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礼拝説教「感謝と信仰」ルカ2章25〜35節
 

序.

序.今年、最期の聖日礼拝となりました。一年間、守られてきたことを感謝します。私たちが神様に感謝するのは、何か良いことがあったから、ではありません。良いことも悪いと思われることも、全て神様が私たちのために与えて下さったと信じるから、すなわち、神様を信頼しているからです。信仰による感謝です。今朝は、シメオンという人の信仰を学び、信仰による感謝ということを考えてまいります。シメオンと、それからアンナという二人は、長い間、救い主を待ち望んで来た人たちで、その一生の最期に救い主であるイエス様と出会った人です。特にシメオンに焦点を当てて見てまいります。

いつものように、三つのポイントで。第一に「聖霊に導かれる生活」、第二に「賛美と証しの生活」、そして最期に「祝福と使命と生活」という順序で進めてまいります。

1.聖霊に導かれる生活(25〜27節)

マリヤとヨセフは、二人とも、信仰深く、正しい人でした。当時の、信仰深いユダヤ人は、律法をきちんと守ろうとしていましたから、イエス様が生まれた時も、律法に従って、40日たってから神殿に行きました。現在でいう献児式です。その時の捧げ物がハトであったと書かれていますが、これは最も貧しい人が捧げる場合の律法です。イエス様はそのような家庭に生まれてきたのです。神殿にやってきた、この家族に近づいて来たのが、シメオンでした。25節から27節の始めで、シメオンについての説明がありますが、25節には「聖霊が彼の上にとどまっていた」と書かれ、26節では「聖霊のみ告げを受けていた」、そして、27節では、「御霊」、これも聖霊のことです。シメオンという人は、聖霊に導かれて生きていた人であることが分かります。

でも、聖霊に導かれるとは、どういうことでしょうか。旧約聖書を読んでおりますと、「聖霊が上にとどまる」といった表現が時々でてきます。それは、預言者や士師といった、神様が立てた人たちです。彼らは、神の命令に従って生きました。聖霊に導かれる生活とは、その神様の命令に耳を傾け、神様の言葉に従うことです。表現は少し違いますが、「神と共に歩んだ」ということです。どうしたら、そのような生き方が出来るでしょうか。たとえば、毎日、朝昼晩と三回祈ったら、良いのか。いや、三回では少ないから、一日10回くらい祈ったら、聖霊が私たちの上にとどまって下さる、のでしょうか。私たちが何かをしたら聖霊が来てくださるとしたら、それは聖霊を思い通りにできるということです。反対です。聖霊は神様であり、ご自分の思い通りに動かれるお方です。ですから、どしたら聖霊に満たされるか、という考え方自体が、自分の思い通りにしようという間違いなのです。聖霊に導かれるとは、神様が主である生活です。神様の言葉を良く聞き、小さな御声に聞き従う生き方です。神様と共に歩む人は、神様の言うとおりの行動をします。

シメオンは、神様に従って歩む人でした。そのような人は、神様の御旨にそった生き方となります。25節には、彼は「正しい、敬虔な人」と書かれています。神様に対して、正しい生き方をした人です。また、「イスラエルの慰められることを待ち望んでいた」。自分だけでなく、イスラエルの民、自分の同胞が救われることを願っていた。他者への愛がそこにあります。

聖霊に導かれていながら、罪を平気で犯し、自分のことだけを考える、ということはおかしいわけです。旧約聖書では、サムソンという人がいますが、彼は、神の霊が彼の上に下ったと書かれていますが、倫理的には正しいとは言えない生活でした。しかし、彼の最期は悲惨なものでした。せっかく聖霊が来て下さったのに、神様に従う生き方ではなく、自分の欲望に従う生き方をした、その結末がサムソンの最期でした。

いいえ、誰かを批判するのではなく、自分自身が、聖霊に導かれる生活だったでしょうか。そう考えたとき、自分はどれだけ神様の御心に沿った歩みをしてきたか、反省させられます。でも、自分で自分を変えることは出来ません。私たちが、日々、聖書を読んで御言葉をいただき、また、ことある毎に祈って生きるなら、聖霊が共にいて下さり、神様のお考えに従って私たちを作り替えてくださるのです。時には失敗することもあります。それでも、神様との交わり、すなわち御言葉と祈りの生活を続けるなら、失敗も生かして下さり、私たちを取り扱ってくださり、用いてくださる。それが聖霊の働きです。皆さんがこうして一年の締めくくりとして礼拝を捧げ、御言葉と祈りをもって一年間を過ごした、そのことが聖霊の導きです。自分が良い子だったから、ではなく、神様の方が忍耐をもって共にいてくださり、導いて下さった。何度も失敗をし、逆らった、その私を見捨てるのではなく、愛を持って共にいて導いて下さった。それだけでも感謝なことではないでしょうか。

2.賛美と証しの生活(28〜32節)

さて、シメオンは聖霊に導かれ、神殿にやってきました。そこで赤ん坊のイエス様に出会ったのです。そのとき、28節、

28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。

救い主と出会えたことを神様に感謝し、賛美を捧げました。聖書の中にはシメオンの生涯の最期のひとときだけが記されていますが、シメオンが神様を賛美したのは、このときだけではなかったはずです。信仰深い、敬虔なユダヤ人であった彼は、エルサレムに住んでいながら、神殿に行かないでいたはずはありません。御言葉に聞く、というのも、個人が自分の聖書を持つことが出来た時代ではありません。聖書の言葉を聞くために、神殿に行き、また当時のユダヤ教の会堂に通っていたはずです。そして、神の家では賛美が捧げられていました。いつも神様を誉め称える、それがシメオンの生活の中心でした。

また、彼の生活は証しに満ちていました。聖霊の御告げによって、救い主とお会いするまでは死なない、と言われていた。そのことは一人、自分の心にだけしまっておいたのではありません。預言者たちがそうであるように、神様の御言葉を受けた人は、それを語り伝えます。ですから、シメオンもそのことを周りの人々に語っていた。だから、ついにキリストに会ったとき、その口から自然と言葉が出てきました。それは、神様への賛美ですが、その内容は、神様が天地を造った素晴らしいお方だ、という賛美ではありません。神様のなさる救いの働きについて語っているのです。30節、

「30 私の目があなたの御救いを見たからです。」

救い主を見た、神様が救いの働きを始めてくださったことを見た。だから、29節では「安らかに去る」、つまり自分自身も安息という救いをいただくことができる、と述べています。また自分の救いであるだけではなく、この救いは、ユダヤ人にとどまらず、31節では「万人の前に備えられ」、32節では「異邦人を照らす」と語っています。救いが全世界に及ぶことを預言しています。

証しというのは、自分が体験した神様の救い、恵みを語ることです。賛美は、救いを知った、聖書的な言い方では「救いを見た」ことを、喜ぶときに、自然と賛美が生まれてきます。賛美と証しの生活は、救いを忘れずに喜ぶことから始まります。先週は、洗礼式が行われました。今年は全部で8名の方がこの教会で洗礼を受けられた。本当に感謝です。しかし、それは、洗礼を受けた方たちだけの喜びではななく、教会全体の喜びです。また、洗礼式は、一人一人が自分の受けた救いを思い起こし、感謝をささげる時です。洗礼を受けてから何年たっているとしても、今年も救いの道を歩み続けることが出来たことを感謝し、過去の救いではなく、今救われていることを確信し、また御言葉を通して自分に与えられた救いをもっと深いものとしていただき、そして、新たな気持ちで救いの恵みを味わう。そのとき、救いの喜びが再びわき上がってきます。賛美と証しは、その救いの喜びから生まれてくる結果です。

自分が救われたことをもう一度憶え、神様に感謝を捧げましょう。

3.祝福と使命の生活(34〜35節)

さて、シメオンは救い主に会えたことを感謝し、賛美を捧げただけではありません。34節では、マリヤとヨセフを祝福したと書かれています。この祝福がなされたのは、彼の言葉によれば、この世を去る日が近い時です。この時のシメオンが何歳であったかは書かれていません。36節から出てくるアンナという女性は、84歳と書かれていますが、それは寡婦となってから84年と読むこともできます。だとすると100歳はゆうに超えていたことになります。シメオンも、「キリストを見るまでは、決して死なない」と言われていたということは、若い時でしたらあまり意味がありません。かなりの高齢であったけれど、なお生かされていた、ということを意味しています。当時の人々にとり、長い寿命は祝福のしるしでした。また、救い主に会うということは特別な祝福でした。その神様からの祝福をもって、シメオンは二人を祝福したのです。

創世記でヤコブがヨセフの子どもたちを祝福したのも、自分が死ぬ日が近いことを知ってでした。ヤコブが自分に与えられた祝福を自分だけで終わらせるのではなく、自分の子孫に手渡した。同じように、シメオンは、神様が自分を祝福して下さった、その祝福をマリヤとヨセフに手渡したのです。彼の祝福は、使命でもあります。

シメオンが長く生かされたのは、救い主と会うという自分のためではなく、長い間待ち望まれてきた救い主がいよいよ来られたことを示すため、でした。また、彼はこれから救い主を育てていかなければならない、ヨセフとマリヤ、そこには困難が伴いました。その二人を勇気づけ、また、この赤ちゃんが本当にキリストであることを確信させる、その働きがシメオンの使命でした。シメオンは、自分に与えられていた祝福と使命を、マリヤとヨセフに手渡したのです。

神様の祝福とは何でしょう。ある意味では、全ての人に神様の祝福が注がれています。それが恵みです。しかし、そのような一般的なことではなく、神様が特別に私たちを守っていてくださる。時には大変なこともありますが、その中でも神様が共にいて助けていてくださるのです。そして、自分のことだけを考えるのではなく、他の人のために何かが出来る、アブラハムのように祝福の基として、周囲に人を祝福することが出来る、それが神様から祝福をいただいている人です。

神様の使命とは、それは祝福と共に十字架がある、ということです。シメオンは「安らかに去らせてくださいます」と言っています。それは、彼の生涯には苦難もあったことを意味します。しかし、彼は救い主との出会いを証すする、その使命のために生かされてきたのです。ですから、シメオンは両親を祝福した、と書かれていますが、34節と35節に書かれている彼の言葉は、祝福されたんだから良いことがたくさんありますよ、ではありません。特にマリヤが受ける苦しみについて語っています。34節の「多くの人が倒れ、また、立ち上がる」というのは、意味が分かりにくいのですが、その後の「また、反対を受ける」とは、キリスト自身が人々から反対を受ける、すなわち十字架の予告だと考えられます。そして、35節、「剣があなたの心さえも差し貫く」。マリヤ自身が剣で殺される、ということではありません。剣をさされたのはイエス様です。でも、それを近くで見ていたマリヤは、自分の心が刺し貫かれたのではないでしょうか。救い主を育て上げ、その生涯を見守る、それがマリヤの使命です。それは痛みや苦難を伴った使命でした。

私たちは、それぞれが神様の祝福をいただいている者です。神様が祝福を与えられるのは、それは神様の目的があるからです。ですから、祝福には使命が伴います。そして、神様からの使命には苦難が伴うことが少なくありません。逆説的ですが、祝福には苦難も含まれているのです。皆さんの、この一年間は、祝福があったでしょうか。こうして、今日、ここにおられること自体が、神様の特別な守りがあったからであり、祝福されているからです。では、今年、苦しみがあったでしょうか。困難があったでしょうか。私たちが苦難を受けるのは、それは神様から捨てられたからでも、祝福を失ったからでもありません。困難や悩みがあること自体、神様の祝福がある証拠です。苦難を通して、必ず良い実を結ぶようにされるからです。

まとめ.

あと数日で、2009年が終わろうとしています。今年、一年を振り返って、皆さんは何を感謝されますか。最近は少なくなりましたが、以前は大晦日の夜に除夜祈祷会が開かれました。私が子供の頃、除夜祈祷会で、「私の10大ニュース」と言って、今年の感謝を10個証しされる方がおられました。私も今年、どんな良いことがあったかしら、と一所懸命に思い出したものです。

何を感謝するか。そのとき、良いことだけを見て感謝し、悪かったことには目をつぶる、ではありません。苦しかったことも神様の恵みです。特に苦難の中でも、神様が共にいてくださった、それが何よりの祝福であり、感謝です。シメオンは、一生の最期に、救い主と出会ったことを感謝しました。しかし、実際にキリストが救いの働きをされるのは、30年後です。おそらくシメオンはそれを見ることなく、召されたはずです。しかし、彼は神様の救いがすでに始まったと信じて、賛美したのです。私たちも、苦難の結果、具体的に良い実が結ばれてはいないとしても、神様がやがて全てのことを良きに変えて下さると信じて、感謝を捧げるのです。良いことだけを数え上げるのでしたら、誰でもできます。もちろん、それでも、忘れるよりは良いことです。しかし、私たちは、良かったことも、良くなかったことも、全てが神様の恵みであることを感謝する、それは信仰による感謝です。今年、まだ解決されていない問題があったとしても、すでに神様の導きがあることを信じ、信仰によって感謝を捧げてまいりましょう。

 

(c)千代崎備道

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