トップへ

 

礼拝説教「慈愛の律法」ルカ10章25〜37節
 

序.

今日は「良きサマリヤ人」と呼ばれている譬え話です。でも、この譬え話は、ただ単に「困っている人を助けましょう」というお話ではありません。イエス様が語られる教えは、単なる道徳や倫理ではないのです。この譬えが語られたのは、一人の律法学者に対してであり、彼の質問への反論として話されたものです。そして、その議論の中で、律法とは何か、神の愛とは何か、ということが示されているのです。

三つのポイントに分けて今朝のメッセージをお話させていただきます。第一に「律法の原則は愛」だということです。第二は「律法を破る人間」ということ、そして最後に、「律法を成就する者」ということをお話します。

1.律法の原則は慈愛

イエス様が弟子たちに教えているところに、近くで聞いていた律法学者が質問をしてきました。この箇所には「律法の専門家」という珍しい言い方を使っています。彼は、自分のほうが専門家だから、難しい質問をしてイエスをやりこめてやろう、と思っていたということです。彼の質問は、「何をしたら永遠の命を得ることが出来るか」でした。永遠の命というのは長生きをするということではなく、当時のユダヤ教において議論されていたことで、違う言葉を使うなら、何をしたら救われるか、ということです。神様による救いということは、当然、神の言葉である聖書、当時は律法と呼んでいました、その聖書の中に書かれているはずだ。そこで学者たちが議論を戦わせていたのです。この律法学者もそのような議論に参加していたので、このテーマだったら、自分は良く知っているつもりでした。ところがイエス様は、答える代わりに、彼に質問をしました。26節。

26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」

これは、律法の中に多くある戒めのうち、どれを行ったら永遠の命を得ることが出来るか、つまり、一番大切な戒めは何か、という質問と同じ事なのです。そこで、この律法学者は

「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」

と答えたのです。新約聖書を何回か読んでおられる方は、どこかで聞いたことのある言葉だ、と考えられたと思います。これは、イエス様自身が同じ事を言っています。この時とは違う律法学者が質問してきたときの、イエス様の答えと同じなのです。つまり、イエス様も、またイエス様に反対していた律法学者たちも、だれもが認めることだったのです。律法、すなわち旧約聖書の、一番大切な戒め、その中心は、「心から神を愛すること」、そして「隣人を愛すること」だということです。

今、教会の聖書通読では、申命記を読み進めています。昨日のベタニヤ会でも申命記を学んでおります。通読をしていますと、創世記は結構面白い。出エジプト記も途中までは読みやすい。でも、途中から法律が始まると、とたんに難しくなります。最初はちんぷんかんぷんです。でも、何度も読んでいますと、神様がイスラエルの民に与えた、この法律、これを律法といいますが、それは弱い人たちに対する配慮に満ちているということに気が付きます。やもめや孤児など、身よりのない弱い立場の人を助けるようにと、何度も命じられています。それは、神様が慈愛のお方だから、あなたたちもそうありなさい、と教えられています。中には厳しい言葉も出てきますが、その厳しさの背後にも、罪を犯して滅びの道を歩まないようにとの、神様の愛があるのです。実に、神の民に対する神の愛を表したのが律法なのです。

旧約聖書の律法だけではありません。預言書でもホセア書やエレミヤ書を見ますと、神様がどれほど民を愛し、救おうとしておられるかが良く分かります。新約聖書もそうです。新約聖書の中で一番大切だと言われているのは、ヨハネの福音書の3:16、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」。ここにも私たちの救いは神の愛による、ということが語られています。聖書全体のメッセージが神の愛なのです。そして、神様が憐れみと愛によって救ってくださった、それは出エジプトをしたイスラエルも、十字架によって救われた教会も同じです。神の愛によって救われた者が、神様を愛するようにならないはずがない。神の愛によって救われた人が、他の人を憎んだままではいられない。救いの神様が相手の人をも愛していると知るなら、神の愛によって、隣人を愛する気持ちになるのです。そして、律法にも、また新約聖書にも様々な教えがありますが、神を愛し、人を愛するなら、自然と正しい行いを選び取るはずです。そのような生き方をしているなら、それはまさに天国の生き方です。憎み合い、滅ぼし合うような生き方をしていては天国に生きることは出来ません。神と人を愛する生き方こそ、永遠の命、天国へと繋がっているのです。

旧約聖書を読まれるとき、是非、神の愛が背後にあること、全ての教えの土台は、神を愛し、隣人を愛することだ、ということを忘れないで読んでいただければ、今まで以上に聖書のメッセージが理解できるはずです。

2.律法を破る人間

さて、イエス様と律法学者、双方の意見が一致したなら、仲良く握手をしてお終いか、というとそうなりません。なぜなら、律法学者の目的はイエス様を試そうとした、つまり自分の知識でイエス様をやりこめようと思っていたからです。自分のほうが上である、自分の教えのほうが正しい、そう示したかった。それなのに、イエス様のほうから「そのとおりです」と、まるでイエス様の方が偉い先生のようではないでしょうか。そこで、彼はさらなる質問をして、イエス様を困らせようとした。そこから、「良きサマリヤ人の譬え」が始まるのです。

この律法学者の姿勢は、決して高慢な学者だけの姿ではありません。誰もが持っている心です。私たちは誰でも、間違っていると言われるのは嫌いです。自分は正しい、と主張したい。お互いがそうですから、人と衝突するはずです。自分を正しく見せるためには、罪、つまり自分に非があることは隠したい。自分の欠点は誤魔化して、自分を人前では良く見せたいものです。そのような心を、誰もが少なからず持っているのではないでしょうか。

しかし、自分を正しいとする、本当は正しくない所もあるのに、自分は正しい、と言い張るためには、他の人に責任をなすりつけ、他者をおとしめようとしてしまいやすい。自分を正しいとする生き方には、どうしても他者への愛が欠けるようになるのです。また正しいと思うことを実行する時にも、その背後にあるのは、自己中心です。イエス様は度々律法学者たちを非難しました。彼らは人前では立派なフリをしているが、自分の事だけしか考えておらず、隣人への愛が無いのです。何故、イエス様が、特にパリサイ人や律法学者を非難したかと言いますと、彼らは旧約聖書を良く知っていた、律法が神の愛、そして、神への愛と隣人への愛に満ちていることを知っていた。それなのに、愛の無い生き方をしていたから、非難したのです。

さて、良きサマリヤ人の譬え話の中に、チョイ役ですが、祭司とレビ人が登場します。二人とも、愛の無い姿を暴露しています。この祭司とレビ人は、神殿で仕えている人たちで、どちらかというと、パリサイ派や律法学者よりも、サドカイ派という、パリサイ派と律法学者とは対立する人々でした。その祭司とレビ人が、無慈悲な悪役として登場した。もしかしたら、聞いていた律法学者である彼は、内心喜んでいたかもしれません。では、次に出てくるのは誰だろう。もしかしたら、慈愛の律法を良く知っている律法学者で、困っている旅人を助けるのではないだろうか。そんな期待があったのではないでしょうか。つまり、この例え話は、聞いている律法学者に対しては、あなたはどう行動するか、を自然に考えさせる働きをしているのです。いつも自分は正しい、律法を守っている、と考えていた律法学者、しかし、本当に神と人への愛を実行していたのでしょうか。

パウロは有名な愛の章、第一コリントの13章、よく結婚式で開かれる箇所です。そこで、パウロは、「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません」と教えています。どれほど「自分は正しい」と思っていても、人から正しいと言われるような行いを見せていても、その背後にあるのが愛ではなく、自己満足、自己中心であるなら、パウロは、そんな行いは無意味、無価値だと、厳しいことを言っています。それは、パウロ自身がかつてパリサイ派の律法学者だったからです。自分もそれまではそのような生き方をしてきた、でもイエス様の愛を知り、救われたとき、そんな偽善は無意味だと気が付いたのです。

本当の愛、コリント13章の愛についての教えを読んでいますと、自分の中には愛が無いことに気が付かされます。人間の愛はどこまでも自分中心、自分勝手だからです。でも、神様の愛を知り、神様への愛に満たされるとき、自然と、隣人への愛が湧き出てくるのです。では、どうしたら神様の愛を知ることが出来るでしょう。それは、聖書を通して、イエス様と出会うことです。イエス様の十字架を通して現された、本当の愛に目を向けるとき、私たちは変えられるのです。

3.律法を成就する者

さて、最後に、譬え話に登場するサマリヤ人を見てみましょう。サマリヤ人とユダヤ人が仲が悪くなった歴史的経緯を話すと長くなりますが、とにかく、ユダヤ人はサマリヤの人々をさげすんでいました。サマリヤ人たちもユダヤの人々を嫌っていました。ですから普通だったら、道ですれ違っても挨拶もしなかったでしょう。でも、このサマリヤ人は、傷ついたユダヤ人の旅人を見て、可哀想に思ったのです。その憐れみによって助けたのです。具体的に何をしたのでしょうか。まず、傷に消毒薬か軟膏として、自分の持っていたオリーブ油とぶどう酒を注いだ。包帯といっても医者でなければ包帯を持って歩くことも無いでしょうから、清潔な布を持っていたのでしょう。そして家畜、恐らくロバに乗せて宿屋に運びました。自分は仕事があるから、ずっとついて介抱することは出来ないので、お金を渡して、宿屋の主人に任せました。彼のしたことは、特別難しいことではありません。もっているものを用いただけです。

隣人愛というのは、特別なことではなく、持っているもので、出来ることをすることです。それでも、そこには多少の犠牲が伴います。この良きサマリヤ人も、帰り道で立ち寄った時には、さらに費用を払ったことでしょう。でも、もっと注目しなければならないことは、何をしたかという外から見える行為ではなく、彼の心です。嫌われていた相手を、可哀想に思う、その心です。彼は自分を正しいと見せるためではなく、ただ慈愛の心から行動しただけなのです。しかも、嫌い嫌われている相手にです。これは難しいことかも知れません。自分の好きな人、自分の仲間だったら助けやすい。お互い様です。いつかは助けてもらうこともある。そこには自分の益にもなる、という打算も働きやすい。でも、嫌い合っている、いわば、敵を愛する。なかなか出来ないことです。

しかし、このような愛こそ、律法が教えている愛です。社会的に弱い人、貧しい人を助けるのは、彼らがお返しのできない人だからです。それによって、神の愛を示すからです。神様は人間からの見返りを求めてではなく、むしろ、何度も逆らい、敵対するような民を愛し救われたからです。

慈愛の律法、それは人間は達成しにくいことです。良きサマリヤ人は譬え話ですから、実際にそのような人物がいたとは考えにくいことです。しかし、多くの人が指摘しているのは、このサマリヤ人こそ、イエス様を現している、ということです。自分を憎み十字架につけるような相手のためにも、十字架にかかって贖いの業をしてくださったのです。本当の意味で神の慈愛の律法を成就した、完成されたのは、イエス様なのです。

旧約聖書が教える神の愛、それは甘やかすような愛ではなく、罪を罰する厳しさも持った愛です。その愛は、十字架によって成就しました。私たち罪人を救う愛と、罪を罰する神の義が、十字架のイエス様によって示されたのです。この十字架の愛が、自分の為だということを知ったとき、私たちは神の愛を知ることが出来るのです。

まとめ.

イエス様は譬え話が終わり、最後に、律法学者に言いました。「あなたも行って同じようにしなさい」。果たして、彼は実行できたでしょうか。恐らく出来なかったのではないでしょうか。しかし、彼だけを非難してはいけません。私たちは、実行できるでしょうか。自分を憎む者を愛する、その愛はどうしたら、実践できるのでしょうか。ヤコブ書の中で「御言葉を実行する人になりなさい」と教えられています。しかし、それは、簡単に実行できるから、そう命じているのではありません。イエス様の教えは、どれも難しい、いいえ、実行不可能な教えです。それは、人間が自分の力で実行して、誇ることができないためです。だからといって、御言葉を聴いただけで終わってはいけない、それがヤコブの教えていることであり、ここでイエス様が律法学者と傍にいた弟子たちに語っておられることです。

誰にも出来ないとしたら、どうしたら良いか。もし、この律法学者が、自分には出来ない、律法の中心である隣人愛を実行できない人間だと認めたら、彼はイエス様のところに、謙虚になって戻ってきたのではないでしょうか。私たちもイエス様に戻ればいいのです。私の罪を赦し、救って下さった、その十字架の愛を何度も何度も思いだし、深く知るとき、私たちの中に、自分ではなく、神様が愛を増し加えてくださり、自己中心の愛ではなく、神様の愛で満たしてくださるのです。その時、愛の業が自然と生まれてくるのです。

律法は、聖書は、ルールや規則でもなければ、倫理道徳の書でもありません。それは神の愛の現れです。これからも、もっと御言葉を通して、神の愛に触れさせていただき、満たしていただきましょう。

 

(c)千代崎備道

トップへ

inserted by FC2 system