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礼拝説教「新しい夢を見よう」ヨエル2章28〜32節
 

序.

あけましておめでとうございます。新しい年を、まず神様を礼拝して始める幸いを感謝いたします。今年、一年がお一人お一人にとりまして、神様の祝福を豊かにいただく年になることを心から願っております。

元旦礼拝と言いますが、「元旦」とは1月1日の朝のことだそうで、まだ午前中ですから、元旦ですね。「正月」というのは一月全体のことですが、一ヶ月も正月気分でいる人はあまりおりません。「初夢」は元日の夜か二日の夜に見る夢ですが、私は子供の頃、元日の朝、一年で最初に見る夢だと思っていました。そのころ、毎年、元日は新聞が楽しみでした。普段は新聞なんて、マンガとテレビ欄、スポーツ面しか見ないのですが、元日の新聞には特別なページがありました。元日特集、かどうか、名前は忘れましたが、カラー刷りの別紙です。そこには、未来はこうなる、といった記事が書かれていました。技術が進んで、すごいことが出来るようになる。東京大阪が、新幹線で当時3時間少しでしたが、それが一時間になる、といった話が、きれいなイラスト付きで書かれていました。それが元日の楽しみでした。でも、大きくなるに連れて、だんだんと現実的な記事が増えてきて、環境破壊とか、世界の様々な問題、のような話になると、あまりおもしろく無くなりました。やはり初夢はバラ色の未来であって欲しいものです。

旧約聖書の預言者の一人、ヨエルという人が夢について語っています。今朝は、この御言葉を通して、神様が私たちに見せてくださる夢、ということをお話いたします。今日は、残念ながら週報の裏にアウトラインを載せることが出来ませんでした。でも、いつもと同じように、三つのポイントに分けてメッセージを進めてまいります。第一に「救いの時代」。第二に「救いの御言葉」、そして第三に「救いの道」。

1.救いの時代

ヨエルという預言者の生きた時代は、審きの時代でした。25節を見ますと、様々な種類のイナゴが出てきます。中近東では数十年に一度、イナゴの大災害が起こります。空が暗くなるほどの大群が飛んできて、作物を全て食べてしまう。ヨエルは、現実か夢かは分かりませんが、イナゴを見たときに、やがてイナゴのように多い、外国軍が攻めてきて、国が滅びることを神様に示されたのです。なぜ滅ぼされるか、それは人々の罪の故です。救ってくださった真の神様を忘れ、自分勝手に生きている。だから神様の審きが下るのです。しかしヨエルは審きを予告しただけではありません。義なる神様は罪を必ず罰するお方です。でも愛の神様は、滅ぶべき民を必ず憐れんで救って下さる。今は審きの時代だけれども、やがて救いの時代が来る。それがヨエルのメッセージです。

今、私たちは新約聖書の時代に生きています。神様は時代が変わっても変わることの無いお方です。義なる神様は罪を見過ごしにはされない。でも、新約時代には、イエス様が十字架の上で私たちの身代わりとなって、罰を受けて下さった。だから私たちは信じるだけで救っていただける。これが福音です。ヨエルは、まだ旧約時代の人ですから、やがて来る時代をこのように語っています。30節。

30 わたしは天と地に、不思議なしるしを現す。血と火と煙の柱である。

31 主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。

これは世の終わりに起こるべき災害の予告です。確かに世界はだんだんと問題が増えていき、大変な時代が来るかもしれません。でも、32節。

32 しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。

誰であっても、救い主を呼び求めるなら、神様に救いを求めるなら、神様は救って下さる。これがヨエルによる福音の予告です。この救いを保証するのが、28節、29節です。ヨエルは、審きの時代が救いの時代に変わることのしるしとして、28節の「幻」ということを語りました。28節に「その後」と書かれているのは、審きの時代が終わって、救いの時代が始まるなら、という意味です。ですから、このヨエルの預言は救いの時代に生きる、今の私たちにも語られている言葉なのです。

2.救いの御言葉

28節の前半と、29節は、同じ事を語っています。神様の霊が全ての人に注がれる。男も女も、また身分の低い者も、神の霊が注がれる、という言葉です。新約聖書の時代になりますと、聖霊ということが示されるようになり、やがて、そのことを正しく教えるために、三位一体という難しい神学用語が用いられるようになりました。でも、ヨエルの時代は、まだそのような表現も思想も生まれていなかった時代です。旧約聖書の中で「神の霊が注がれる」というのは、特別な意味があります。旧約聖書の中で「神の霊が注がれた」人とは、士師記に出てくるさばきつかさという指導者たち、それから特に預言者たちがそうです。彼らは神様の命令に従った人々です。ですから、神の霊が注がれるとは、神様から言葉をいただいて、それに従うことを意味しています。

新約聖書においては、この神の霊が、聖霊というお方であることが分かります。「誰でも聖霊によらなければイエスは主であると告白することはできない」と書かれています。私たちがイエス様を救い主として信じることが出来るのも、聖霊が助けてくださるからです。救われる以前から、少しずつ聖霊が導いてくださるのです。この聖霊が心の中に語りかけてくださる言葉に従うときに、私たちも救いの道を歩むことができるのです。聖霊は、自由な働きをされるお方ですので、特別な方法で直接に語りかけてくださることもあります。旧約聖書の時代には、まだ聖書が完成されていなかったので、神様が直接に言葉をかけられることが多くありましたが、今は聖書が完成しましたので、多くの場合は聖書の言葉を用いて、私たちの心に御心を示してくださいます。大切なのは方法ではなく、その聖霊が示して下さった御言葉に、従うか、です。

一年の始まりにあたり、ご自分で聖書から「今年の御言葉」を示された方もいらっしゃると思います。素晴らしい事です。でも、その御言葉は大切にしまっておく、のではなく、この一年、その御言葉を信じて従っていくことが大切です。神様は私たち一人一人に語りかけて下さり、正しい道に導いて下さる。それが、ヨエルの言った、神の霊が全ての人に注がれる、ということなのです。

3.救いの道

神の霊が注がれたときに、何が起こるか、それが28節の後半です。

あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。

ここも、全ての人に関して書かれています。年寄りは夢を見るけれども、若い男は夢を見ないで幻を見る、ということではありません。息子も娘も、年寄りも若者も、全ての人が預言をし、夢を見、幻を見る、という意味です。ヨエル書においては、預言と夢と幻は、同じ事です。実は、「幻」と訳されている言葉ですが、たとえば預言者の代表選手の一人、イザヤ書の最初は、「イザヤの幻」という言葉で始まっていますが、イザヤは特別な幻を見ただけでなく、神様からの言葉を聞いた人です。預言書においては、幻と預言とは同じ意味です。また、夢も神様が御心を示される方法として用いられました。では、神様は何を示されるのでしょうか。それは救いの道です。神様の御言葉は、命の道、祝福の道を指し示すものです。ところが、人々は神様の御心とは違う方向に向かっていました。ですから、神様の御心が示されたとき、それは人間の理解を超えたものだった、だから救いの道は幻のように感じられたのです。

神様は、私たち一人一人を導こうとしておられます。それは、自分の思い通りではないかもしれません。自分の計画通りに物事は進みません。神様は私たちの思いよりも、もっと素晴らしいことを計画しておられる。その御心を示していただく、それが「幻」です。最近の言葉を使うならば、「ビジョン」ということです。こうしたらこうなる、という人間の計算ではなく、神様の示される道が、今の自分には不可能に思えても、その道を信じて進んでいく。信仰による幻です。この幻、すなわち神様のご計画を全く考えないで、自分の考えだけで進むことは危険です。

昨年の後半、今年の御言葉を祈りつつ考えていたとき、最初に心に浮かんだのは「幻なき民は滅びる」という箴言の言葉でした。ただし、これは旧い英語訳からの引用で、日本語訳では少し違った言い方になっています。「幻なき民は滅びる」、それは、神様の計画を無視し、神様の御言葉に従わないで自分勝手に歩むのは、滅びの道なんだ、ということです。しかし、神様は私たちを滅ぼすお方ではない。だったら、幻を与えて下さるはずだ。そう思った時、「年寄りは夢を見、若者は幻を見る」という御言葉が示されたのです。神様が示して下さる幻を見せていただき、人間の思いを越えた神様の、救いの道を歩ませていただきましょう。

まとめ.

神様は、私たちを御心に沿った道へと導こうとしておられます。お一人お一人も、教会も、正しい道へと導こうとしておられる。その神様に信頼いたしましょう。今年、私たちの教会は50周年を迎えます。それは神様に導かれての50年でした。教会堂が二度、移転しました。50年前、誰が今日のような会堂を予想しておられたでしょうか。神様は人間の考えを越えたお方です。予想もしていなかった恵みを与えてくださいました。でも、それでお終いではありません。神様はもっと大きなことをして下さる。ですから、私たちも現状に留まるのではなく、神様が示して下さる道を前進していくのです。今年は、これまでの50年を憶えて神様に感謝する年です。同時に、新しい50年、新しい恵みに向かってスタートする年です。そのとき、神様の幻、ビジョンが必要です。

昨年は、11月にアメリカに行かせていただきました。グレンビューという教会の日本語部の20周年でした。その祝会で、英語部の長老の一人がお祝いの言葉を語られたのですが、それは、その日本語集会の始まりのことです。私の前任者の伊藤先生という方が、あるとき、他の方がしていた家庭集会を引き継いで欲しいと頼まれたそうです。その時、神様は伊藤先生に一つの幻を与えられた。それは彼が通っていたグレンビュー教会にたくさんの日本人が礼拝をするために集まって来る幻でした。先生は、グレンビューの一室を借りて集会を始めた。それが始まりでした。その後、一時は人数が減って、閉鎖を考えることもありましたが、20年経った現在、60名くらいの方が礼拝に集うようになった。神様の幻は実現するのです。

私たちも幻を見せていただきましょう。池の上教会がこれからの50年、どうなるのか、また、私の人生がこれからどうなるのか。必ず神様は素晴らしい祝福を与えてくださる、それを信じて、大胆な夢を見せていただきましょう。私の夢は、あさっての礼拝で、続きをお話します。でも、私一人の夢ではなく、皆様、お一人お一人が夢を持ち、それが教会全体の夢に一致していくとき、大きな夢となります。それが実現したとき、神様の栄光が私たちを通して現されるのです。神様に、教会の幻を、ビジョンを見せていただきましょう。

 

(c)千代崎備道

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