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礼拝説教「無罪の罪人」ルカ23章39〜43節(33〜47節)
 

序.

今日は、教会の暦では棕櫚の日曜日と呼ばれる日で、今日から受難週、つまり十字架の週が始まります。来週が復活祭、イースターです。去年の棕櫚の日曜に初めて、ここで御言葉を取り次がせていただきました。一年間、神様が守ってくださったことを感謝します。

来週はイースターですので、今朝は十字架上でのイエス様のお姿に目を向けてまいります。今朝の説教題、無罪の罪人とは、もちろんイエス様のことです。何にも罪を犯していないのに、どうして十字架に掛かられたのか。何度も聞いたことのあることではありますが、もう一度、ご一緒に考えてまいりましょう。いつものように、三つのポイントに分けて、メッセージを進めてまいります。第一に「本当に正しい人」、第二に、「罪ある人々」、そして第三に「赦される罪人」です。

1.本当に正しい人

さて、福音書というのはイエスという偉人の伝記ではありません。目的を持って書かれたものです。ルカの福音書は、異邦人、つまりユダヤ人ではない人々に、イエス・キリストのことを伝えるために書かれました。知らない人から見たら、イエスというのは十字架刑という残酷な刑を受けた罪人ではないか、と思われるおそれがありました。そこで、イエス様が決して罪を犯していなかったこと、そして、それなのにどうして十字架につけられるようになったのか、ということを注意深く描いております。ルカはイエス様が無罪であることを二つの側面から示しました。第一は裁判における無罪です。裁判と言っても、当時のユダヤはある程度の自治権はありましたが、ローマ帝国の支配下という権力の二重構造がありましたので、裁判も二種類ありました。ひとつはユダヤ人による宗教裁判、もう一つはローマの行政による裁判です。

宗教裁判については、ルカの22章の終わりのほうに書かれていますが、異邦人にとってはユダヤ人の宗教はあまり興味が無かったのか、ルカはあっさりと書いています。ユダヤ人対象に書かれたマタイの福音書の方が詳しく説明していますので、今日は、簡単に触れておきます。この宗教裁判は、イエス様の人気を妬んだ、祭司長や律法学者たちが、イエス様を死刑にするために行った、いわば最初から結論が決まっていた裁判です。彼らは、偽りの証人を立てて、イエスを有罪としようとしたのですが、失敗します。そこで、誘導尋問をすることにしました。

「あなたはキリスト、救い主なのか」、そう質問をしました。彼らはイエス様を救い主として認めない。だからイエス様が何と答えても、こじつけて有罪とするつもりです。イエス様が、自分は救い主だと答えたら、それは神を冒涜する言葉だ、と言って死刑です。救い主であることを隠したら、他の質問で引っかければ良いだけです。そんな意地悪な状況でイエス様は何と答えたら良いのでしょうか。

教会の貸し出し図書の中に、車田秋次全集という全集があり、その日記の第二巻に、戦争中、ホーリネス教会の指導者であった車田先生が検挙されて取り調べを受けたときの様子が記録されています。もちろん、悪いことをしたのではありません。キリスト教を統制するために、スケープゴートとされたのが「きよめ派」と呼ばれている教会です。これも最初から有罪とするための裁判でした。取調官は、言葉尻を捕らえようとして質問してきます。車田先生は、指導者である自分が不用意な言葉を使ったら、多くのクリスチャンに迷惑を掛けることを良くご存じでした。同時に、キリスト者として決して嘘をつくつもりはありません。落ち着いて言葉を選び、しかし間違ったことは言わない。その緊張感が、取り調べ調書の中にも感じられるほどです。車田先生は信仰と真実を貫かれ、そして疑いを掛けられるようなことはしていないことを立派に証言されました。そして、結果は、治安維持法違反とされたのです。

イエス様の状況も同じです。「あなたはキリストなのか、答えよ」と命令されたときは、イエス様は、「私がそうだと言っても、あなたたちは決して信じない」と堂々と反論されました。22章70節で、「あなたは神の子か」、そう尋ねられたとき、日本語訳では、どの訳も大体、「あなたがたの言うとおり、わたしはそれ(つまり神の子)です」となっています。自分を神の子と言ったことで、祭司長たちは有罪だと叫びました。ところが原文ではこう言っています。「わたしがそうだと、あなたが言った」。神の子であることを否定するのではない、しかし決して言葉尻を捕らえさせることもしない。それでも、有罪判決を下したい人々は、細かいことはどうでも良い、否定をしなかったのだから有罪だ、と決めつけたのです。このような微妙な表現を使うことで、ルカは、イエス様の無罪を示したのです。

宗教裁判で有罪となっても、ユダヤ人たちには死刑を執行する権限が無い。そこで、彼らはユダヤ総督としてローマから遣わされていたピラトのところにイエス様を連れて行きました。政治家であったピラトは、彼らの狙いも、彼らの動機も知っていましたが、立場上、審きを下さなければなりません。しかし、取り調べて分かったことは、(23:4)イエスには何の罪も認められない、ということでした。困ったピラトは、イエスがガリラヤのナザレ出身だと聞いたので、当時ガリラヤ地域の領主としてローマの認定を受けていたヘロデにたらい回しをしました。あの悪名高いヘロデ大王の息子の一人です。このヘロデもイエスを罪に定めることは出来ずに、ピラトに送り返しました。つまり行政による裁判は、イエスは無罪だ、という結論だったのです。しかし、祭司長たちに唆された民衆が騒ぎ出したとき、もし治安が乱れたら総督として無能だとされますので、ピラトは民衆の要求に従い、無罪と知りながら死刑に定めた。今でも使徒信条の中にポンテオ・ピラトの名前が残されているのは、そのためです。

長くなってしまいましたが、裁判においてはイエス様は無罪でした。それらなのに、祭司長たちの陰謀と、ピラトの自己保身のために、十字架につけられた、それが真相であったことをルカは報告しています。もう一つ、イエス様の正しさを示すのは、十字架の上でのイエス様の姿そのものです。自分を鞭打ち、十字架に釘付けにしたローマ軍の兵士たちのために、イエス様は痛みの中で神様に祈りました。「父よ、彼らをお赦しください」。この言葉くらい、多くの人に衝撃や感動を与えた言葉はないのではないでしょうか。その言葉や態度を見ていたら、普通の犯罪人とは全く違うことを、見た人は分かります。いいえ、憎しみにかられて正しい判断が出来なかった祭司や律法学者は別です。一緒に刑を受けていた罪人の一人も「この方は、悪いことは何もしなかった」と語っています。また、客観的な立場であった、ローマ軍の隊長の言葉が、十字架の場面を締めくくっています。(47節)「ほんとうに、この人は正しい人であった」。

イエス様は本当に罪の無い、正しいお方でした。では、誰が悪かったのか、それを二番目に見てまいります。

2.罪ある人々

もう一度、23章34節を見てみます。

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。

無知の故に、彼らの赦しを祈っておられます。では、無知な人々とは誰のことでしょうか。直接は、イエス様を十字架につけた兵士たちです。確かに彼らはイエス様の教えを聞いたこともなければ、イエス様が救い主であるとは考えもつかなかった、その点では無知です。しかし、彼らだけではありません。周りで見ていた民衆も同じです。イエス様が本当に神様から遣わされてきたキリスト、救い主だと理解できなかった。でも、無知だったら無罪なのでしょうか。確かに現代でも、知らないで犯してしまった犯罪に対しては、刑が軽くなります。しかし、裁判はどうであれ、罪を犯したことは消し去ることはできません。イエス様を十字架につけた人々は、本当に無知だったのでしょうか。35節の言葉を見ますと、「あれは他人を救った」と言っています。イエス様を殺そうとしていた者たちも、イエス様が多くの人を救ったことは否定できなかった、そして、そのことから素直に判断するなら、イエス様が救い主であると理解できたはずです。彼らの罪は、無知はなく、救い主を認めようとしない、知ろうとしない罪です。

知ろうとしないことが罪だとは、わかりにくいことです。今、世界には飢餓で死んでいく人が大勢います。そのことに目を向けず、飽食を続けることは罪ではないのでしょうか。遠い場所のことだけではありません。一番身近な、家族や、主にある兄弟姉妹が、もし苦しんでいるとしたら、そこに目を向けようとしないことは、少なくとも愛の無い姿です。なぜ知りたくないか。イヤな思いをしたくない、自分の幸せだけを見ていたい。それが自己中心です。

イエス様の十字架の両脇に、あと二本の十字架があり、それぞれに犯罪人がつけられました。聖書には名前が書かれていません。一人が言った言葉が39節にあります。「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」。本当は「あなた」ではなくて、もう少しガラの悪い言葉だったと思いますが、「あなたはキリスト」だと言っています。でも彼はイエス様を信じたのではなく、「自分を救え、ついでに、いや本心は、私を救え」です。結局は自分が助かりたいだけです。人なんかどうでも良い、イエス様が救い主かどうか、信ずべきお方かどうか、真理なんてどうでも良い。自分さえ助かれば良い。これも自己中心です。40節に、もう一人の犯罪人の言葉が書かれています。「おまえは神をも恐れないのか」。神を恐れないとは、勇気があるのではなく、正しいことを正しいとしない、悪いことを平気でする、という意味です。無知の罪は、神をも恐れない、罪を罪とも思わない心が終着点です。罪について、神について、正しい生き方について、それを知ろうともしない。それがイエス様の周りにいた全ての人の姿です。そして、それは神様に背を向けている時の私たちの姿でもあります。

イエス様は完全に正しいお方でした。まわりにいたのは自己中心の罪人です。兵士も民衆も祭司や律法学者も。いいえ、私たちも五十歩百歩です。自分さえ良ければいい、隣人の苦しみは見たくない、正しい生き方を知りたくもない。そして、そのような自分の罪にも、目を向けたくない。それが本心です。イエス様を十字架につけた人々を、私たちは決して非難できません。同じ罪を持っているからです。

3.赦される罪人

この十字架の場面にあって、一人だけ、救いに与った人がいます。それが、「もう一人」の犯罪人、イエス様をかばった人です。なぜ、彼だけが救われたのでしょうか。それは、まず第一に自分の罪を素直に認めたからです。「自分のしたことの報いを受けているのだ」、罰を受けて当然の罪人だと告白しています。そして、第二に、イエス様が救い主であることを認めています。42節、「イエスさま、あなたの御国の位におつきになるとき」。この文章の意味については、結構難しい議論があるのですが、とにかく「御国」という言葉は「王国」を意味します。イエス様が王である、それは救いの国、神の国のことです。これはユダヤ人の表現では、イエス様がダビデの子孫である真の王、メシヤだと認めていることを示しています。第三に、「私を思いだしてください」。決して、良い報いをいただけるようなことは何もしていない。だから、せめて思い出すだけでも良い、でも、イエス様に思い出してもらえれば、それだけで、御国の片隅に入れていただける。彼には救いを信じる信仰が芽生えたのです。この告白と信仰を見て、イエス様は救いの約束をされたのです。

43節、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」。パラダイスとは、元々は楽園、美しい庭のことですが、旧約聖書の預言書や当時のユダヤ人が良く読んだ本の中では、パラダイスは天国と同じ意味で使われていました。イエス様は、いつかではない、今日、天国に行くのだと救いの約束をされたのです。しかも、イエス様と共に行くことができる。

これまでも多くの人がイエス様によって救われました。しかし、十字架以前は、主に病からの救いであって、本当の救いである罪からの救いではありませんでした。ですから、十字架によって罪を赦され、救われたのは、そして天国の約束までいただいたのは、この罪人が第一号なのです。彼は十字架につけられるような、最も罪深い罪人です。しかし、自分の罪を認め、イエス様を救い主だと信じたとき、救われたのです。彼はイエス様の弟子となってイエス様に仕えることは出来ませんでした。また、世の中で言う良い行いをしたのでもない。信仰も行いも、決して立派なものではありませんでした。しかし、信仰によって、イエス様の恵みによって、救っていただいたのです。これが十字架の救いです。

まとめ.

今日は、人によっては、厳しいメッセージに聞こえたかもしれません。でも、決して誰かを非難するつもりなのではありません。もし、何か罪を示されたら、それは聖霊が、神様が語りかけておられるからです。決して、私は誰かのことを語ったのではありません。実は私自身のことだからです。

私がイエス様を救い主として信じたのは、今から40年前です。小学校四年生の時です。(今、計算しようとした方、数えなくても良いです。今年は51歳になります。)その夏、私は聖書学院で行われた小学生キャンプに参加しました。夜の集会で、このルカ23章から十字架のメッセージを聞いたとき、頭でどれくらい理解できたかは分かりませんが、私は、イエス様が十字架にかかられたのは、私の罪のためである、と心で理解したのです。そのとき、イエス様のこの言葉が、私に向けられた言葉だと分かりました。「あなたは今日、私と共にパラダイスにいる」。私のような罪人、子供ですから、罪と言っても、姉の本を隠れて読んだこと、両親に従わなかったこと、嘘をついたこと、その程度です。でも、立派に罪人です。でも、そんな罪人でも、イエス様は赦してくださり、天国に入れてくださる。その約束の言葉を、救いの言葉として信じ受け入れたのでした。それから40年、洗礼を受けても、成長しても、聖めの恵みをいただいても、献身して牧師になっても、自分の心の奥底には罪があることを、何度も何度も認めないではいられないのです。しかし、自分の罪に打ちのめされそうになったとき、イエス様の約束の言葉が私を支えてくださるのです。

この言葉は、今日、あなたへの言葉でもあります。もし、あなたが罪に苦しんでいるなら、もし、自分が罪人であると認めるなら、イエス様は救ってくださいます。その時、何が起きるのでしょうか。それは、無罪であるイエス様が十字架に掛かってくださったことにより、罪人である私が、あなたが、無罪とされるのです。無罪の罪人、それは私たちのことです。罪だらけの存在、罰を受けて当然の罪人、それが赦されて、神の前に無罪とされ、天国にいれていただける。それが十字架の救いです。あなたにも、この救いが与えられるのです。他の誰でも無い、私のために十字架にかかってくださった、このイエス様を、私の救い主として信じましょう。

 

(c)千代崎備道

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