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礼拝説教「罪の歴史」ルカ11章45〜51節
 

序.

聖書を初めて読むと、聖書の中に様々な罪を犯す人が出てきて、驚くかもしれません。でも、聖書は、聖人君子の書物ではなく、現実の人間の世界を描いています。そして、どの時代も罪に満ちていたと聖書は証言しているのです。今朝は「罪の歴史」と題を付けました。あまり嬉しいタイトルでは無いのですが、しかし、これが人間の真実なのです。

先ほど読んでいただきました箇所は、イエス様がパリサイ派の人々を糾弾しているところです。優しいイエス様が、こんな厳しいことを言われるとは、と思われるかもしれません。しかし、イエス様は愛の人である同時に、悪に対して口を閉ざすのではなく、人の罪を暴かれるお方でした。特にユダヤ教のパリサイ派や律法学者たちの偽善に対しては厳しい言葉を使いました。この箇所から、三つのことをお話いたします。第一に「過去の罪」。第二に「現在の罪」。そして最後に「恵みの歴史」。

1.過去の罪

旧約聖書は神の民であるイスラエルの歴史が、罪に満ちた歴史であったことを証言しています。ルカ11章の50節、51節。

それは、アベルの血から、祭壇と神の家との間で殺されたザカリヤの血に至るまでの、世の初めから流されたすべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。

ここに出てきます二人は、旧約聖書の人物です。アベルは、最初の人、アダムとエバの息子ですが、兄のカインに殺されます。ザカリヤ、あるいはゼカリヤと呼ばれる人は、旧約聖書に何人か出てきます。その一人、祭司エホヤダの子ザカリヤという人は、ヨアシュという王が罪を犯したことを指摘したため、殺されました。殺された二人は正しい事を行い、また正しいことを語った人です。他の福音書では義人と書かれていますが、ルカは「預言者」と表現しています。それは神の言葉を語った、つまり正しいことを語った人たち、ということです。

ところで、何故、アベルとザカリヤの名前が出てきたのか、と言いますと、アベルは聖書の最初にある創世記に出てくる、つまり初めての殺人の犠牲者です。ザカリヤは歴代志ですが、私たちの聖書では歴代志というのは真ん中らへんですが、ユダヤ人たちが使っているヘブル語の聖書では、最後の書物です。つまり、旧約の歴史で、最後の殺人です。イエス様が創世記と歴代志から例を挙げたのは、旧約全体、すなわちイスラエルの歴史全体における代表なのです。もちろん聖書の歴史には良い人もいます。しかし、全体としては、その歴史は血と罪に染まった歴史なのです。それは、旧約の民だけではありません。新約でも、パウロの手紙を見ますと、初代教会の中にも様々な罪があった。その後の教会の歴史は、失敗の連続です。そして、人ごとではなく、私たち一人一人も、神様に背き、人を傷つけ、また知られなければ陰で何をするか分からない、そんな罪の人生なのだ、と聖書は語っているのです。

2.現在の罪

さて、イエス様がアベルとザカリヤの例を挙げたのは、昔の人は悪かったと言うためではありません。問題は、現在の人、この時のイエス様にとっては、目の前にいる律法学者たちのことです。彼らは、自分は正しいことをしている、と主張しました。むしろ人前で善行をして褒められるのが好きなのです。その一つとして、昔、迫害されて殺された預言者たちのために墓を作ろうとした。そして、昔の人は預言者を殺すなんて罪を犯した、けれども自分たちはそんな罪は犯さない、そう言っていたのです。それに対し、イエス様は、彼らも同じ罪を犯している、と非難しています。自分は正しい、と主張するために、他者を犠牲にする。その生き方は預言者たちを殺した先祖と同じです。そして実際、彼らは罪を犯していないイエス様を殺そうとしているのです。

自分は正しい、という心、すなわち自己義認は、必ず、他者に罪を押しつけます。回りの人々を批判したり、昔の人を断罪する。特に、昔の人が侵した罪に関して、それは昔の事だから自分には無関係、自分は正しいと主張するのです。旧約聖書の時代の人々だって自分は正しいと思っていた。それなのに、預言者は彼らの隠れた罪を指摘した。だから殺したのです。カインも、ヨアシュ王も同じ。時代は変わっても、心は同じ、動機は同じです。罪とは、悪いことをすること、犯罪を犯すことももちろん罪ですが、他者に罪を押しつけ、自分は正しいとする偽善や自己義認こそ罪なのです。同じ罪が私たちの心の中に無いでしょうか。他者を裁くのは簡単です。そうすることで自分は正しいと思っていられます。でも人から間違いを指摘されるのはイヤだ。他の人から正しい人間だと思われたい。その心は律法学者たちと変わらないのです。

3.恵みの歴史

さて、イエス様の目的は、彼らの罪を批判することではありません。批判するだけ、自分は正しくて彼らが悪い、というのは律法学者と同じです。イエス様の目的は別にありました。彼らの罪を暴き、彼らの教えの間違いを示すことは義なる主として、当然です。その結果、彼らに妬まれ、殺されるということもイエス様はご存じでありながら、なお罪を糾弾したのです。そして、ついに十字架につけられた。しかし、イエス様はその十字架によって、贖いによる罪の救いを完成されたのです。

イエス様が人間の、罪の歴史の中に生まれたのは、その歴史のただ中で罪の赦しを行うためです。遠く離れて人間の罪を断罪するのではなく、罪人のただ中に入ってこられ、その罪を背負って十字架に掛かられたのです。そして、もし私たちが、自分の罪、自分の中にある自己義認、自己中心、高慢、様々な罪に気が付き、それを隠したり、他者のせいにするのではなく、罪を認めるとき、イエス様は赦してくださるのです。その時、それまでの罪の歴史は、その罪が赦された、恵みの歴史に変えられるのです。過去の失敗や現在の罪のゆえに、救いの恵みをいただけた。それが分かった時、過去は恥ずかしい、隠したくなる歴史や人生ではなく、神の恵みにより救われたという感謝の歴史、また人生となるのです。

結論.

誰の人生にも失敗があります。聖書の言葉では、誰もが罪人です。また教会も多くの失敗や罪を犯してきました。私たちの教会も例外ではない。失敗があったでしょう。知らないうちに、誰かを傷つけたことがあったでしょう。しかし、それを隠したり、他の人のせいにするのではありません。もし、失敗があったと感じたなら、自分も同じ罪人であることを認めて、しかし、イエス様の十字架は全ての罪の贖いであることを堅く信じるなら、全ては恵みとなるのです。

今日は、教会総会が礼拝に引き続いて行われます。去年一年間を振り返り、今年の歩みを考える、大切な時です。でも単なる会議で終わるのではなく、神様の前に心を開き、もし自分の内に間違いがあったのなら、素直にそれを認め、神様にお詫びをし、赦していただいて新しい出発をしましょう。もし、他の人に間違いがあると感じたなら、それを裁くのではなく、同じ神の家族の一員として、その人のために祈り、自分のこととして受け止めて、そこから一緒に立ち上がっていただきたい。そうして、教会の交わりが争いではなく和解、裁きではなく愛による交わりとなるのです。また、一人一人の人生も、恵みにより赦された、感謝の生涯としていただきましょう。

 

(c)千代崎備道

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