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礼拝説教「主の安息日」ルカ6章1〜10節
 

序.

イエス・キリストの地上でのご生涯を見るとき、それは苦難に満ちた、しかし愛に満ちた、素晴らしい生き方でした。多くの人に感銘を与えましたが、同時に、キリストに反発する人たちとの争いもありました。今日、お話しますのは、そのような争いの一つで、安息日論争と言われている記事の一つです。安息日とは、旧約聖書の天地創造に由来し、十戒の中で「安息日を聖とせよ」と書かれていることから、一週間の一日を特別な日とすることです。安息日という名前から休みの日と捉えられがちですが、何もしないということより、神様を礼拝する日という積極的な意味があります。旧約聖書では土曜日が安息日です。新約になり、イエス様の復活を記念して日曜日に礼拝をするようになりましたが、一部の教会では土曜日を安息日としています。また読み方も、「あんそくにち」の他に「あんそくび」、「あんそくじつ」というのもあります。しかし、曜日や名称の問題よりも、安息日の意味を正しく知ることが大切です。

福音書に見られる安息日論争は、安息日を定めている律法に関する論争でもあります。イエス様と反対者たちとの理解の違いが論争を生み出しました。それは神の戒めとは何なのか、という問題です。その一つが安息日の守り方なのです。今朝はルカ6章の出来事を元に、では私たちにとっての安息日は何かということを考えてまいります。いつものように三つのポイントでお話します。第一に「憐れみの安息日」、第二に「安息日を壊すもの」、第三に「救いの安息日」という順序でメッセージを進めてまいります。

1.憐れみの安息日

1節から4節までには、安息日に起こった事件とその結果の議論が書かれています。弟子たちが安息日に麦畑の摘んで食べた。他人の畑の物を勝手に食べても良いのか、と思われるかもしれませんが、これは律法を読みますと、貧しい者のために許されている行為でした。ただ、安息日は働いてはいけないと考えられていましたので、手で穂を積むことが労働に当たるのではないか、と文句をつけられたのです。その時、イエス様は旧約聖書のサムエル記に出てくる一つの出来事を例にとって答えられました。それはダビデと彼の従者たちが、サウル王に追われて逃げているときに、祭司だけしか食べてはならないパンをもらって食べた、ということです。

一見、二つのことは無関係に思われます。弟子たちは安息日に労働したと訴えられました。ダビデは祭司ではないのに祭司用のパンを食べた。両者に共通するのは、どちらも律法違反と考えられることです。ところが、ユダヤ人にとってはダビデは理想の王様ですし、聖書の中でも、この件に関しては批判されていない。だからイエス様はこのことを取り上げられたのです。二つの出来事を結びつける、もう一つのテーマは、憐れみということです。貧しく飢えている人のために、畑の物を食べることを許可したのは、弱い人への憐れみです。また、ダビデたちが禁じられたパンを食べることができたのも、サウルに追われて飢えている彼らを神様が憐れまれたからです。

今週、教会の聖書通読は民数記から申命記に入ります。この、旧約聖書の律法を読んでいますと、時には厳しい戒めもあるのですが、たびたち憐れみに満ちた配慮が見られます。それは、神様が憐れみに富んだお方だからです。奴隷として苦しんでいたイスラエルを神様は憐れんで、救ってくださった。だからイスラエルの民も、弱い者を憐れむべきである、これが律法です。ですから、どれだけ律法の戒めを守っているつもりでも、どれだけ羊や牛などの生贄をささげても、憐れみを忘れたら、神様は喜ばれないのです。

このルカ6章と同じ出来事を、マタイとマルコの福音書も記録していますが、マタイは、「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」という旧約の言葉を付け加えています。また、マルコの福音書では「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません」と書かれています。神様が安息日を人間に与えたのも、神様の愛が背後にあります。神様は人間に安息を与えるために安息日を造られたのです。疲れている人への神様の憐れみです。この神の憐れみ、すなわち神の愛を知った人は、神様を愛するようになり、喜んで神様を礼拝します。これが安息日です。安息日を代表とする律法、そして聖書の言葉の全ては、神の愛から出ていることを忘れてはなりません。律法学者やパリサイ派のユダヤ人は、それを忘れていました。だからイエス様は彼らを厳しく非難をしたのです。二番目に、このパリサイ人たちの問題を取り上げます。

2.安息日を壊すもの

パリサイ人たちは、イエス様たちが安息日律法を破ったとして非難しました。しかし、イエス様が指摘したのは、安息日や律法を破っているのは、パリサイ人たちのほうだ、ということです。パリサイ人とは、人種や部族の名前ではなく、ユダヤ教の一派であるパリサイ派に属する人々です。パリサイ人や律法学者たちは聖書の言葉を正しく守ることに熱心な人たちでした。しかし、その熱心が行き過ぎていたのです。安息日をどのように守るべきか。働いてはならないと書かれているけれど、どこまでが労働で、何はしてもかまわないのか。彼らは何十年何百年も議論を積み重ねてきました。その結果、本来の聖書には書かれていなかった多くの規則を、彼らは作り出したのです。たとえば、安息日には煮炊きをしてはいけないので、前日に食べるものを用意しておくとか、安息日には880メートルまでしか歩いてはならない、といった規則が千個以上もあったと言われます。現代でも、エレベーターに乗った時にボタンを押して良いのか、についての規則があるそうです。そのため、人々の生活は規則に縛られたものとなってしまいました。中には病気に苦しむ人にとっては辛い規則もありました。命に関わる場合は別ですが、そうでない病気の治療も禁じられてしまったのです。それでは「安息」とは言えません。そこには神様の憐れみの精神は見あたらないのです。

彼らがこのように安息日を初めとする律法を厳しく守ろうとしたのは、歴史的な反動からでした。旧約聖書の時代に、イスラエルの民は律法を守らず、神様に従わなかった。彼らの罪のために、ついには国が滅亡してしまったのです。だから、今度は失敗の無いように、厳格に守ろう。それは理解できなくはありません。しかし、その結果、律法の本当の意味である神の愛が無くなってしまった。それは人間の罪の結果です。滅亡以前のイスラエルの罪だけでなく、イエス様時代のパリサイ人たちは、自己正当化のために律法を利用し、他の人々をさばいていたのです。それは自己満足であり、自分のため、です。

ルールは、本来は人間を守るために作られます。しかし、それを自分勝手な人が破ると、さらに厳しい規則が作られていきます。どれほど詳しい法律を作っても、かならずそれを破る人、法の隙間をくぐり抜ける人が出てくる。それが人間の罪です。その結果、ますます人間は規則に縛られるようになります。イエス様は、大切な戒めは二つだけだと言われました。それは神を愛することと、隣人を愛することです。神の憐れみの愛を知るなら、必ず神様の御心に沿った生き方となるからです。

3.救いの安息日

6節からは、もう一つの出来事が書かれています。一週間後ではなく、別の安息日でしたが、同じ主題を扱っているので、並んで書かれています。福音書を読みますと、イエス様は多くの病人を癒されました。それは普段の日でも安息日でも同じでした。しかし、律法学者やパリサイ人の基準によれば、安息日に病人を癒すのは医療行為であるから、労働とみなされ、律法違反として訴えることができます。ところが、イエス様の問いかけは、全く別の次元でした。9節。

イエスは人々に言われた。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」

安息日は神様を礼拝する日であり、安息日を作ってくださった神の愛に感謝し、神の喜ぶこと、すなわち愛を実践する日です。善を行うべき日、命を救う日です。それを人間は、悪いことをしなければそれで良いだろう、としてしまった。しかし、するべき善をしないのは悪と等しいのです。イエス様が病人を癒されたのは、神の愛が源泉であり、救いの時代が来たことを示すためです。ですから、何曜日でも救いの日であり癒しの日ですが、安息日は、特にそうすべき日です。それは、安息日は神様がくださった救いの日だからです。

安息日を作られた神様は救いの神様です。旧約聖書を読んでまいりますと、そのことが分かります。出エジプト記で、神様はモーセを遣わしてイスラエルの民をエジプトから救い出されました。その時、今日は安息日だから、救いの業はお休み、ということは無かったのです。また、ヨシュア記で、エリコの町を倒したとき、神様は七日間、町の周りを回るように命じました。当然、その中には安息日もありましたが、神様の救いの働きは続いたのです。神様の救いは安息日でも与えられる。だから、イエス様は安息日に病人を癒されました。安息日に人を救うかどうかを決めるのは、救いの神様であり、人間のルールではないのです。

このことを一言で述べているのが、5節の言葉です。

そして、彼らに言われた。「人の子は、安息日の主です。」

人の子とはイエス様がご自分のことを言うときに使う表現です。安息日であっても、イエス様は主であり救い主です。だから救いの業を行われた。この「安息日の主」とは、もう一つの事を教えています。それは、安息日の主人は、イエス様であり、救いの神様です。パリサイ人たちは、いえ、私たちもそうですが、人間は安息日であっても自分を主としがちです。自分の思い通りにしようとし、自分の考えを押し通します。安息日が人間中心となったとき、パリサイ人のように自分の考えやルールを優先するようになるか、現代人のように自分の楽しみのために日曜を過ごすようになります。もちろん毎日、イエス様が主なのですが、特に安息日はイエス様が中心でなければなりません。それを行動で現すのが、礼拝です。真ん中においでになるイエス様を中心として時を過ごします。自分の思い、自分の都合、自分の考えを脇に置いて、御言葉を通して御心に従う。それがイエス様を主とする安息日でなのです。

イエス・キリストが主であることを忘れるとき、人間は自分の考えを優先します。その結果、神の憐れみを示す律法なのに、人間はそれに縛られていると思うようになりました。私たちも信仰生活において、イエス様による救いを忘れるなら、礼拝も祈りも献金も聖書も奉仕も、全てが規則になります。しなければならない重荷となります。しかし、神様がこんな自分をも愛してくださり、イエス様の十字架によって罪を赦し、救って下さった、そのことを覚えるとき、安息日はイエス様による救いを感謝し、それを喜ぶ日となります。このお方を礼拝し、お仕えすることが喜びとなるのです。

まとめ.

今日は、主の安息日です。私が自分勝手にする日ではなく、イエス様が主であることを憶える日です。それを忘れないように、毎月一度、聖餐式があります。イエス様の十字架は私たちの罪を赦し、心に安息を与えるためです。天国にまで続く、永遠の安息です。また、十字架を通して神様が示してくださった愛と憐れみを憶え、心から神様に従うのです。安息日は規則ではなく、神の愛への応答であり、心からの喜びによって礼拝を守るのです。この原則を忘れず、これからも感謝と喜びに満ちた、主の日を守ってまいりましょう。

 

(c)千代崎備道

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