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礼拝説教「神の言葉の通りに」ルカ1章30〜38節(1章全体)
 

序.

クリスマスは、イエス・キリストの誕生日であることは、ほとんどの方がご存じですが、それが一面に過ぎないことを聖書は教えています。神様の側から見るならば、クリスマスは、神の一人子であるお方を、人間の救いのためにこの世にプレゼントとして送られたことを意味しています。プレゼントというのは、もらう側にとっては、嬉しい、喜びですが、贈る側にとっては、送る喜びと共に、そのためにお金だけでない、時間をかけ、何を贈ったら喜んでもらえるか何日も考えて悩む。神様にとって御子を十字架につけるために送る、永遠の神であり、霊であるお方が、人間の姿となる。また、この救いの計画のために世界の初めから計画し、準備する。実に多くの犠牲を払ってくださったプレゼントです。そして、救いのために犠牲を払ったのは、神様だけではない、人間の中にも犠牲を払った人がいた。その一人が、今日、お話します、マリヤです。もう一人のヨセフについてはマタイの福音書が報告していますが、今年はルカの福音書からですので、またいつかお話いたします。

今朝は、このマリヤがどのような悩み、苦しみを体験したか、そして、それが、クリスマスにとり、また私たちにとって、どれほど大切なことだったのかを、皆さんとともに考えてまいります。ルカ1章から、三つのことをお話いたします。第一に「人間の理解を超える御言葉」ということ。第二に、「神の言葉への服従」。そして第三に「賛美を生む御言葉」、という順番でメッセージを取り次がせていただきます。

1.人間の理解を超える御言葉(30〜36節)

ある日、ガリラヤのナザレという町にいた、マリヤという女性のところに天使が現れました。その詳しい場所や、マリヤの年齢については、様々な伝説がありますが、聖書は何も語っていません。聖書が告げているのは、その天使の言葉です。先ほど、司会者に読んでいただきましたが、簡単に言えば、マリヤがこれから男の子を産む、という御告げです。それを聞いたマリヤには、とても信じがたい言葉でした。先週の礼拝では、同じルカの1章の最初の部分で、祭司ザカリヤがやはり天使から子供が生まれるとの御告げを受け、彼はそれを信じられなかった。その不信仰のために、彼は罰として子供が生まれるまで言葉が話せなくなった、と書かれていました。ところが、今回は信じなかったマリヤに、天使は何も罰を与えませんでした。何故でしょうか。女性だから大目に見られた、ということではありません。

ザカリヤが罰を受け、マリヤには何のおとがめもなかったのは、どちらも旧約聖書を読めば分かります。ザカリヤの場合、信じられなかった理由は、ザカリヤ夫妻が年老いていたから。でも、創世記にはアブラハムの例が出てきます。ですから、聖書を読んでいたら、信じることは出来るはずです。しかし、マリヤの場合、信じられない理由は、まだ彼女は結婚していない。旧約聖書の中で、男女の関係が無いにもかかわらず子供が生まれる、ということはありません。これは未だかつてなかった出来事ですから、最初、マリヤが信じられなかったとしても、不信仰だとは言われなかったのです。その代わり、天使は、もう少し詳しく説明をしてくれました。35節で御使いが述べていますのは、第一に、これは聖霊、すなわち神様の働きであること。第二に、神様の力の具体的な例として、エリサベツが子供を身ごもったこと。エリサベツ、つまり祭司ザカリヤの奥さんは、マリヤの親戚であると書かれています。どんな親戚かは書いてありませんので、年齢や親しさから考えて、おばさんと姪、といったところでしょうか。自分の良く知っているエリサベツ、年老いた彼女が子供を身ごもった、だから自分も子供を産むとしても不思議は無い。そうマリヤは考えたでしょうか。いくらエリサベツが身ごもっても、彼女は夫のある身です。自分はそうではありません。ですから、信じられない理由が消えたのでは無いのです。

聖書に書かれている奇跡など、なかなか信じられないことがあります。信じられない理由もあるでしょう。ですから、いくら説明されても、なかなか信じにくい、というのは無理のないことです。正しい知識を持つことで誤解は少なくなるかもしれませんが、何でも簡単に信じられるのではない。その最たる物が、ここに出てくる処女降誕であり、キリストの復活です。そんなの迷信だ、昔の人はだまされたかも知れないが、現代人は信じたりはしない。そう思われる方もおられるでしょう。しかし、聖書が私たちに教えているのは、昔の人も信じられなかった。当の本人であるマリヤも信じられなかった、ということです。聖書の中に出てくる人々だって、神様のなさること、全てを理解できたのではありません。人間の知識や知恵がいくらあっても、理解できないことがある。それは、神様は人間を超えた存在だからです。私たちの頭で全て理解しつくすことが出来るような小さなお方ではない。ですから、いつの時代の人でも、神様のなさることを信じられなかったり、見て、びっくりするのです。

奇跡のように、非科学的だから信じられない、ということもあります。つまり、自分の持っている知識の故に信じられない。反対に、自分には知識が足らないから分からない、ということも聖書には書かれています。どちらも、今までの経験や学び、知識、そういったことでは理解できない。でも、それを受け止める一つの方法があります。それが信仰です。信仰とは、何でもむやみやたらに信じる、という迷信のようなことではありません。むしろ、信じられないことを信じ、受け止めるのは、簡単ではない。そのことを二番目にお話いたします。

2.神の言葉への服従(37〜38節)

天使がマリヤに行った、最期の言葉を見ましょう。37節です。

神にとって不可能なことは一つもありません。

すなわち、全能の神、ということです。これは、マリヤも良く知っていることでした。アブラハムの前に「私は全能の神である」と自己紹介をされた神様です。天地を創造され、イスラエルの歴史において数々の不思議なことをしてこられた。それが全能の神です。マリヤはそのことを思い出したのです。そうだ、神様は全能の神ではないか。だったら、不可能と思われることも、神様なら不可能ではない。そう信じた。だから、マリヤは御使いの告げた言葉を信じることが出来たのです。

信仰とは、神様を信頼することです。私たちが奇跡のような信じがたいことを信じるかどうかは、最終的には、神様ご自身を信じるか、に懸かっています。神様がいないのでしたら、聖書に書かれていることを信じる理由はありません。神様がいても、たいしたことのできない神、人間よりもちょっと強いくらいの神でしたら、本気で信じる価値は無い。しかし、聖書が告げているような、天地を造られたお方、しかも言葉で命じるだけで世界を造る力のあるお方が、今も生きて働いておられるのであるなら、奇跡でも何でも、信じられないことではないはずです。本当に生きておられる神様を信じるか否か、それが問われているのです。

そして、この神様を信じるということは、別の課題を私たちにつきつけます。その神様のおっしゃる言葉を、信じるだけでなく、その御言葉に従うか、です。天地を造られた全能の神様、それは、全世界の主であるお方です。ですから、主であるお方を神様として仰ぐのに、「その言葉には従いません、私は私の思い通りに生きます、私が主です」とは言えないのです。そのことを短いですが、はっきりと述べたのがマリヤの言葉、38節です。

マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

「はしため」とは女奴隷、という意味です。しもべです。自分が主ではなく、神様がご主人様です。僕は主人の言うことを信じるか、信じないか、ではありません。自分の理解を超えていることでも、言われたことに従うのです。従ったら、後から、その意味が分かるかもしれません。自分が納得したら従います、では僕ではありません。マリヤは、御使いの告げたことを100パーセント理解はしていなかったかもしれません。自分が救い主の母となるということを実感をもって信じたのではありません。しかし、神様がおっしゃるのなら、従います、と応えたのです。それは、主である神様に自分の運命を全て委ねて、従ったのです。

この後、どうなるかは、まだ分かりません。しかし、考えるなら、いくつもの問題が待ちかまえていることが分かります。まず、婚約者であるヨハネになんと言ったら良いでしょうか。自分でも信じられなかったことを、信じてもらえるでしょうか。信じてもらえなかったら、それは、婚約者ではない誰かの子供を身ごもった、ということにされます。それは、当時の社会では石打ちの刑に処せられる罪です。たとえヨハネが天使の御告げであると、受け入れてくれたとしても、他の人々が信じてくれる可能性は低いでしょう。心配すればキリがありません。でも、マリヤは御言葉を信じて、従ったのです。そのとき、最初天使に会ったときの怖れは消えました。やがて、喜びが生まれます。そして、御言葉が成就したとき、それはマリヤを通して神様の栄光が現されるのです。

私たちが御言葉を神様からいただいたとき、それを信じ、従うなら、神様は栄光を示してくださいます。もし、聖書を読んで、読むだけで終わるなら、神様の栄光は示されません。聖書を読んでいて、これは素晴らしい言葉だ、と感じることがあると思います。そのとき、その言葉を神の言葉として受け止めているでしょうか。それとも道徳的な言葉として受け止めているでしょうか。道徳的な言葉でしたら、それを実行するかは自分の自由です。そして、それを行うのは自分の力です。でも、聖書の教えは、自分の力で行おうとすると、大変難しいことが分かります。そして挫折して終わってしまいます。しかし、神の言葉として信じ、信じるだけでなく、その言葉に従い、マリヤのように自分を委ねるなら、もしそれが実行できても、それは自分の力ではなく、自分を通して神様の力が働いてくださったことが分かります。そのとき、従った人は、神様の栄光を知るのです。

イエス様がヨハネの福音書の中で最初の奇跡を行って、栄光を現されたときのことを憶えておられるでしょう。結婚式の披露宴で、宴会用のブドウ酒が無くなってしまった時です。イエス様は僕たちに水を汲むように命じました。今、必要なのはブドウ酒であって水ではありません。また大きな水瓶六つに水を汲んで一杯にする、そんな大変なことを、何でこの忙しい時にしなければならないんだ。理由も理屈も分かりません。でも、僕たちは言われたことに従ったのです。従った僕たちは、主の栄光を知ることができました。従ったのではない、世話役の人は、奇跡によって与えられたブドウ酒を味わいましたが、主の栄光を知ることは出来なかったのです。神様の栄光を知る、神様がどれほど偉大な方かをしるのは、私たちが御言葉を信じて従ったときなのです。そして、そのような栄光を見せていただいたなら、何が起こるでしょうか。三番目のことをお話しいたします。

3.賛美を生む御言葉(46〜55節)

天使の御告げを聞いたマリヤは、それからまもなく、おそらく数日後、遅くとも一ヶ月以内に、親戚のエリサベツを訪問します。決して、天使が言っていた、エリサベツが身重であるというニュースを信じなかったのではありません。確かめる以上に、話がしたかったはずです。天使の御告げを受け、子供を身ごもるなんてことを語ることができる相手は、同じように天使の御告げにより、奇跡的な赤ちゃんが与えられたエリサベツ以外にいないでしょう。二人が会ったときのことが40節から出てきます。そのとき、エリサベツは聖霊に満たされて、まだ挨拶をしただけで何も話していないのに、マリヤの胎内に子供がいること、それが救い主であること、そして、マリヤが主の御言葉を信じて従ったことを語ったのです。それは、自分が信じたことが確かに事実であることをマリヤに確信させました。御言葉を信じたと言っても、本来信じがたい知らせでしたから、不安もあったでしょう。でも、エリサベツの言葉を聞いて、マリヤは自分の決断が正しかったことを知ったのです。そして、確かに自分の中に神様からの子供が与えられていることを確信できたのです。そのとき、マリヤの心もエリサベツ同様、喜びに満たされ、神様への賛美が生まれました。

マリヤが語った賛美の言葉が46節から書かれています。この賛美は「マグニフィカト」と呼ばれている有名な賛美で、最初の部分を元にしていくつもの曲が作られました。今日は、その全てを読むことはいたしません。お帰りになってからゆっくりと味わってみてください。賛美の内容は、神様を褒め称え、特に弱い者を救ってくださる神様をたたえる歌です。また、旧約聖書に預言されたことが成就したとの賛美です。この賛美の原型とも言われる歌が旧約聖書にあります。開かなくて結構ですが、第一サムエル記の2章に出てくる、「ハンナの祈り」と呼ばれている賛美です。比べていただくと、いくつかの同じ言葉を発見できます。内容も大変似ています。それは、マリヤが真似をしたということではありません。マリヤが旧約聖書を良く読んでいた。そして、自分が御告げを受けたとき、それに一番近い出来事として、ハンナのことを思い、その祈りの言葉を考えたに違いありません。それは、ハンナがやがて生まれる赤ちゃんが成長したとき、神様の救いの働きが行われるという祈りであり賛美です。ですから、ハンナの祈りの意味を深く理解したからこそ、同じような内容の賛美を語ることが出来た、ということです。聖書の言葉を良く読み、普段から御言葉によって生かされていたマリヤだから歌えたのであり、聖書の御言葉から生まれ出た賛美なのです。

聖書を良く読み、御言葉を心の糧としてたくさん受け取った人は、語る言葉の中に御言葉の影響が出てきます。祈りの言葉も聖書に基づいた祈りとなって行きます。もし賛美を語ることができたら、かならず聖書の言葉がその中に含まれるはずです。御言葉に生き、それを信じて従う者は、その人の生き方が聖書の通りになっていく。その人の言葉を通して、神様の言葉が伝えられていくようにされるのです。この教会でもそうですが、信仰の大先輩と言われる方々は、まさにその口から御言葉があふれ出てきます。それこそ、御言葉を信じ、御言葉に従った人に与えられる恵みであり、神様の栄光を知らされた人の姿なのです。御言葉を信じた人は神様の栄光を示す人生、賛美が生み出される人生を生きる者とされるのです。

賛美を生み出す人生、と言いますと、水野源三さんのことを思い出します。病気のために全身が動かなくなり、動かせるのはまばたきだけ。でも、彼はイエス・キリストに出会い、救われたとき、その喜び、神様の恵みをたくさんの詩として現し、その詩をもとにたくさんの賛美が作られました。まさに賛美を生み出す人生でした。自分自身は何も出来ない体です。でも、神様の御言葉により救われた人生は、神様の栄光を豊かに現すのです。私たちも、何か大きな事ができるか、ではなく、全能の神様を信頼し、僕として御言葉に従う、そしてどんな小さな事でも、主にお仕えして、神様の栄光のために生きるものとしていただきましょう。

まとめ.

マリヤが38節で、神様に従うと告白した言葉について、父の書いた本の中に、ある先生の言葉として紹介されている文章があります。このとき、マリヤはすらすらとこの言葉を語ったのではないだろう。おそらく、つっかえながら、必死で言葉にしたのだろう。それは、まるで液体の入ったビン、一升瓶のようなものを逆さまにしたら、サーッと水が流れ出るのではなく、ゴボゴボッとつっかえながら出てくるような言葉だった。そのように書かれています。御言葉通り、この身になりますように。それはこれから起こる出来事を考えるなら、簡単に言えることではありません。信仰の告白、神様に従う決意は、簡単なことではないでしょう。

私たちも、神様を信じて従うというのは、実際は簡単なことではありません。現実の事、社会の中で生きることを考えるなら、聖書の言葉に従って歩むというのは、無理であるように感じるかもしれません。でも、自分の力でそれをするのではありません。自分が主となって、全てをコントロールできるはずがありません。そうではなく、神様を信頼し、御言葉に聞き従うなら、神様がさせてくださる。そのような人生を歩んでいきましょう。

クリスマス、それは神様ご自身がまず、旧約聖書で預言された通りに行ってくださった出来事です。そして、その陰にはマリヤやヨセフのように、命がけで、あるいは多くの犠牲を払いつつ、それでも神様の御言葉に従った僕たちがいたのです。私たちも、救い主の降誕を祝うと共に、御言葉のとおり、この身になるように、と、救い主に従う決意をするクリスマスとしていただきましょう。

 

(c)千代崎備道

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