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礼拝説教「栄光の成就」ルカ9章28〜35節
 

序.

みなさんにとって、一番の自慢は何でしょうか。あるいは誇りとするものは何でしょう。人生の中で一番輝いていたのはどんな時でしょうか。今日、開きました箇所は、山の上でイエス様の容貌が変わったので、「変貌山」と言われている箇所です。イエス様の十二弟子の中で、ペテロにとっての自慢は、イエス様の栄光のお姿を見せていただいたことでしょう。もっとも、自慢したくても、イエス様が口止めをしていたので、なかなかしゃべることができなかったようです。他の福音書を見ますと、イエス様は、復活するまでは、この出来事を秘密にしておくように、と釘を刺しておいたようです。だったら、何故、イエス様は、弟子たちにこの光景を見せたりしたのでしょうか。今朝は、この不思議な出来事がどんな意味を持っていたのか、そして私たちにとっての栄光は何か、ということを考えてまいります。いつものように、三つのポイントに分けてお話しいたします。第一に「信仰告白の成就」。第二に「旧約聖書の成就」。そして第三に「聞き従う者への成就」です。

1.信仰告白の成就

もう一度、先ほど読んでいただいた箇所を見てみましょう。28節は「これらの教えがあってから八日ほどして」と書かれています。「これら」とは、その直前に出てくる記事を指しています。聖書がこのような書き方をしているときは、二つの出来事に大変重要な結びつきがあるからです。では、直前の出来事とは何か、それは18節からのことです。イエス様は弟子たちに、「わたしを誰だと思うか」と質問されました。当時の人々は、イエス様を預言者だと考えたり、殺されたバプテスマのヨハネが生き返った、と噂する人もおりました。十二弟子の代表であったペテロが答えたのは、イエス様こそ、救い主キリストです、ということです。ルカの福音書では「神のキリスト」と書かれていて、マタイの福音書の同じ記事では、もう少し詳しく、「生ける神の御子キリスト」と答えています。「生ける神」という表現は旧約聖書で良く使われているので、ユダヤ人にはなじみがありますが、異邦人には何のことか分からないので、おそらくルカは、わかりやすく、簡単にしたのだと思われます。

ペテロの答えを聞いて、イエス様はお褒めになりました。でも、その直後に、ご自分が十字架に掛かることを予告されると、ペテロはそれを否定したと他の福音書は告げています。ペテロは自分が告白したこと、イエス様が救い主であるということが何を意味するか、特に十字架に掛かるということが理解できなかったのでしょう。そこでイエス様は、この28節からの不思議な出来事を弟子たちにお見せになったのです。特別重要なことについては、十二弟子全員ではなく、特に三人、ペテロとヨハネとヤコブにだけお見せになることがありました。三人だけを連れて、イエス様は山に登られました。場所は、マタイの福音書では高い山としか書かれていませんが、直前の信仰告白の場所はユダヤ地方から北に行った、ピリポ・カイザリヤの地方だと書かれています。そこから、おそらくヘルモン山だと言われていますが、はっきりとは分かりませんので、この山を変貌山と呼んでいます。

一体、何故、イエス様は不思議な、そして栄光に満ちたお姿をお見せになったのでしょうか。それは、ペテロの信仰告白への応答です。ペテロが「あなたこそ生ける神の子です」「あなたこそ救い主キリストです」と言った。それに対し、イエス様が本当に神から来た救い主、神の御子であることを見せてくださった。イエス様の本当の姿は栄光に輝く姿だと教えてくださったのです。ペテロが頭で分かっていた「キリスト」ということよりも、もっと偉大なお方であることをお示しになったのが、この出来事です。

さて、イエス様はペテロの信仰告白をお褒めになりました。理解出来ていたかは別として、合格点はいただけたようです。では、人の事ではなく、私たち、自分の信仰告白はどうだったでしょうか。毎週の礼拝で信仰告白として使徒信条を一緒に告白します。これは教会全体の告白です。個人の、つまり、私の信仰告白とは何でしょうか。洗礼を受けた時に、洗礼の前か後かは人により違いますが、イエス様を信じて救われたことをお証しされた方が多いと思います。それが信仰告白です。では、その時、私たちはどれほどイエス様を理解できていたでしょうか。私が洗礼を受けたのは小学生の時でしたから、子供なりの理解でした。難しいことは分からなかったでしょう。でも、イエス様を信じる、その信仰によって、救っていただいた。その信仰告白によって洗礼を受けさせていただいたのです。最初の時の信仰告白は、小さなものであっても構わないのです。イエス様が「わたしの」救い主である、そう告白するだけで良いのです。でも、「救い主」という言葉の意味は、その後の信仰生涯で少しずつ学びます。そうすると、「救い主」が、どれほど素晴らしい意味を持っているかが分かるようになっていくのです。最期には、天国に行ったとき、私たちの想像を遙かに超えた、輝く姿のイエス様にお会いするのです。

神様は、私たちの信仰を、それで良いよ、と受け入れてくださいます。そして、私たちの拙い告白の言葉を、真実であるとして認めてくださり、実現してくださるお方です。イエス様を救い主と告白したとき、本当に私の救い主となってくださった。神様は信仰の告白の言葉を成就してくださったのです。

2.旧約聖書の成就

さて、もう一度、ルカに戻ります。9章30節を見ますと、そこにモーセとエリヤが出てきます。さて、この記事は、目撃した三人の証言があったから、書き残されたわけですが、ペテロたち三人は、どうして、モーセとエリヤだと分かったのでしょうか。顔を知っていたのでしょうか。当時の事ですから、写真があった訳ではありません。またイスラエルの文化の中には肖像画や彫刻は作りませんでした。よく、モーセとエリヤが分かった、と不思議に思われるかも知れません。おそらく、イエス様と二人の会話の中で、お互いの名前を呼び交わしていたのでしょう。ところで、なぜモーセとエリヤが出てきたのでしょうか。この二人に共通することは、一つは墓が無いこと。エリヤは天にあげられたと書かれ、モーセは山に登って、その後は誰も知らないとされています。ですから、そのままの姿で神様のところに行ったのではないか、と昔の人は考えていたようです。

でも、それだけではありません。モーセは、イスラエルに律法を与えた人です。エリヤは預言者の中の預言者と言われます。つまり、モーセとエリヤは旧約聖書を代表する二人なのです。旧約聖書のことをユダヤ教では、律法と呼ぶことがありますが、それはモーセの律法が一番重要だと考えたからです。たとえば、「律法にはどう書いてあるか」というのは、「旧約聖書にはどう書いてあるか」ということと同じです。また、律法に預言書を加えて、「律法と預言者」と呼ぶ場合もありました。ですから、モーセとエリヤは旧約聖書を示しているのです。

その二人とイエス様が話していた内容については、ルカだけが記しています。31節。

栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。

「エルサレムでの最期」とは、十字架のことです。ある先生は、このときイエス様は旧約聖書全体に預言されている十字架のことを、二人と話していたと説明しています。十字架の預言が正しく成就されるように、間違いのないように、モーセとエリヤと一緒に、最終チェックをしておられた。大変に面白い話です。では、旧約聖書には何が預言されていたでしょうか。旧約聖書に書かれている救い主、キリストはギリシャ語で、ヘブル語ではメシヤと言います。やがて来るメシヤに関して、旧約聖書は一見、矛盾することを語っています。それは、メシヤはダビデのような王であり、栄光の王である、という予告です。ところがイザヤが語っているように、救い主は苦難の僕、すなわち、人々から苦しめられて殺される、と預言するのです。これは人間には理解しがたいことです。栄光のお方がどうして迫害を受けなければならないか。それ以上に、なぜメシヤが死ななければならないか。死んだら救い主の働きが出来ないじゃないか。だから、ペテロはイエス様が十字架の予告をされたとき、それを否定したのです。

ところが、ここでイエス様が示されたのは、十字架に掛かられるキリストこそ、栄光の王である、ということなのです。イエス様にとっての栄光とは何でしょうか。輝く姿は、イエス様にとっては栄光でも何でもありません。それが本来の姿、あたりまえのことだからです。この栄光の姿は、弟子たちに見せるためです。では、何がイエス様にとって栄光なのでしょうか。輝く姿以上に大切なのが、この「エルサレムで遂げようとしている最期」なのです。イエス様の栄光は、十字架そのものなのです。なぜ、十字架が栄光なのでしょうか。

私たちは神様の栄光というと、たとえば、全世界を作られた天地創造の力を思い出します。確かにそれは偉大な御業です。しかし、それは人間の考えです。神様にとっては、人間を罪から救う働きこそ、偉大な働きなのです。父なる神様が計画し、御子を遣わされました。御子なる神は、人間の肉体をとられ、十字架に掛かられました。聖霊なる神は、そのイエス様の生涯が人間でありつつ神の子として全うできるように、処女降誕の最初から共におられ助けられたのです。今も、私たちの救いのために聖霊なる神様が私たちと共にいて信じることができるように助けてくださり、御子なるイエス様は天上で取りなしてくださり、父なる神様が義と認めてくださる。実に、全知全能である、三位一体の神様が、全力でなされた働きが救いの御業、その中心が十字架です。

また、神様は、自分から神様に背いている人間を救うために、その罪を赦すために、イエス様を送り、身代わりとなって下さった。自分に逆らい、憎んだりする相手のために命を捨てる、どこにそんなお方がおられるでしょうか。これは聖書の神様だけが出来ることなのです。天使や預言者にはさせられない、それほど大事な仕事、それが十字架です。だから、神様にとっては、他のどんなことより、天体の輝きより、天上でのイエス様の輝きより、もっと栄光に富んだことが、十字架なのです。

イエス様は、決してイヤイヤ十字架に掛かられたのではありません。私の罪の身代わりとなることを、ご自分の栄光とされたのです。皆さんが、何か大切なものを泥の中、いえ、汚い話しをして恐縮ですが、トイレの中に落としたらどうするでしょうか。他に方法がなくて、素手で拾い上げた。手が汚くなってしまいます。それを自慢する人はあまりいません。でも、イエス様は私たちの罪を背負って、神様の怒りを身に受けられた。傷だらけ、血だらけとなり、恐ろしい苦しみを受けられた。そのみすぼらしい姿、惨めな姿を、恥とはされなかった。あなたを救うため、私の罪を赦すために、それを堪え忍んだだけでなく、その働きをご自分の栄光としてくださったのです。このイエス様の愛に、どのように応答したら良いでしょうか。

3.聞き従う者への成就

ペテロは、この素晴らしい光景を見たとき、何を話して良いか分からずに、ここに三つの幕屋、つまりテントを立てて、いつまでも三人がそこにおれるようにしましょう、と言いました。何故、何を言ったら良いか分からなかったか。32節に、ペテロたちは眠かったと書かれています。寝ぼけていたので、訳の分からないことを口走ったのでしょう。この時のペテロの回答は、残念ながら合格点ではありませんでした。そこで、神様が正しい答えを示された。それは、雲の中からの声です。35節。

すると雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。

この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。

神様の答え、それは、イエス様の言葉に聞け、ということです。神様が、「これは私の愛する子」と言われた、そのとき、ペテロたちにはイエス様の姿しか見えなかった。まさに、このイエスこそ、生ける神の子だと、父なる神様ご自身が証言されたのです。そして、この神様から遣わされたキリストであるお方に、「聞きなさい」、それはただ話を聞くのではなく、聞いて従う、ということです。

イエス様の言葉に従うことは、苦難を伴うかもしれません。22節に、こう書かれています。

22 そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」

23 イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

24 自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。

実際、ペテロたち使徒は、キリストの命令に従い世界宣教に出ていって、殉教しました。私たちも、キリストの言葉、聖書の言葉に忠実に生きようとするなら、それは簡単なことではないことがあります。時には苦難があるかもしれません。しかし、それでもキリストに従うとき、神様は栄光を示してくださるのです。

カナの婚宴で、イエス様が水をブドウ酒に変える奇跡をなさったとき、「水を汲んだ僕たちは知っていた」と書かれています。苦労して水を汲んだ人たちだけが、イエス様の奇跡を目撃できたのです。イエス様に従った者だけが、生きて働いておられる神様の御業を知るのです。そして、ペテロと共にいたヨハネは、やがて、天国の情景までも幻の内に見せていただきました。私たちは、その天国に入れていただくのですが、そこに行ったとき、イエス様の本当の姿を、私たちも見せていただき、そして、地上での生涯、良く信じ続けた、良く従って来てくれた、と、イエス様から栄光の冠をいただく、とヨハネは告げています。イエス様は従う者の上にも栄光を成就してくださるのです。

結論.

イエス様は、この変貌山の時だけでなく、本来が栄光の主です。このお方によって世界が作られた、とヨハネの福音書は教えています。そして、やがて世の終わりに来られる栄光の王です。そのようなお方が、私たちを救うこと、十字架の贖いを、栄光としてくださったのです。何よりも私たちを救うことを誇りとしてくださったでのです。それなのに、もし私たちが、イエス様以外のことを第一としたり、十字架のイエス様を恥だと思ったら、なんと申し訳ないことでしょう。私たちが何よりも誇りたいこと、他の人に喜んで語りたいこと、それが、このイエス様による救い、ではないでしょうか。このお方を喜び、感謝し、そして、神様がおっしゃったように、この救い主に聞き従うものとなりましょう。

 

(c)千代崎備道

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