでいて、あるいは聖書の話を聞いていて、心が燃やされることがないでしょうか。私は、疲れているとき、でもメッセージの準備をしていて、御言葉の意味が分かってくると、心に力が湧いてきます。特に、旧約聖書の中でキリストを発見すると、救い主がどんなお方かが分かるようになると、ワクワクするのです。みなさんはいかがでしょうか。見たこと、聞いたことは、この説教もそうですが、忘れてしまうかも知れません。しかし、神様が心を開いてくださり、御言葉を通してキリストを知るとき、心が変えられ、思いが動かされ、行動が生まれてきます。そして人生が新しくなるのです。どうぞ、聖書を通してキリストと出会ってください。御言葉を開いていただく体験をさせていただきましょう。

 

(c)千代崎備道

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