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礼拝説教「今年は恵みの年」ルカ4章16〜21節
 

序.

聖書を読んでいますと、知らないこと、分からないことがたくさんあるのですが、時には知っている、分かっていると思ったことも、実は違う意味だったんだ、ということがあります。新約聖書の中に「会堂」という言葉が出てきますが、これは教会ではありません。最初の教会は、建物ではなく、信者の家に集まって集会をする、家の教会でした。「会堂」とは、ユダヤ教の会堂です。ユダヤ人は年に数回、神殿で礼拝しますが、普段は安息日ごとに会堂に集まって礼拝をしました。その習慣が、後のキリスト教会の礼拝や会堂に大きな影響を与えました。イエス様は、当時の人々からはユダヤ教の教師と考えられていましたので、安息日には近くの会堂に行かれました。会堂での礼拝では、司会者が然るべき人を指名して、祈祷や聖書朗読をしてもらうのですが、この日は巡回してきた教師であるイエス様に聖書朗読とその解説を委ねられたのです。その中で、イエス様は、「今日、この聖書の言葉が成就した」、すなわち、主の恵みの年が来たんだ、と宣言されたのです。

「主の恵みの年」とは何でしょうか。私たちとどのような係わりがあるのでしょうか。今朝はこのルカ4章後半からメッセージを取り次がせていただきます、が、この18節、19節の言葉は、預言者イザヤの書と17節に書かれているとおり、イザヤ書61章からの引用です。では、イザヤはどういう意味で「主の恵みの年」と言ったのかといいますと、イザヤはレビ記25章という箇所を念頭に置いて語っています。ですから、まずレビ記の話をしなければ、イザヤが、そしてルカの福音書でイエス様が言おうとした意味が分かりません。そこで三つのポイントも、レビ記、イザヤ書、そしてルカの福音書という順序でお話しします。第一は「戒めとしての恵みの年」、第二は「救いとしての恵みの年」、そして最後に「賜物としての恵みの年」ということをお話いたします。

1.戒めとしての恵みの年(レビ記25章)

レビ記を、開かなくても結構です。難しい箇所ですので簡単に内容だけお話しますので、お帰りになってからお読み下さい。そこに出てくるのは「安息」ということです。神様は人間のために安息日を定められました。それは自分のために働くことを止め、神様を礼拝する日です。十戒の中に「安息日を覚えて聖とせよ」と書かれていますが、それを詳しく教えたのがレビ記25章です。まず、「毎週」の安息日。ユダヤ教では土曜日、キリスト教では復活を記念して日曜日に礼拝をします。そして、七年に一度の安息の年があります。畑を六年間使って収穫を得ます。七年目はその土地を休ませる。そうすることで土地がやせ細ることを防ぐことができますし、働く人間も休みます。でも、一年、収穫が無かったら食べていけない、と人間は考えます。そこで、神様は六年目には休みの年の分も含めて多くの収穫を与える、と約束しておられます。この七年目の休みを七回しますと、49年となりますが、50年目は、いわば「大安息の年」、これを「ヨベルの年」と呼びました。なぜヨベルと呼べるのかは知りませんが、この年は単なる休みの年ではありません。解放と赦し、すなわち救いの年です。負債のある者はそれを免除され、負債が返せないで奴隷となっていた者は解放されて自由の身となりました。一時的に人手に渡っていた畑も、本来の持ち主に返された。貧しい者、弱い者にとって救いの年なのです。

この決まりがきちんと守られていたら、社会的弱者を救済することができ、貧困に苦しむものが少なくなるはずですが、実際には多くの民は不従順でしたから律法を正しく守っていなかったようです。それは、ヨベルの年の決まりを守ったら、金持ちは損をするからです。同胞の人々を愛するよりも、神様の命令に従うよりも、自分の利益を優先する。この自己中心の罪がヨベルの年の精神を台無しにしていたのです。

神様は、イスラエルをエジプトの奴隷の苦しみから救われたお方です。ですから、神の民の中で奴隷となって苦しむ者を憐れむことを願っておられます。だから、このような制度を設け、また様々なルールを作って、人々を救おうとされました。しかし、人間の罪のために、戒めによる恵みの年は機能しなかったのです。

しかし、民が、そのように安息日やヨベルの年の戒めを守らず、安息を与える神に従わなかったら、どうなるでしょうか。当然のこと、神様は罪をさばかれます。その結果、イスラエルの民は捕囚、すなわち捕虜となって外国に連れて行かれる。そして、彼らが酷使した土地は持ち主がいなくなって安息を得るのです。人間が休ませないから、神様が強制的に休ませる。でも、神様に従わなかった民は、自分の土地で働くことが出来ずに、外国に移住させられ、外国の王に仕えて働くのです。彼らには本当の安息は与えられないのです。だから、救いが必要なのです。

私たちが神様から離れ、神様に逆らい、自分中心で生きるとき、それは欲望に仕えることであり、やがて疲れ切ってしまいます。そこには本当の安息はありません。(私は、毎年秋になりますと、次の年の手帳を買うのですが、最近の手帳はたいてい、月曜から始まるカレンダーで、日曜始まりが少ないのです。日曜日は礼拝の日であり、週の初めの日、というのが私のこだわりですが、アメリカでは土曜日・日曜日を「ウィークエンド」、週末と呼んでいます。それは、土日を休みとして遊びに行く、ということです。土日に、休むのではなく好きなことをする。その結果、月曜日は疲れてしまって仕事に行くのが気が重い。これを「ブルーマンデー」と言います。日曜日が心の安息日では無くなってしまったのが、神様を礼拝することを忘れた現代人の姿です。)安息を失った人間のために、神様が与えてくださるのが、救いです。

2.救いとしての恵みの年(イザヤ書61章、開かないで結構です)

預言者イザヤという人は、ユダ王国が罪のために滅びることを、その百年ほど前に預言しただけでなく、さらに50年後に国が回復することを預言した預言者です。イザヤ書の前半は、国の滅亡について語られ、後半は、その滅亡、正しくはバビロン捕囚から解放されることについて書かれています。ルカ4章でイエス様が読まれたのは、その後半の61章です。これもお帰りになってからルカとイザヤを比べていただきますと、細かい違いがあります。これは旧約聖書はヘブル語から翻訳されたのに対し、新約聖書のこの箇所は、ヘブル語をギリシャ語に翻訳したものを日本語にしていますので、その翻訳の課程で単語の並び方に違いが生まれました。でも、内容は同じです。

神様が与えてくださる安息は、律法のような制度ではありません。また、経済的に困っている人、社会的弱者を助ける、ということに留まるものではありません。捕囚に連れて行かれたユダヤ人は、確かに経済的社会的に苦しめられていましたが、神様は、そもそも捕囚になった原因である、罪からの救い、罪からの解放を計画しておられたのです。もし、罪の問題をいい加減にしておくなら、捕囚から帰ってきて国を再建しても、またいつかは不従順の罪のために滅んでしまう。事実、捕囚の後、再建された国と神殿は、紀元70年に再度滅亡してしまいます。罪の問題の解決こそ、本当の安息に必要なことなのです。どのような救いか、それがルカ4章に引用されたイザヤ書です。18節、19節。

わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。

これは神様が救い主を遣わされる、という預言です。救い主のことをメシヤと呼びますが、それは「油注がれた者」という意味です。また旧約時代には国を救う働きをする人に神の霊が下りました。ですから、主の霊が下り、油が注がれた、そのメシヤ、救い主が何をするのかが語られています。それは、「しいたげられている人々を自由にし」、これはヘブル語では「心の傷ついた者を癒す」と書かれています。捕らわれ人、それは外国に捕らわれている人ですが、それ以上に、その原因である罪に囚われ、悪により苦しめられて、目が見えずに暗闇に閉じこめられている人々です。救い主は罪のために苦しんでいる人々を救うお方です。でも、どうやって救いが与えられるのか、実はその方法が大切です。

19節は「主の恵みの年を告げ知らせるため」と書かれていますが、イザヤ書では、その後に少し続きがあります。こう書かれています。

「主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ」

主の恵みの年と共に、神の復讐の日があるのです。では何故、イエス様はこれを語られなかったのでしょうか。それは、まだ復讐の日が来ていないからです。その復讐の日とは、十字架のことです。神様が人間の罪に対して復讐される時です。しかし、私たちが神様から罪に対する復讐を受けたら、滅ぼされてしまいます。その神の復讐を、イエス様が引き受けてくださり、十字架の上で罪の罰をすべて受けて、身代わりとなって下さる。それによって、私たちには主の恵みだけが与えられるのです。イエス様はまだ十字架に架かる以前だったので、神の復讐の日については語らず、しかし、イエス様が救い主としてこの世に来てくださったので、もう恵みの時が来たのだと宣言されたのです。

今は、すでにイエス様が十字架に架かってくださったのですから、罪に対する神の復讐を恐れる必要はありません。神様が一方的に恵みを下さる、それが恵みの年です。この素晴らしい救いをイエス様が宣言されたとき、聞いた人々は、この恵みを感謝して受け止めたでしょうか。

3.賜物としての恵みの年(ルカ4章14〜44節)

洗礼を受け、悪魔の誘惑を受けられたあと、イエス様は主にガリラヤ湖周辺で活動されました。この地方は旧約時代に外国軍の攻撃を真っ先に受け、先に滅ぼされた。ですから救いによる解放のメッセージも、まずガリラヤ地方に伝えられました。イエス様は、神の国の福音を教え、人々の心の傷と肉体の病気を癒し、悪霊に囚われている人々を解放されたのです。イザヤが預言した通りのメシヤの働きをなさったのです。

その目覚ましい働きをされたイエスが故郷のナザレの村に来られ、会堂で聖書から語られる。人々は注目しました。イエス様がイザヤ書から、恵みの年、救いの時が来たことを語られたとき、その素晴らしい教えに人々は驚きました。ところが、すぐに彼らは思いました。なんだ、この若造は大工のヨセフの倅じゃないか。ナザレの村の人々はイエス様を救い主として受け入れなかったのです。その理由は、偏見と自己中心です。「ヨセフの子」という自分たちの知識から離れることが出来ない。いくらイエス様が素晴らしい教えを説かれても、聞く耳を持たなかったのです。偏見は私たちの考えを頑なにします。本当は素晴らしいものを、見下して受け入れないのです。また、ナザレの人々は、イエス様が他の町々で行われた奇跡の噂を聞いて、自分たちにもその奇跡を見せてみろ、と思っていたようです。それは、他の町の人々が奇跡を見て、あるいは病人が癒されて、良い目を見た。自分たちも何か得になることをして欲しい、という自己中心であり、また他の町の人たちが祝福を受けたことに対する妬みです。だから素直にイエス様に助けてもらおう、とは思わなかったのです。彼らがイエス様を救い主として受け入れなかったため、解放の時、恵みの年を味わうことができなくなってしまったのです。

この不信仰な姿は、ナザレの村の人々だけではありません。福音書を書いたルカは、初代教会も同じだということを指摘しているのです。ユダヤ人たちは異邦人を見下し、神様の恵みをいただけるのはユダヤ人だけだと考えていた。だから、異邦人が救われたと聞いたとき、偏見の故に受け入れられなかった。またパウロが異邦人伝道で活躍しているのを見て、妬み、自分たちだけの救いを守ろうと、パウロや異邦人クリスチャンを迫害しました。イエス様を殺そうとしたナザレの人々と同じです。

イエス様がせっかく主の恵みの年を宣言してくださり、救いの働きを始めてくださったのに、それを受け入れなかった人々は主の恵みを受け取ることができませんでした。それは今も同じです。神様は豊かに恵みを与え、救おうとしていてくださいます。でも、それを受け取り損ねてしまっていないでしょうか。私たちの中に頑なな考えがあるときに、神様からの恵みのメッセージを心に受け入れることが出来なくなります。また他の人が祝福されている姿を妬み、つぶやいたり文句をいったりすると、神様の恵みが見えなくなってしまいます。そして、自己中心な心は神様の恵みを拒んでしまうのです。イエス様が宣言された恵みの年、それは賜物です。神様がくださるものです。ところが賜物は受け取らなかったらいただけないのです。せっかくのプレゼントである恵みを、拒んでしまっていないでしょうか。神様は豊かに恵みを与えようとしておられます。だから、恵みを求めさえすれば良いのです。求めるなら与えられる、いえ、与えられるのだから求めるのです。

結論.

レビ記に出てきたヨベルの年は一年間だけです。次のヨベルの年までは50年間待たなければなりません。しかし、イエス様が宣告された「主の恵みの年」はすぐに終わってしまうようなものではありません。何年間続くのでしょうか。それは、今日までずっと、です。紀元前のことをBCと言います。ビフォー・クライスト、キリスト以前という意味です。それに対し、紀元後のことをADと呼びます。これは「アノー・ドミニ」、すなわち「主の年」という意味です。イエス様が来られたことにより歴史が変わったのです。主の年が始まり、それが続いているのです。ですから、主の恵みの年は、一年間だけでなく、今日まで続いているのであり、今年も「主の恵みの年」なのです。だから、神様の恵みをいただくために、心を開いて、救いを求めましょう。今日、求める人には、与えられるのです。

神様の恵みの計画ということを今朝はかいま見ました。旧約の出エジプトの時代のレビ記から計画されてきた恵みの年は、イザヤの時代を経て、新約の時代に成就し、今も、恵みの年なのです。この大きな計画を立てられた神様が、少しだけ祝福、というはずはありません。神様は一人一人のためにも豊かな恵みの計画を立てておられます。あとは、私たちが恵みを受け取ることです。今年は恵みの年です。だから、もっともっと、豊かな恵みを信じて、求めてまいりましょう。去年以上に御言葉を読もうと、新年の抱負を立てた方。一日一章だけでなく、もっと読んで、御言葉の恵みをいただきましょう。礼拝を守る決意をされた方もおられるでしょう。礼拝だけではなく、機会を作ってでも、もっと多くの集会に出席してみてください。週二回がお勧めです。ほかにも、様々な恵みの場が備えられています。それを逃さないために、もっともっと恵みを求める一年を過ごしていただきたいと願っています。

 

(c)千代崎備道

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