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礼拝説教「御言葉による勝利」ルカ4章1〜12節
 

序.

今年の標語は「教会の幻を見よう」としました。様々な幻や夢、ビジョンがありますが、最初の教会に与えられた幻は世界宣教です。それは全ての教会が共有している幻です。そして、この幻はイエス様の言葉に基づいています。私たちは、自分の勝手な願いを幻とするのではなく、キリストの言葉を受け止めて夢を描きます。それが教会の幻です。なぜなら、教会の頭はキリストであり、教会はキリストの体だからです。

今日は、昨年末に続いて、ルカの福音書を開きました。ルカは、福音書、すなわちキリストの生涯を描くとともに、使徒の働き、これは教会の歩みを描いています。そこには深い繋がりがあります。ルカは、ただ単にイエス様の伝記を書いたのではなく、教会の主であるキリストの歩みを通して、教会に大切なことを教えたのです。それは、キリストの生涯は旧約聖書の預言の成就であり、神の言葉の実現である、ということです。これからイースターまでの間、ルカの福音書を学んでまいりますが、全部を扱いますと、かなり長くなってしまいますので、特に、旧約聖書とキリストの繋がりに焦点を絞りながら、ルカの福音書を見て行きます。今朝は、ルカ4章より、「御言葉による勝利」という題でメッセージを取り次がせていただきます。いつものように、三つのポイント、今日は週報の裏に印刷していただきました。第一に「キリストの試練」、第二に「イスラエルの試練」、そして第三に「教会の試練」ということをお話いたします。

1.キリストの試練

イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けて、公の活動を始めた、これを公生涯と言います。イエス様の洗礼と私たちの洗礼とは少し違いはあるのですが、今日は洗礼に関する話では無いので、そのことは置いておきます。イエス様は洗礼を受けて、すぐ、聖霊に導かれて荒野に行き、そこで40日間、断食をした。そのとき、悪魔がイエス様を誘惑した、と書かれています。「試み」という言葉が2節で使われています。この言葉は、試練と訳される場合と、誘惑と訳される場合があります。似ているようですが、大きな違いがある言葉です。神様は私たちを試練に合わせられることがあると聖書は教えています。それは、試練を通ることで私たちが成長するためです。でも、絶えられない試練を送ることはありません。それに対して、悪魔は私たちを誘惑して、罪を犯させ、神様から引き離そうとします。悪魔は私たちが苦しいときに誘惑することもあれば、上手くいっているときに誘惑する場合もあります。神様は私たちを誘惑して罪を犯させることは決してなさいません。聖霊はイエス様を試練の荒野に導かれました。そこに悪魔がつけ込んで、誘惑しようとした、ということなのです。

悪魔の誘惑も、イエス様に対するものは、普通の人に対する誘惑と少し違います。それは救い主としての働きを妨害するための誘惑です。三つの誘惑が出てきます。ついでですが、マタイの福音書の順番が違いますが、内容は同じです。

第一の誘惑は、パンに関することでした。空腹だったイエス様に、石をパンに変える奇跡を起こせ、とそそのかした。神の子であるイエス様なら、それは可能です。でも、これは空腹というイエス様個人の問題ではありません。石をパンに変えることが出来るならば、食糧問題は解決し、世界を救うことが出来るじゃないか。物質による救いです。確かに、4000人を養った五つのパンの奇跡の後、人々はイエス様を王に祭り上げようとしました。でも、それはイエス様がなさろうとしていた救いの業ではありません。有名な言葉、「人はパンのみにて生きるにあらず」と答えたのは、それが本当の救いではないからです。

第二の誘惑は、世界の権力と栄光を与える、ということでした。悪魔を拝む、それは悪魔を神として仕える、ということです。悪魔に魂を売る、なんて言い方もあります。その代わりとして、全ての力を手に入れ、その力で世界を支配して、救うことが出来る。これも一つの方法です。でも、それは自分が上に立ちたい、という誘惑です。イエス様はもともと神であり、主であるお方です。それが身を低くして人間となられたのは、偉くなるためではない。神の僕となり、人に仕え、罪を背負うためです。だから、悪魔を拝むのではなく「神である主を拝み、主にのみ仕えよ」と答えたのです。

第三の誘惑は、高い所から飛び降りて人々の前に登場する、という奇跡です。奇跡を見たら多くの人が集まってきます。人気が出ます。しかし、このやりかたは大きな問題があります。奇跡を自由自在に使う、すなわち、神様の力を自分の思い通りに動かすことです。またどれくらいのことだったら神様は出来るかどうか、神様を試すことです。このとき、驚くべきことに、悪魔は聖書の言葉を使って誘惑しています。詩篇の言葉ですが、10節と11節の間にある言葉を省略しています。それは「あなたの歩むすべての道で」という言葉です。決して飛び降りることを語っているのではありません。文脈を無視して、自分の主張にとって都合のよいようにする。これは御言葉の間違った使い方です。神の言葉を思い通りにし、神様を思い通りにする。この誘惑に対し、イエス様は「神を試してはいけない」と答えました。

イエス様は悪魔の誘惑には乗らず、十字架の道を選ばれました。一時的に悪魔は退散しましたが、この後も、時々、イエス様を十字架から引き離そうとしました。ペテロが信仰告白をした直後、イエス様が十字架を予告したとき、ペテロを動かして十字架を止めさせようとした。十字架上のイエス様に、そこに立っていた人の口を使い、「十字架から降りて見ろ」とそそのかしました。しかし、イエス様は十字架の贖いを成し遂げてくださった。だから、私たちは救っていただけたのです。

この悪魔の誘惑に対して、イエス様はことごとく聖書の言葉を使って勝利されました。ご存じの方も多いと思いますが、このとき引用された言葉は、三つとも申命記の言葉です。なぜ、申命記なのでしょうか。一説には、申命記はイエス様の愛読書だった、とも言われます。でも、好きだから引用した、ということではありません。やはり、申命記でなければならない、理由があったからです。二番目に、そのことをお話いたします。

2.イスラエルの試練

40という数字の意味も、旧約聖書にさかのぼります。エジプトから救い出されたイスラエルの民は、民数記を見ますと、神様に従わなかった。約束の地にスパイを遣わして、そこが良い地であることが分かった。神様は、その約束の地に行けと命じました。それなのに、人々はエジプトに帰ろうとしたのです。その不従順のために、スパイが歩いた40日にちなんで、40年間、彼らは荒野をさまようことになった。神様にとっては40日と40年は同じことなのです。その荒野の放浪の最後に、40年間を振り返って書かれたのが、申命記です。

モーセは申命記の中でイスラエルの民に語りました。人々はこれまで様々な罪を犯してきました。三つの重要な罪が出てきます。

第一に、パンの問題です。救い出してくださったのは神様ですから、かならず養ってくださるはずです。それを信じられなかったイスラエルの人々は、神様に不平を言い、モーセに文句を言いました。そのとき、神様はマナという食べ物を与えました。いわば、天からのパンです。そのことをモーセは、神様がマナを与えたのは、人間はパンによって生きるのではなく、神の言葉によって生きることを教えるためだった、と語っています。御言葉に信頼するなら、天地創造の神様の言葉はかならず実現する。だから、御言葉を信じるなら養っていただける。私たちも、神様とその言葉を信頼できなければ、明日、どうなるかも心配です。だからお金や食べ物を蓄えなければ不安になるのです。ここに潜んでいるのは、神様を信頼しない、という不信仰の罪です。それに対して旧約聖書の言葉は「パンだけで生きるのではない」、御言葉を信じることが真の生き方だと教えています。

第二は、偶像礼拝です。偶像を拝むとは、本当の神ではないモノを拝むことですが、偶像は自分の欲望を現しています。何か捧げたら、何でも好きなものが手に入る。実は、偶像が神なのではなく、偶像礼拝とは自分の欲望を神とすることなのです。ところが、人間は偶像を拝んでいると、やがて自分の欲望に支配され、悪魔に仕えることになってしまいます。だからモーセは申命記の中で、偶像に仕えるのではなく、「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」、と教えたのです。

第三は、マサという場所での反逆です。これは水がないといって文句をいったときで、出エジプト記に出てくる事件ですが、そのときイスラエルの民は「主は私たちの中におられるのか」と言ったと書かれています。つまり、もし私たちの中にいるのなら証拠を見せて見ろ、水を出して見ろ、いうことです。神様を試すことだったのです。自分たちの中に神がいるのなら、その神を思い通りに利用する、という罪です。だから神様はモーセを通して、「あなたの神である主を試みてはならない」と命じたのです。

イエス様が悪魔を撃退するために使った申命記の言葉は、本当はイスラエルがこの御言葉の通りに神様に従うべきだった。でも、彼らは御言葉を拒み、神様に逆らって罪を犯した。そのために40年間の放浪があり、また、その後の歴史でも、神様の言葉を語った預言者たちの言葉、また律法の言葉に逆らったために、国が滅亡した。もしイスラエルが御言葉に従ったなら、その御言葉により、あらゆる試練、あらゆる敵に勝利が出来たはずです。でも、彼らは御言葉を信じないで、失敗の歴史を歩みました。イエス様は、40日の荒野生活により、イスラエルの失敗の歴史をもう一度歩みなおして、その最後に御言葉により勝利され、イスラエルの失敗を帳消しにされたのです。それは、イスラエルの民だけではありません。私たちも神様に逆らい、御言葉を信頼せずに歩み、失敗します。その罪を赦し、イエス様が先に苦難を歩み、御言葉によって悪魔に勝利してくださった。だから、私たちもイエス様を信じるなら、勝利の道を歩ませていただけるのです。

さて、イエス様が試練を受けられたのは、イスラエルの敗北を勝利に変える、という旧約の成就であるとともに、教会に勝利の秘訣を教えるためでもあります。最後にそのことを話させていただきます。

3.教会の試練

使徒の働きを見ますと、ペンテコステの日に聖霊が下られ、そのときに教会が誕生しました。生まれたばかりの教会は、確かに聖霊に導かれて歩みましたが、それはすべてが上手く行くという歩みではありません。それどころか、すぐに迫害が起こり試練がやって来ました。その隙をついて、悪魔も教会を倒そうと策略を練って誘惑して来たのです。

第一の策略は、パンの問題でした。パンが足らなかったのではありません。分配の問題です。教会内に差別が生まれ、食料が正しく配給できなくなった。このままですと教会は分裂します。しかし、もっと深刻な問題が隠れていることに使徒ペテロは気がつきました。それは、この問題を解決するために使徒たちが奔走するなら、本来の役目である、御言葉の御用が出来なくなる、ということです。食事の問題は大切ですが、教会は御言葉によって生きるのです。そこでペテロたちは七人の執事を立てて、解決に当たらせたのです。そして御言葉がさらに広められていったのでした。

第二の策略、時間的順序は前後しますが、アナニヤとサッピラの事件です。この夫婦は共謀して、教会を騙そうとしました。土地を売った代金をごまかして、それが全財産であると偽って献金した。その動機は、人々の賞賛を得るためです。自分の栄光を求めて、神を欺いたのです。誉め讃えられたい、という欲望です。自分が主人公となりたかった。しかし、献金の意味はそうではない。神の僕として、献身することの現れです。「主を礼拝し、主に仕える」のが献金です。ところが、悪魔は、自分が偉くなりたい、ボスになりたい、という人間の欲望をつついて、教会を壊そうとします。この事件のときは、聖霊がこの夫婦をさばかれ、人々は神を恐れ、礼拝し、真剣に神に仕えるようになりました。

第三の策略、それはもっと巧妙なものでした。イエス様の命令に従い、やがて教会は世界宣教に進んでいきます。ユダヤ人だけでなく異邦人にも救いを伝えました。ところが異邦人宣教に対しての妨害が、教会の内部から起きたのです。それはユダヤ人のクリスチャンの一部が、異邦人クリスチャンにも律法を守らせようとしたのです。旧約の言葉に従って、異邦人も一度、割礼を受けてユダヤ人となってから救われるべきだ、という主張です。これは神様の救いをユダヤ人が独占するためです。教会の活動を自分たちユダヤ人の思い通りにするためです。異邦人のままでは救わせない、割礼を受け、先輩である自分たちのやり方にならうなら、救ってやろう、というユダヤ人の自己満足のための主張です。このままですと、世界に出ていって宣教するのではなく、世界中の人がエルサレムに来てユダヤ人となる、という、世界宣教とは反対になってしまいます。このときは全教会の代表が集まり、初めての教会会議が行われ、律法によるのではない異邦人の救いが正式に認められました。この事件のとき、悪魔はユダヤ人クリスチャンの自尊心につけ込み、旧約聖書の言葉を悪用して、イエス様の考えと違う方向に教会を向かわそうとしたのです。

旧約時代も新約時代も、悪魔は神の民を間違った方向に導こうとして誘惑します。それは昔の話、でしょうか。今も、私たちは同じ誘惑に騙されてはいないでしょうか。教会が、またクリスチャン一人一人が、御言葉によって生きることを忘れ、パンの問題に限らず「実際的な問題」に左右されて混乱することがあります。また、自分の栄誉や力を求めて、仕える姿勢を忘れたとき、争いが生じたり、不平不満が多くなります。また人間の思い通りに教会を動かそうとするなら、神様をコントロールしようとしたり、教会を自分のために利用するようになります。そうなると、教会は宣教の働きをやめ、自己満足を求めるようになります。三種類の問題に限らず、様々な問題が教会にやってきます。悪魔は知恵を尽くして教会を誘惑し、攻撃し、私たちを神様から遠ざけ、救いから引きずり落とそうとしているのです。

旧約のイスラエルも、新約の教会も、問題だらけです。それは人ごとではありません。同じようなトラブルが現代の教会にも、私たちの群れにも、起こります。だからこそ、そのような問題の中で神様が何と言われたか、その御言葉に耳を傾ける必要があるのです。イエス様が悪魔に対して言われた申命記の言葉は、使徒の働きの初代教会にも、私たちにも語られている忠告です。そして、聖書の言葉が勝利の秘訣であることを、イエス様は身をもって示してくださったのです。

まとめ.

悪魔は実に巧妙な罠をしかけてきます。良いことも悪いことも、ときには聖書の言葉を悪用してまでして、私たちをイエス様の御心から引き離そうとします。自分の知恵では決して勝てません。でも、御言葉に堅く結びついているなら、かならず解決の意味が示され、勝利の道が与えられます。

新年になって新しい標語となりましたが、去年の標語、また御言葉を忘れてはなりません。「み言葉に聴き、喜びに生きる」「あなたの御言葉は、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました」。今年も、去年以上に御言葉に親しみましょう。その御言葉を用いて、イエス様が正しい道に導いてくださいます。教会の幻も、御言葉に裏打ちされたものでなければなりません。いつも御言葉に親しんでいるなら、また御言葉が心の喜びとなるなら、必ず、私たちの夢も御心に沿ったものとなります。自分の欲望や願いを押し通そうとするなら、悪魔につけ込まれて敗北します。でも、勝利してくださった主に従い、御言葉に信頼するなら、勝利させていただけるのです。今年も聖書を愛読してまいりましょう。そして、御言葉に従い、御言葉に信頼し、どんな問題にも勝利を与えていただきましょう。

 

(c)千代崎備道

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