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礼拝説教「救いの歴史の完成」ルカ22章14〜20節
 

序.

最後の晩餐と言いますと、レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた絵が有名です。私たちにとりましては、この最後の晩餐の席でイエス様が定められたのが聖餐式である、ということが重要です。もっとも最初は「パン裂き」とか「主の晩餐」などと呼ばれていたとも言われますが、名称よりも、その意味が大切であることは言うまでもありません。福音書の中に出てくる最後の晩餐は、過ぎ越し祭というお祭りの夜の食事でした。それは旧約聖書の出エジプト記に起源があります。今朝は聖餐式の意味と、旧約聖書との係わりを考えてまいります。いつも聖餐式の時は少しメッセージが短めになりますので、今日は詳しく聖餐式の意味をお話させていただきます。

いつものように、三つのポイントに分けて説教を進めてまいります。第一に「備えられた過ぎ越し」、第二に「最後の過ぎ越し」、そして第三に「新しい過ぎ越し」ということをお話いたします。

1.備えられた過ぎ越し

聖餐式の意味を考える前に、まず過ぎ越しのことを簡単に振り返ってみましょう。出エジプト記の中で、イスラエルの民は、エジプトの王によって奴隷として苦しめられていた。その彼らを神様はモーセを遣わして救われました。その救いの出来事の中心にあったのが過ぎ越しです。イスラエルを解放せよという命令に従わないエジプトの王パロに対して、九つの災いを下され、それでも聞き従わないエジプトに下された最期の、そして最大の災いであり、罰が、初子の死という災いです。エジプトにいる全ての家庭の長子が殺される、それはエジプト人でもイスラエル陣でも同じです。しかし、神様はその災いから守られる方法を示された。それが過ぎ越しという儀式です。神様の命令により、各家庭ごとに雄の子羊を一匹殺し、その血を入り口の柱に塗りました。その夜、神様の使いがエジプト中の家を巡って神の罰を下すのですが、入り口に血を塗った家は、もう罰が済んだとして、その前を過ぎ越した。それによって彼らは罰を受けずにすんだ。そして、神様の力に恐れをなしたパロは、イスラエルの民を解放し、彼らはエジプトを脱出した。これが過ぎ越しです。その時以来、毎年、この救いを記念して、過ぎ越しの祭りが行われ、その一番重要な夜に行われた食事が、過ぎ越しの食事であり、それが最後の晩餐の時の食事です。

ユダヤ人は今でもこの過ぎ越しの祭りを守り続けています。過ぎ越しの食事も一種の儀式として、詳しい説明を付け加えながら、続けられています。(この『ハガダー』という本は、ヘブル語と英語と日本語で過ぎ越しの食事の守り方を綴っています)。過ぎ越しの祭りは福音書の中では「種入れぬパンの祭り」、古い日本語訳では「除酵祭」とも呼ばれ、特別な食事を家族で食べます。パンは必ずパン種、すなわちイースト菌を使わない、ですからふんわりと膨らんではいない、クラッカーのようなパンを使います。それと子羊の肉、それに加えて、エジプトでの苦しみを象徴する苦菜と呼ばれる野菜も一緒に出されました。時代と共に変わっていった部分もありますが、イエス様たちが食べたものも似たような食事だったと考えられます。

さて、聖書に戻ります。先ほど読んでいただきました箇所の、15節にこう書いてあります。

イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。

イエス様は、この晩の過ぎ越しの食事を、どうしても弟子たちと一緒に食べたかった。お腹が空いていたからでもなければ、弟子たちと別れるので感傷的になっていたと言うのでもありません。この食事を通して大切なことを教えなければならなかったのです。確実にこの食事が出来るように、イエス様は前々から準備をしておいたようです。弟子たちに知らせずに、名前は分かりませんが、ある人に場所を用意してもらっていました。そして、弟子の中でもペテロとヨハネだけに命じて、他の弟子たちには内緒で食事の準備をさせた。なぜ、そんなことをしたのでしょうか。それは、すでに祭司長たちがイエス様を捕らえて殺そうとしているのをご存じで、彼らに邪魔をされないためです。それほど、この食事を一緒にすることが重要だったのです。その食事を通して教えようとされたこと、それは、15節で言っているように、苦しみ(すなわち十字架)と過ぎ越し(すなわち救い)との関係をでした。

イエス様はまもなく十字架に掛かることをご存じでした。その十字架の意味は、過ぎ越しによって示されている。すなわち、エジプトでイスラエルの民が過ぎ越しの子羊の血によって救われたように、イエス様が十字架の苦しみによって流された血潮が、全ての人の救いのためである。そのことを示すのが、最後の晩餐なのです。もし、この夜の過ぎ越しの食事が無かったら、弟子たちにとって十字架は意味のない苦しみとなってしまう。ですから、この食事をイエス様は注意深く準備されたのです。

実は、神様はもっと用意周到です。出エジプトにおいて、どうして子羊の血が用いられたのでしょうか。過ぎ越すための目印なら、白墨でもペンキでも、その時代にあったかは知りませんが、何でも良かったはずです。しかし、敢えて子羊の血を用いた。それは、やがて神の御子が血を流して、その血によって救いが行われることを考えて、最初の過ぎ越しを命じられた。ですから、神様の視点から見るなら、すでに出エジプト記の時代から最後の晩餐の準備は始まっていたのです。言い方を変えるなら、旧約聖書が示す救いは、その全てが十字架に向かって計画されてきたのであり、その計画が頂点・クライマックスを迎えたのが、十字架なのです。

使徒パウロが、エペソ人への手紙の中で、私たちの救いは、天地の造られる前から計画されていたと語っています。ちょっと大げさに感じるかもしれませんが、こうして過ぎ越しと十字架の関係を考えるなら、私たちために、神様は注意深く、計画を立てて救いの御業を実行されたのだということ、それを、感動を持って受け止めたい。そして、どれほど神様が私たちを愛してくださったかを憶えて、心から感謝を捧げようではありませんか。

2.最後の過ぎ越し

さて、過ぎ越しの食事は、紀元前千年よりも以前から続けられていたのですが、この最後の晩餐の時で、ある意味では最後の過ぎ越しとなったとも言うことができます。もちろん、今でもユダヤ人たちは過ぎ越しの祭りを守っています。ここで「最後」というのは、時間的な順序というよりも、最終的な、完成された、という意味です。どうして、これが最後の過ぎ越しなのか、ということを、二番目にお話します。

18節を見ますと、イエス様が、今後は「ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」と言っています。ところが、十字架の出来事を四つの福音書から学びますと、6時間ほど続いた十字架の終わりの頃に、イエス様は「私は渇く」とおっしゃった、そうすると傍にいた人たちが、酢いぶどう酒、おそらく少し酸っぱくなったぶどう酒をイエス様に差し出したところ、それをお受けになったと書かれている。そうすると、細かいことを気にする人がいまして、私もそうですが、飲まないと言ったのに飲んだじゃないか、と考えるんです。それに対抗して、ある人は、いや、イエス様は舐めただけで、ごくんと飲んだのではない、と言いますが、へ理屈みたいです。イエス様は少量であろうと酢いぶどう酒を飲んだ、でも、それは18節のイエス様の言葉と矛盾することなのではなく、むしろ、イエス様にとっては、最後の晩餐と十字架とは、一つの出来事であることを示すことなのです。ユダヤ人の時間のとらえ方では、一日は日没から始まります。ですから、最後の晩餐は日が沈んでからで、同じ日の夜中に兵士に捕らえられ、同じ日の昼間に十字架について、日没まえに死なれた。全てが一日の出来事なのです。ですから、十字架は最後の晩餐の続きであり、二つは一体なのです。そして、この十字架こそ、過ぎ越しの祭りを終わらせるものなのです。

十字架は過ぎ越しの完成であり、成就です。なぜならば、最初の過ぎ越しはイスラエルをエジプトから救い出すためでしたが、十字架は全ての人を罪から救い出すためです。また、奴隷からの解放ではなく、本当の救いを与えるためです。過ぎ越しにおける子羊の血は、通り過ぎるための目印にすぎませんが、イエス様の血は、罪の赦しを与える贖いとして完全なものです。この十字架が過ぎ越しの完成であるということは、過ぎ越しを記念する食事と、十字架を記念するための聖餐式とを比較することでも考えることができます。

過ぎ越しの食事は、出エジプトという救いの出来事を記念し、過去を振り返るものです。イスラエルの人々はそれを子供に教え、子孫に伝えてきました。何百年も何千年も。それには終わりがありません。つまりいつまでも未完成なのです。それに対し、私たちも毎月、聖餐式を行います。(本当は毎週、日曜ごとに聖餐式を行うことが理想なのですが、様々な事情から、多くの教会は月に一度か、年に数回にしています。回数はともかく)、聖餐式も過去の十字架を記念する点で過ぎ越しと似ていますが、記念と言っても、単なる過去を振り返ることではありません。毎回の聖餐式を通して、私たちのための十字架ということを深く考えるのです。イエス様が最期の晩餐によって十字架と過ぎ越しを関連させて結びつけたように、私たちも聖餐式により二千年前の十字架と今の私たちとを結びつけています。ある意味では、毎回、十字架を私のためのこととして体験する、それが聖餐式の意義です。そして、いつまでもいつまでも続けるのではなく、「主が来られるときに至るまで」、つまり主イエス様の再臨までであり、聖餐式を行うことは、天国の希望を確かめることなのです。

今、私たちは、旧約聖書で最も大切な過ぎ越しの祭りを行ったりはしません。それは最終版である十字架がすでになされたからです。聖餐式はいろいろな意味で過ぎ越しの食事と関連していますが、決して、過ぎ越しの代わりとして行われているのではなく、新しい意味を持ったものなのです。そのことを最後にお話いたします。

3.新しい過ぎ越し(聖餐式)

さて、私たちは聖餐式の順序として、パンが先で杯が後になっています。ところが、ルカの福音書では、17節で杯が出てきて、19節でパン、そして20節で、また杯、となっていて、何だか混乱しそうです。実は過ぎ越しの食事というのは結構、複雑な式でして、その儀式の中で何度もぶどう酒とパンが出てきます。ですから、17節の杯は過ぎ越しの食事の一部であり、19節と20節が最初の聖餐式であると考えることができます。すみません、少し細かい話でした。

では、19節を見ましょう。

それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」

ここで、イエス様は、聖餐式のパンが「わたしのからだ」だと語っています。パンとキリストの体との関係については、難しい問題がありまして長い間、神学論争があったのですが、それは省きます。大切なのは、このパンを受けるとき、それはキリストの体をいただくのだということです。キリストの体を受けるとは何を意味するでしょうか。まず、同じ体をいただいたものとして、教会は一体的な存在である、ということです。ですから、一人が痛みを持つとき、他の人たちもその痛みを共有する。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」、それが教会の交わりです。第二に、同じキリストの体につながるものとして、教会は家族です。お互いが兄弟、また姉妹です。第三に、キリストの命をいただいているのです。この命であるパンは、面白いことに、杯よりも先に与えられています。杯、すなわち十字架の血潮によって罪が赦される前から、キリストの体に結びつけられ、家族の一員とされ、永遠の命が始まっている、と言うことが出来ます。洗礼をまだ受けておられない方も、イエス様を信じたい気持ちを持っておられるなら、すでにキリストの体の一部となり始めている。永遠の命の恵みは、赦しに先立って始まっているのです。

そして、杯については20節。

食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。

この杯はキリストの血による新しい契約、救いの契約です。罪の赦しを得させるための、贖いの血です。この部分が、出エジプトでは不十分だったものです。最初の過ぎ越しは、エジプトからの救いであり、罪からの救いではありませんでした。また、契約による救いでもありません。イスラエルが神様と契約を結んで、神の民とされるのは、シナイ山に行ったときです。イエス様は、契約の言葉を語られてから十字架に掛かられました。過ぎ越しと赦しの契約が一体となったのです。

ところで、この最初の聖餐を受けたのは誰だったでしょうか。十二弟子たちであったのは確かですが、その中にイスカリオテのユダがいたのでしょうか。他の福音書は曖昧な書き方をしていますが、ルカだけは、聖餐の後に裏切りのことを語っていますから、ユダも一緒に聖餐を受けたと考えられます。でも、ユダだけが裏切ったのではありません。他の弟子たちの姿はどのように描かれているか。それは、この重要な時でさえ、誰が一番偉いのか、なんていうことを論争するような、自己中心な弟子たちであり、最後にはペテロに対して予告されたように、みな、イエス様を裏切って、逃げてしまうのです。そんな弟子たちのために、イエス様は聖餐を定められたのです。

聖餐式の時に読まれます御言葉の中で、「相応しくないままで」という言葉があります。相応しくない人が聖餐を受けるなら、その行為により自分に審きを招くと教えられています。本当はまだ洗礼を受けていなくても、初めて来られた方でも、誰にでも聖餐の恵みを受けて欲しい。でも万が一、その人が神の裁きを受けるようになったら大変だ、ということで、大事をとって、「洗礼を受けた人だけ」としています。本当に申し訳ないのですが、お許しください。では、反対に、洗礼を受けた方たちは、当然のように聖餐を受ける権利があるのでしょうか。洗礼を受けたけれども、本当に自分は相応しいと言えるのか、と考えると不安になります。でも、イエス様の十字架によって、全ての罪は赦されたと信じて受けるのが洗礼です。例え相応しくないような罪があったとしても、洗礼を受けたことで赦されているんだということを信じるなら、聖餐に与ることが出来る。その意味で、聖餐式は信仰によって受けるものなのです。とは言いましても、自分自身を顧みるなら、失敗だらけのクリスチャンです。足らないところだらけです。でも、最初の聖餐を受けた弟子たちも、逃げ出すような弱い存在でした。だから、私たちも、神様の憐れみを信じて、聖餐に表された赦しの恵みに与ることができるのです。

まとめ.

イエス様の十字架は、旧約聖書の過ぎ越しに始まった救いの御業の計画を完成するものです。その十字架の意味を教え、また過ぎ越しと十字架が一体であることを示すのが、最後の晩餐の中で定められた主の晩餐、すなわち聖餐式です。イエス様はその完成された救い、すなわち罪の赦しを与えるために、十字架に掛かられました。その救いを私たちが確実に受け止めるために、聖餐式を定め、毎回の聖餐式を受けることで、十字架の赦しを確かめさせてくださるのです。この全き救いの恵みを、私に与えてくださった恵みとして、しっかりと受け止めましょう。また、まだ洗礼を受けておられないかたは、是非、聖餐を受けることができるようになってください。

来週の日曜から受難週が始まります。それは十字架を覚える週です。今年は、その受難週の木曜日の夜、ちょうど最後の晩餐が行われた夜に、祈祷会の中で聖餐式を行います。また、その夜にいらっしゃることが出来ない方も、その次の日曜には、イースター礼拝の中で聖餐式が行われます。ぜひ、これらの聖餐式を通して、罪を赦し、永遠の命を与え、キリストの体の一部としてくださる、救いの恵みを味わいましょう。そして天国の約束を確かめ、主にお仕えすることを心に誓う時としましょう。

「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」

 

(c)千代崎備道

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