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召天者記念礼拝説教「永遠の祝福」詩篇23篇
 

序.

序.この召天者記念礼拝のために神様が示してくださった聖書の言葉は、詩篇23篇。これは、もっとも多くの人に愛された詩篇です。この詩篇をもとに多くの賛美歌も作られました。詩篇23篇は、神様を信じて生きる生涯が、どれほど恵みに満ちたものであるかを教えています。この神様からの祝福は、すぐに無くなってしまうものではなく、永遠へとつながっているものである、ということを、今朝はお話しさせていただこうと思っております。

週報の内側に簡単なアウトラインが印刷されています。三つのポイントでお話します。第一に「主が羊飼いである人生」、第二に「永遠に主の宮に住む」ということ、そして第三に「永遠へと続く祝福」、という順番でお話しを進めてまいります。

1.主が羊飼いである人生

この詩篇23篇の作者はダビデであると言われますが、ダビデは旧約聖書の時代の王様であり、もともとは羊飼いをしておりました。羊というのは羊飼いがいなかったら生きていくことは出来ません。でも羊飼いの後を付いていけば、食べ物や水にありつくことができます。この詩篇では、私たちを羊にたとえ、神様が羊飼いです。主なる神様が羊飼いとなって導いてくださるのですから、乏しいことはない、という主題です。それは、お腹がすくことがないという意味ではありません。ダビデが羊を飼っていた場所は緑の少ない地域です。一つの草場から次の草場に移動するときは、お腹が空くのを我慢しなければならないことがあるでしょう。でも、必ず緑の牧場にたどり着きます。水辺、昔の訳では「いこいのみぎわ」と訳されています、水際に行って美味しい水を飲むことができます。また移動中は疲れてしまうこともあります。でも、3節には「主は私のたましいを生き返らせ」とあります。疲れた心が癒され、リフレッシュすることができます。

これは神様を信じて従う人生を描いています。神様が羊飼いとして私たちを導いてくださるのなら、一時的に乏しくなること、飢え乾くことがあっても、かならず必要が備えられ、憩いの時が与えられるのです。信仰者の人生にも、苦難の時があります。それを4節では「死の陰の谷」と表現しています。死をイメージするような暗い谷間を通らなければならなくても、人生のどん底のような苦難があっても、なお、災いを恐れない、と書かれています。辛いことがあったとき、それが災いである、神様からの罰である、といったことを思うなら、ますます辛くなりますが、そんなことを恐れる必要が無い、ということです。なぜなら、神様がいつも共にいてくださり、守り導いてくださるからです。4節後半に「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」と書かれています。どうして鞭や杖がなぐさめなのでしょう。羊飼いの鞭や杖は、羊を襲いに来る獣と戦う武器です。羊にとっては、羊飼いが鞭や杖を持っているから、敵が近寄ってきても怖くはない、平安でいることができる。それが慰めです。さらに、その敵の目の前で美味しい食べ物をいただき、5節には「杯はあふれています」。5節は、羊飼いのイメージから、旅人をもてなす一家の主人のイメージへと切り替わっています。当時は、助けを求めてきた旅人をもてなし、敵から守るのが主人の責任でした。

杯があふれる、とは、神様が下さる祝福というのは、必要最低限ということではなく、あふれるほどであり、自分だけでなく他者をも潤すことができるほどだ、ということです。この祝福は、6節では、「私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追ってくるでしょう」。祝福が追ってくる、逃げてもあとから追いかけてくる、というのです。だから、この羊飼いであり、旅人をもてなす主人である、神様といつも一緒にいたい、それが「私は、いつまでも主の家に住まいましょう」という最期の言葉です。主の家とは、神様が一緒にいてくださることです。私たちも、教会に来たときだけ神様がおられるのではなく、毎日の生活において、神様が共にいて下さり、導いてくださる。それが主を信頼する人生です。

詳しくお話しをしたら、きりがないほど、多くのことが教えられている詩篇です。神様の祝福に満ちた人生がどのようなものであるか、それは、これらの召されて行った方々の人生を思いめぐらすなら、そこに具体的な例を見いだすことができます。苦難の中でも喜びや感謝を述べておられた方もおられるでしょう。自分だけでなく、周囲の人を潤すことのできた、恵みあふれる方もおられたことでしょう。災いを恐れず、勇気を持って道を切り開いていった方もおられました。この方々は、主が羊飼いである人生の証人として生き抜かれたのではないでしょうか。

2.永遠に主の宮に住む

どれほど祝福に満ちた人生でも、いつかは終わりが来ます。4節の「死の陰の谷」と書かれているのは、死をイメージする場所であり、譬えですが、譬えではなく実際の死がやってきます。仏教では「三途の川」という表現がありますが、賛美歌の中にも死を川にたとえているものもあります。死の谷、あるいは死の川を通らなければならない時がくるのです。では、そうなったら祝福の人生も終わりなのでしょうか。

4節の言葉は、その死の陰の谷を歩むときでも主が共におられる、ということです。イエス・キリストは、死をも通ってくださったお方です。ですから、私たちやがて死ぬ時が来ても、共にいてくださることができるのです。死から復活されたお方が、手をとって死の谷を歩んでくださり、死の川を渡らせてくださるのです。そして、どこに連れて行ってくださるのでしょうか。4節で死の谷を通ったものは、6節の主の家、「いつまでも、主の家に住まいましょう」とありますが、文字通り、永遠の主の家へとイエス様が連れて行ってくださる、それが天国です。この地上での人生で救いをいただいたことを、永遠の命という言葉で聖書は教えています。永遠の命は、死んだらお終いということではなく、永遠に、天国でも続く命です。ですから「私のいのちの日の限り」とは、永遠の命の限り、祝福があるのであり、永遠にいつまでも主の家、主と共に生きる、それが天国なのです。

今、先に召された方々は、その天国におられ、憩いの時をもっておられます。そこでは敵が近づくこともできない、災いを恐れる必要な少しもありません。そして、杯があふれるほど、喜びがあふれ、輝いておられるのです。それは、死の谷を主と共に通り抜けていかれたからです。永遠の主の家、そこでは病や苦しみもありません。心配も悲しみも過ぎ去ったのです。永遠の主の家では、イエス様と共にいることを喜び、いつも賛美を捧げ、礼拝をするのです。今、愛する方々が、その主の宮におられることを憶えていただきたいと思います。

3.永遠へと続く祝福

亡くなられた方々は、今、天国で永遠の祝福に与っておられます。それはこの方々にとって、だけではなく、私たちにとっても幸いなことなのです。それは、天国が身近になるからです。外国というのは、どこか遠くの世界のように感じるかもしれません。しかし、その国に家族や親しい人がいるなら、身近に感じます。空を見上げたら、この空がその国までつながっていることに気が付きます。愛する方々が天国に行かれたということは、私たちの人生も、死んだら終わり、ではなく、天国まで続いていることを思い出させてくれるのです。救われた時に神様がくださった永遠の命、永遠の祝福の、保証なのです。知らない人ではない、親しかったこれらの方々が、そこにいてくださる、それが天国です。

記念会というのは、そのことを思い出させてくれます。私たちの教会もそうですし、多くのプロテスタント教会では、特別な時以外は、亡くなられた方々の写真を掲げることはしておりません。ギリシャ正教というキリスト教の教派では、礼拝堂の中に昔の聖人たちの肖像画が掲げられていて、「イコン」と呼ばれています。このイコンは、昔の聖人たちも一緒に礼拝をしている、ということを表していると言われます。いつもは天国で神様を礼拝している方々も、今日は、一緒に礼拝を捧げている、ということでしょう。この方々は、生きておられたときにキリストの救いの証人として歩まれただけでなく、今は、天にあって、神様を信じた者が永遠の祝福に与っていることの証人なのです。今の世界と後の世界を結ぶ働きをしておられるのです。

礼拝の最期の祝祷で、「今も、後も、代々限りなく」という言い方を使います。それは、今、生きている間だけの祝福ではなく、後の代、永遠の世界にまで祝福があるようにとの祈りです。私たちは、この地上にあって、神様を信頼し、お従いするとき、祝福に満ちた人生を送ることができます。その祝福は、今だけではなく、永遠に続くものなのです。

まとめ.

今日は、教会全体の記念会であり、それは山根繁代先生の亡くなられたことを記念して始められたと伺っております。私は、教会のお母さんであられた、繁代先生と直接にお会いした思い出はありません。文章を通してお人柄をうかがうだけです。繁代先生が山根先生と結婚されたとき、最初の数年は、教会にいくことができなかった、と山根先生の自叙伝で読みました。イエス様を信じる者にとって、礼拝に行けないというのは、とても辛い、それは苦難の時だったでしょう。しかし、繁代先生は、不平不満を言わず、主に仕えるように山根先生にお仕えになられました。その暗い谷間のような時でも、繁代先生はイエス様と共に歩まれたのです。だから、何も言わなかったのに、山根先生は少しずつ心が変えられ、やがて教会に行かれるようになったのです。死の陰の谷も主が共にいてくださり、やがて一緒に礼拝に与る恵みの時が来たのです。

私たちも今は、困難な時があるでしょう。また、ご遺族の方には、悲しみがおありになることと思います。しかし、私たちは、やがて天に行って、もう一度お会いする希望があるのです。そのとき、再開の喜びと、また私たちも永遠の祝福を味わうことができるのです。ですから、その日を目指して、地上での人生を立派に走り抜いてまいりましょう。先輩の方々の信仰に倣い、救いの道を守り通していきましょう。それが永遠の祝福の道だからです。

 

(c)千代崎備道

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