トップへ

 

礼拝説教「神による幻(教会の幻を見よう)」使徒2章16〜21節
 

序.

元旦礼拝では、旧約聖書のヨエル書2章より、「新しい夢を見よう」と題して、メッセージを取り次がせていただきました。初夢は、もう忘れてしまいましたが、今年は、池の上教会が始まって50周年の記念の年、過去を振り返ると共に、これからの50年を夢に見たいと思い、今年の教会の標語を「教会の幻を見よう」としました。みなさんは、これからの池の上教会がどのような教会になることを願っておられるでしょうか。

私の夢は、この教会が神様の御言葉に従う教会、神様の栄光を現す教会となることです。昨年の4月、私がこの教会に任命を受けて赴任してきた頃のことです。一体、神様は何のために私をここに遣わされたのだろう、この教会においての私の使命は何だろうか、と考えておりました。そのとき、一つのヒントとして示されましたのは、創立者である山根先生が掲げられた目標、300人礼拝、ということです。これは人数が増える、ということだけを述べているのではありません。この間のクリスマスのチャペルコンサートで300人以上の方が教会に来られました。でも、それは一時的な数字であり、そうではなくコンスタントに300人が礼拝に集うようになったら、そうしたら、この会堂が大いに用いられたと言えるのではないか、そう思ったのです。では、300人集まったら、それでお終いか。違います。300人礼拝とは、それだけの人が集まっても、全体がキリストの体としてしっかりと結びつき、正しく機能し、さらに宣教のために用いられる、そのような300人であるべきです。簡単に言えば、300人集まっても大丈夫な教会です。そうなったら、それ以上に成長することも可能です。そのためには、もしかしたら礼拝を二部に分けることもあるかもしれません。奉仕者も今以上に大勢の方に加わっていただかなければ、一部の人が疲れきってしまいます。数だけでなく質においても成長することが大切です。

でも、300人礼拝は、一つの目標であって、幻ではありません。目標、特に数値化された目標だけを見つめていると、それは重荷となってしまいます。幻は、私たちの心がワクワクするような夢です。それを考えると嬉しくなる、希望が湧いてくる、そんな夢です。教会が幻を見つめながら、それに向かっての一つのステップとして、目標を考える。大事なのは、人数を誇ることではなく、神様を崇めることです。そのような幻を見させていただきたいのです。

もう一つ、考えていることがあります。世代の問題です。どこの教会でも、若い世代が少なくなっていると言われます。また、お年をめされた方々が多くなっていき、礼拝を守ることが難しくなっていくのも、日本全体の傾向です。教会で赤ちゃんが成長して、青年となり、壮年となり、やがて年老いても礼拝を守ることが出来るような、そんな教会でありたいと考えています。ある教会は、教会付属の老人ホームを作りました。それも一つの方法です。人まねではなく、池の上教会に一番あった方法を考えていきましょう。他にも課題はあります。委員会など、様々な人が具体的な問題に取り組んでおります。でも、目の前のことだけ、次は何をするか、それが終わったら次は、ということだと、疲れてしまいます。ときには、私たちが予想もできないほどの祝福を神様が与えてくださると信じて、大きな夢を見たいのです。他にもいろいろな夢がありますが、またいつかお話させていただければと思っています。

前置きが長くなりました。この神による夢について、聖書は何と言っているか、それを、今朝は、使徒の働きの2章から、説教を取り次がせていただきます。(今日も、週報の裏のアウトラインはありません。)いつものように、三つのポイント。第一に「預言の成就」、第二に「教会の幻」、そして第三に「キリストの言葉」、ということをお話いたします。

1.預言の成就

先ほど、司会者に読んでいただいた言葉は、元旦礼拝に来られた方は、聞いたことがあると思われたでしょう。16節に書いてある通り、ヨエル書の引用であり、それが成就したんだと告げているところです。ヨエル書とは細かい違いがありますが、それは旧約のヘブル語をギリシャ語に翻訳したものを日本語にしているためで、内容は同じです。預言者ヨエルによって神様が語られた預言の言葉が、今日、成就したんだ、と使徒ペテロが語っています。この使徒の2章の出来事はペンテコステと呼ばれている日のことです。聖霊が弟子たちの上に下り、その証拠として彼らは様々な国の言葉で話し始めた。それを聞きつけて集まった人々に、ペテロが語りました。これは、酔っぱらったんじゃない。朝っぱらから酔えるか、そうだ、ヨエル書を開こう、というわけではありません。(すみません。)

ヨエル書で、神の霊が注がれたとき、人々が預言する、それは神様が示してくださる救いの道のことなんだ、ということを先日お話いたしました。では、このペンテコステのときに、弟子たちは何を外国語で話したのでしょうか。11節の後半にこう書かれています。

「あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは」

弟子たちが語ったのは、神の大きなみわざ、すなわち、キリストによる救いの御業のことです。これは、象徴的な出来事で、これから全世界に福音が伝えられていく、世界中の言葉で救いの道が説かれる、ということを示しています。まさに、ヨエルの預言の通りです。神の霊、聖霊が下られたことにより、救いの御言葉が世界に伝えられるようになる。だから、21節、「しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる」のです。

この神様の預言は、この後、事実となって行き、こうしてユダヤから見たら世界の果てのような日本でも、救いの言葉が伝えられているのです。御言葉は、神様の幻は、かならず成就するのです。

私たちが神様からの幻をいただくとは、単なる夢物語ではなく、人間の予想や計算を越えた、神様の計画に目を向けることです。人間の計画は実現しない、それが小さなことであっても、思った通りにならないことがあります。自分のことでも、今年こそこうしよう、と決意したことが、何日続くか本人も分かりません。神様の計画は、それは人間にとっては幻のような、不可能なことに思えても、神様の計画はかならず実現する。そのことを証明しているのが、旧約の預言が新約で成就した、ということです。私たちは、この、預言者たちに預言を告げられた神様、御言葉を必ず実現される神様を信じています。だから、神様の計画、神からの幻を信じ、期待するのです。

2.教会の幻

さて、ペンテコステは、外国語で話す日、ではありません。それは最初のときに起こった特別な奇跡であり、本当の意味は、教会の時代が始まったということです。それまでは、イスラエルの時代でした。神様の救い、神様の祝福はイスラエルを通して示され、全世界に広まる、はずでした。しかし、イスラエルの罪により、それは出来なくなった。そこで神様はイスラエルの中に、アブラハム、ダビデの子孫として救い主を誕生させ、救いの道を完成されました。その救いを伝えるために選ばれたのが、教会です。

教会は、単なる人間の集まりではありません。弟子の集団、とは違います。そこに聖霊が下された。神様の霊があるから、キリストの教会なのです。キリストの体として、救いの働きが出来るのです。そして、聖霊が下ったとき、教会に幻が与えられました。それは人間の予想を超えることでした。誕生したばかりの教会に、やがて迫害が起こります。そのとき、迫害の中心人物が救われ、変えられて、宣教の中心人物になってしまう。そのとき、その人、サウロ、後のパウロは、死んだと思っていたイエス・キリストの姿を幻のような姿で見ました。弟子のリーダーであるペテロも、不思議な幻を見たことで、異邦人伝道が始まりました。パウロは幻によってヨーロッパ宣教へと進んで行きました。そのような不思議な幻だけでなく、神様は人々の心に思いを与え、決断させ、新しい働きへと送り出していったのです。それにより、世界中に宣教師が送り出され、不毛の地に教会が建てられ、迫害の国に福音が伝えられていったのです。

教会に幻を与えられた神様は、今も生きておられます。この教会も例外ではないはずです。山根先生に神様が働きかけられ、思いを与えて、池の上教会を始められた。たくさんの方々が同じ幻に導かれ、今日まで歩んで来た。ですから、これからも神様の導きがあるのです。

3.キリストの言葉

この幻は、ある時は不思議な形で、ある時は、はっきりと理解できる言葉で示されます。ペンテコステの日に下った聖霊の働き、その幻と預言は、世界宣教の始まりでした。この世界に福音が伝えられるということは、どこから始まったか、何が起源でしょうか。使徒1章の8節です。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

これはイエス様の言われた言葉です。そして、この言葉の通りになっていくことを記したのが、『使徒の働き』という書物です。聖霊は、キリストの霊とも呼ばれるお方です。聖霊が私たちのうちにいてくださるのは、キリストが共にいてくださることです。ですから、聖霊はキリストの言葉を無視して勝手に働かれるのではなく、三位一体のお方ですから、キリストの言葉に従って、ペンテコステ以来、教会を導かれたのです。この聖霊の霊感を受けて書かれた聖書の言葉、それが教会の指針です。ですから、御言葉に矛盾する導き方は、なされないのです。

キリストの言葉は、聖書の御言葉は、世の終わりまで廃れることはありません。ですから、このイエス様の最後の言葉も、今でも有効な約束です。私たちの教会においても、この言葉が働いているのです。私たちも、地の果てまでキリストの証人です。それは、ここにいる全員が宣教師となって世界に出ていくということでありません。子供たちの中から、伝道者、宣教師となる人が起こされるように祈りたいと思います。でも、世界というのは外国ということではありません。日本もその一部です。私の周りで、まだ救われてない方たち、その人たちにも救いを伝えるのです。次の世代にも伝えて行きます。それは私だけで出来ることではありません。自分一人ではなく、教会が一致し、兄弟姉妹が協力して、キリストの働きを進めます。このキリストの命令に従うとき、聖霊は今日も豊かに働いてくださり、私たちを導いてくださるのです。

まとめ.

今年は池の上教会、50周年です。そして、新しい時代のスタートでもあります。これから始まる新しい時代に向かって、進んで行きましょう。どこに向かって行くのでしょうか。それは、神様が導いてくださいます。教会の主であるキリストの御心によって進んでいくのです。それを、神様が少しずつ示してくださる、その幻を見せていただく、それが今年の目標です。

具体的には、みなさんに教会の将来を考えていただきたい。そして、それを持ち寄って、教会全体の夢を見たいと思います。できたら、今年、50周年の記念誌が作られますが、そこに教会の夢、といった題でも付けて、みなさんの夢を持ち寄ることができたら、素晴らしいですね。どんな小さな夢でも、どんな途轍もない夢でも良いです。それを実際に見ることが出来なくても。私も50年後は分かりません。でも、若い人たちが後に続いて、もっと先に進んでくださる、そう信じています。ですから、自分がするのではなく、神様が実現してくださる、教会の幻を見ましょう。

2010年になりました。50周年を迎えます。まさに新しい時代が始まります。何が起こるかは、神様だけがご存じです。困難があっても、導いてくださる方を信じたら、恐れることはありません。夢を描きつつ、幻を見つつ、御言葉を信頼して、前進する一年といたしましょう。

 

(c)千代崎備道

トップへ

inserted by FC2 system