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礼拝説教「捨てられたメシヤ」ルカ20章9〜18節
 

序.

新約聖書の福音書を読みますと、イエス様は様々な例え話をされましたが、その多くは当時の人たちの生活の様子や社会の様子を題材としたものでした。ですから、聞いている人々には、身近なことが神からの真理に結びつく、大変に理解しやすいお話だった。その話を聞こうとたくさんの人たちがイエス様の所に押し寄せたのも頷けます。しかし、イエス様の譬え話は、簡単なようで、実は奥が深い。そして理解できた人には、イエス様を信じるかどうか、神様に従うかどうか、という決断を迫るメッセージでもありました。

今朝の聖書箇所は、そのような譬え話の一つです。この箇所から、イエス様を救い主として信じる信仰を考えてまいります。いつものようにお話を三つのポイントに分けて進めてまいります。第一に「神を拒んだ歴史」ということ。第二に「審きを拒んだ民」。そして第三に「神の石への応答」。このような順番でメッセージを取り次がせていただきます。

1.神を拒んだ歴史

9節から始まります譬え話は、一言でいうと旧約聖書の歴史の要約です。「ある人」は神様です。「ぶどう園」とはイスラエルの土地です。それは約束の地と呼ばれ、神様がイスラエルの民に与えたものです。ですから、「農夫たち」は、当然、イスラエルの民です。神様はイスラエルにぶどう園を貸し与えた。同じ例え話がマタイやマルコの福音書にも出てきますが、そちらを見ますと、ただのぶどう園ではありません。実に手間暇が掛かったぶどう園です。実際、イスラエルの地でもそうですが、世界中どこでも、土地を放っておいたらぶどう園になるわけではありません。まず石や岩が多い地域ですから、そういったものを取り除いて土を耕します。それからブドウの木を植え、水を与え、成長してきたら、剪定をします。肥料も与えるでしょう。さらに、野生の動物が来て荒らさないように、周りに柵を建てます。そして、ぶどう園の場合は、収穫したブドウはぶどう酒を作るのが目的ですから、酒ぶねと呼ばれる、岩をくりぬいたようなものを作って、準備をします。そのように苦労して用意したぶどう園でした。そこまでしてから農夫たちに貸したのです。

このようなことは実際にあったことです。大地主のような人は投資をしてぶどう園を作り、貧しい小作人たちを雇って、そこで働かせるのです。おそらくイエス様の譬え話を聞いていた人々の中にも、そのような雇われ農夫だった人もいたでしょう。畑を借りた小作人たちは、当然、雇い人に従わなければなりません。収穫したものから、一部は自分たちの給料に、あとは主人の利益となります。

旧約聖書の中で、土地というのは特別な意味を持っています。旧い翻訳では「嗣業」と訳されています。それは、神様から与えられた、いえ、正しくは委ねられた土地です。本当の持ち主は神様ですから、イスラエルの民はその土地を勝手に売買してはいけないのが原則です。その土地の収穫で彼らは生活をしましたが、貸し主である神様は農夫であるイスラエルから利益を求めます。農夫たちには、その求めに応じる責任があるのです。では、神様がイスラエルに求めるものとは何でしょうか。別に神様はぶどうの実やぶどう酒を欲しいわけではありません。では神様の求めは何か。

イザヤという預言者は、神の求めたもうことと、実際にイスラエルの民が応答したことを、短い詩を用いて述べています。

「まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。

ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。

主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。

正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。」

「主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血」とは、公正な社会、正しい生き方を神様は望まれた。ところが人々は貧しい者を虐げ、時には実際に殺した。それが流血です。正義を求めたのに、実際には弱者たちの悲鳴が聞こえてくるような差別がはびこっていました。そこで神様は人々が正しい道に戻るようにと、何人もの預言者たちを送り、人々を教え導こうとされました。しかし、イスラエルの民はその言葉に聞こうとせず、逆に神から遣わされた預言者たちを迫害もしました。イザヤは最後は殺されたと言われます。エレミヤは殺されはしませんが、何度も迫害を受けました。それが旧約聖書の歴史です。例え話は見事にそれを描いています。

ぶどう園の主人は僕たちを遣わしたのですが、農夫たちはそれを迫害しました。最後にこの主人は、自分の息子を送った。ところがこの悪い農夫たちは雇い主の息子を殺してしまったのです。私たちは新約聖書を知っていますので、この息子はイエス様を表していることが分かります。イエス様はこの例え話の数日後に十字架に掛けられて殺されます。そのような反逆する農夫、神様に逆らい続けるイスラエルに対して、神様はどのような審きをするでしょう。16節はそれを告げています。

彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。

すなわち、イスラエルは再び滅ぼされ、イスラエルの土地、いいえ土地だけでなく神様が与えてくださる恵みも救いも、すべて他の人、異邦人に救いが与えられるようになる。大変厳しい宣告ですが、実に、このイエス様の言葉通りになっていきます。

この譬え話は、私たちにも無関係ではありません。神様は私たちに様々な祝福を与えておられます。その恵みに誠実に応答し、主に仕えていかなかったら、神様はどのように思われるか。それを考えるときに、自分の生き方を顧みない人はいないのではないでしょうか。しかし、聖書は単なる道徳の書ではありません。イエス様のおっしゃりたいことは、実はその後なのです。二番目のポイントに移ります。

2.審きを拒んだ民

さて、譬え話の中で主人の息子が何を表しているか、特にイエス様が十字架に掛かることを意味していることは、聞いていた群衆は分からなかったと考えられます。しかし、農夫が誰であるかは、旧約聖書を良く知っている人なら気が付くはずです。律法学者や祭司長たちは、旧約聖書の専門家ですから気が付かないはずがない。19節では彼らは譬え話が自分たちに対するものだと気づいたので、イエス様を殺すために捕らえようとしたことが書かれています。では民衆はどうだったでしょう。16節の後半。

これを聞いた民衆は、「そんなことがあってはなりません」と言った。

この「そんなことがあてはならない」という言葉は意味深です。もし彼らが、この譬え話は自分たちの罪を示すものだという自覚が無かったら、この農夫たちは悪いヤツだ、とくらいに考えたでしょう。その場合は、そんなことをするなんてあってはならない。他の福音書では、イエス様の述べた主人の審きに、人々は同意をしていたようです。悪い農夫はやっつけろ、ということです。しかし、もし聴衆が譬え話の意味に気が付いたらどうでしょう。それは、イスラエル民族から祝福が奪い去られ、救いは異邦人に与えられる、ということです。そうでしたら、彼らは、自分たちの祝福が他の者に与えられるなんて、あってはならない、自分たちが滅ぼされるなんでありえない、と言う意味で「そんなことがあってはならない」と叫んだのではないでしょうか。

人間は誰でも自分の罪を指摘されるのは嫌いです。自分でない人の悪事でしたら、そんなヤツはやっつけろ、と言うかもしれません。でも、自分の罪に対しては、罰を受けたくない、罪を認めたくない。それが人間の本性であり、罪の性質です。私たちだって、今与えられている祝福が取り上げられてしまうと言われたら、ちょっと待ってください、と言うのではないでしょうか。人間は神様の審きを受け入れられないのです。その結果、神様の言葉を拒み、神の御子を殺す、同じDNAが私たちの心にもあるのです。

3.神の石(意思)への応答

譬え話の目的は、最後の17節です。そこには詩篇118篇の言葉が引用されています。

『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』

この石とは何でしょう。もちろん、イエス様のことを指しているのですが、なぜ石に譬えているのでしょうか。確かにイエス様は捨てられた救い主です。ユダヤ人たちはイエス様が救い主であることを拒絶し、十字架につけました。また弟子たちもイエス様を見捨てました。最後には、十字架上で「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた。それは父なる神様からも見捨てられたということです。捨てられた石とは十字架のイエス様を指しています。

ところが捨てられて十字架に掛けられたお方が、その十字架によって贖いの業を成就され、本当の救い、罪からの救いを成し遂げられた。ですから、捨てられた石が救いの根拠、救いの土台となったのです。それが礎の石です。口語訳聖書では「隅のかしら石」と訳されます。単なる土台ではなく、当時は大きな石を用いて家を築いた。そのとき、家の土台のかどに置かれた石に全体の重さがのしかかっている。まさに全体を支えているのが「隅のかしら石」です。土台の中の土台です。このお方がいなかったら救いはありえないのです。だからイエス様は自ら捨てられてくださり、救いの土台となってくださったのです。

イエス様は、信じる私たちを救ってくださるお方です。イエス様を信頼しお頼りするなら、人生の土台となってくださる、頼るべきお方です。ところが、頼ろうとせず、逆に攻撃しようとするならどうなるか。石や岩をけっ飛ばしたら、その人がけがをします。「この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け」とは、イエス様を拒み、殺そうとしたイスラエルの民が滅ぼされることになる、ということを意味しています。頼るなら救い、拒むなら滅んでしまう。この石に対してどのような応答をするかで、大きな違いが生まれるのです。そして、キリストを信じお頼りするかどうかは、御言葉を聞いている私たちが決めることなのです。イエス様はこの譬えと旧約聖書の言葉を用いて決断を迫っておられるのです。

三つ目のポイント、「神の石への応答」は、ダジャレになっていまして、本人も途中から気が付いたのですが、これは石であると同時に、神様の意思なのではないでしょうか。神様は私たちを救おうと御子であるイエス様を送ってくださいました。また、御言葉を送り、私たちに応答を迫っておられるのです。その神の言葉、救いのメッセージこそ神のご意思です。それに私たちがどのように応答するか。また、日々、聖書を通して語りかけてくださる神様の御心にどのようにお応えするか、それが祝福の道、永遠の命に至る歩みかどうかを決めるのです。

さて、もう一つ、お話させていただきます。アウトラインは書けなかったのですが、18節の言葉はもう少し深い意味があります。

この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。

この言葉はイエス様を殺そうとした人々にとっては警告であり、審きです。でも、私たちにとってはどんな意味があるのでしょうか。確かにこの石に自ら逆らうなら砕かれるのは分かります。では、私たちはイエス様とぶつからないように、近づかなかったら良いのでしょうか。ちょっと違う気がします。18節後半では「この石が人の上に落ちれば」とあります。石のほうから近づいてきたら、どうすれば良いのでしょうか。

私たちには罪があります。その罪は救いの言葉を受け入れようとしません。ですから、イエス様の言葉と正面切ってぶつかれば、砕かれてしまいます。しかし、砕かれて、自分の弱さを知り、自分の罪に目を向けざるを得なくなったとき、私たちはイエス様の救いを、十字架の救いを受け入れることが出来るのです。砕かれた心こそ、神様が受け入れてくださり救ってくださるからです。

イエス様の教えは、また聖書の言葉は大変難しい、時には心が刺されたり、厳しい決断を迫られることもあります。しかし、それでも御言葉に向き合い、神様のご石の前に立ち、とうとう自分の頑固な心が砕かれたとき、神様の救いの働きが始まるのです。

誰でも救いを受け入れようかどうか、御言葉に従おうかどうか、迷うことがあります。それがイヤで御言葉の前から離れてしまったら、救いは遠ざかります。しかし、神様の前に心を開いて立つなら、御言葉に自分自身をぶつけて真剣に取り組むなら、神様は必ず私たちの心を砕いて、柔らかい、受け入れやすい心に変えてくださるのです。その意味でも、この礎の石は救いの石なのです。悩んでいる方がおられましたら、是非、イエス様を受け入れる決断をしていただきたいのです。そのときイエス様は救いの石となってくださるのです。

まとめ.

イエス様が救い主であるということは、最初はわかりにくい、受け入れにくい、そういった面があり、つまずきとなる場合もあります。なぜ十字架が救いの道なのか、なぜ復活なのか。理解しにくいことが多くあります。でも、分からないなりにイエス様にぶつかっていけば、道が開かれるのです。神様に従って行きたいと願うなら、助けてくださいます。このお方を信じ、お頼りするなら、見捨てられた石は、私たちを支える礎の石、隅のかしら石となり、揺るぐことのない人生の土台となってくださるのです。

 

(c)千代崎備道

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