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礼拝説教「整えられた民」ルカ1章13〜17節(1章全体)
 

序.

クリスマスを前にした、この時期のことを、教会では「アドベント」、日本語で待降節、と呼びます。キリストの降誕であるクリスマスを待ち臨むという意味です。正確には先週から始まっています。一階のロビーの池の横には四本のローソクが立てられ、一週ごとに炎が増えていきます。しかし、なぜ待降節なのでしょうか。もうイエス様はこの世に救い主として来てくださったのに、なぜ「待つ」というのでしょうか。今朝は、クリスマスを待つとなどんな意味かを、聖書を通して考えてまいります。新約聖書のルカの福音書を開いていただきました。しばらく旧約聖書をお休みして、新約からの説教とさせていただきます。新約の最初には四つの福音書があり、四人の著者が、それぞれの側面からキリストの生涯を描いております。視点が違いますので、全体を読むとイエス様が、最近はやりの3Dではなく4Dで見ることができます。それぞれの特徴があります。マタイは王としてのイエス様を描いておりますので、まず由緒正しく系図から始まり、クリスマスの記事が続きます。マルコは僕としてのイエス様を強調し、いきなり大人の姿からその働きを描きます。ルカは、全き人間としてのキリストを描き、生まれる前から記述を始めています。クリスマスの前の出来事である1章から、救い主を待ち望む信仰とは何かを考えてまいります。

いつものようにお話を三つのポイントに分けて進めてまいります。第一に「不信仰の民」、第二に「栄光を表す民」、そして第三に「クリスマスの備え」、そのような順番でお話いたします。

1.不信仰の民

先ほど、司会者に読んでいただいたのは、天使がザカリヤという人に語った言葉です。ザカリヤは神殿で神に仕える祭司でした。何歳かは分かりませんが、夫婦ともに年を取っていた、けれども子供がいなかった、と書かれています。当時のユダヤの国では、旧約時代からそうですが、子供が多いことが祝福のしるしだという考えが強かった。二人とも子供を願っていたのですが、生まれないまま、年を取っていったのでした。ある日、ザカリヤは祭司のつとめとして、神殿の中心にある聖所に入って、祈りの香を焚く当番となりました。他の誰も入れない、神聖な場所です。一人、香を焚き、祈っていると、そこに天使が現れて、男の子が生まれると告げたのです。それは確かに二人が願っていた祈りでしたが、もう期限切れで諦めていたのです。まさか、この歳で子供が生まれるとは信じられない、そのようにザカリヤは答えました。

確かに、信じにくいことです。でも、絶対に信じられないことではありません。なぜなら、祭司は聖書を良く読んでいるはずです。聖書の中には、アブラハムのように、もう子供は生まれないと思われていたのに、神様が子供を与えて下さった例がいくつもあるからです。ザカリヤも妻のエリサベツも、神様の前に正しい生き方をし、ユダヤ教の定めもしっかりと守っていた、立派な人たちでした。でも、何かが欠けていた。聖書の知識はあったでしょうが、それが生きた信仰となっていなかったのです。全能の神様を信じる信仰に欠けていたのです。

信じなかったために、ザカリヤは口がきけなくなった、と書かれています。神の御言葉を信じなかったために、人間の言葉が語れなくなった。少し、厳しい罰のように感じます。でも、ザカリヤの姿は、イスラエル全体の姿と同じでした。ユダヤの人々も、神の言葉を知りながら、神様への信仰と服従に欠けていたのです。後で、子供が生まれたとき、天使は名前をヨハネとするように命じたのに、人々は勝手に違う名前にしようとした。彼らも神様からの言葉を真剣に受け止めていなかった。誰もが不信仰に陥っていた時代です。その人々への警告も込めて、ザカリヤは言葉をしゃべれなくなったのでした。

私たちも、神様の言葉を読みながら、それを信じようとしない、頑なな心でおりますと、どうなるでしょうか。やがて、神様の言葉を心で聞くことができなくなります。真理の言葉を語ることができなくなります。肉体の口は話すことが出来ても、その言葉は空しい言葉になっていきます。嘘や悪口、うわさ話や価値のない言葉、そんな会話になっていないでしょうか。神様の御言葉に対する真剣な態度と、その言葉を語られる神様への信頼、それを忘れないように、気を付けましょう。

ザカリヤだけでなく、イスラエルの人々は、御言葉を聞く姿勢が失われていました。そんなところに、神のことばとも呼ばれる救い主が来られたら、どうなるでしょうか。彼らの心を整えて、救い主を迎える民にならせる。そのために生まれるのが、ザカリヤとエリサベツに生まれる男の子だったのです。

2.栄光を現す民

やがて、御使いの告げた通りに、エリサベツは男の子を産みました。律法の定めに従い、八日目に割礼を施し、名前を付けることになりました。この当時のやりかたで、父親か、親戚の人の名前をもらうことが一般的だったようです。ところが、母親のエリサベツは反対です。59節からお読みします。

59 さて八日目に、人々は幼子に割礼するためにやって来て、幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとしたが、

60 母は答えて、「いいえ、そうではなくて、ヨハネという名にしなければなりません」と言った。

61 彼らは彼女に、「あなたの親族にはそのような名の人はひとりもいません」と言った。

62 そして、身振りで父親に合図して、幼子に何という名をつけるつもりかと尋ねた。

63 すると、彼は書き板を持って来させて、「彼の名はヨハネ」と書いたので、人々はみな驚いた。

どうも、ザカリヤは喋れないだけでなく、聞こえなくなっていたようで、人々は身振り手振りで赤ん坊の名前を尋ねました。当然、手話なんてなかった時代ですから、身振りで「名前は何か」と聞くのは苦労したと思います。ザカリヤはもっと簡単な方法を知っていました。書き板を使って、「その名はヨハネ」と答えました。これは、天使の告げた通り、つまり彼は神の言葉に忠実に従ったのです。そのとき、ザカリヤは再び話せるようになったのです。何をしゃべりたかったでしょうか。たくさん、言いたいことがあったでしょうか。彼が口にしたのは、それは神様への賛美の言葉でした。人々はそれを聞き、驚き、神様を恐れました。

不信仰の民の代表のようになっていたザカリヤは、神様を褒め称え、人々の心を神様へと向ける働きをしたのです。神様に用いられたのです。ザカリヤはさらに、言葉を続け、預言の言葉を語りました。それが、67節からですが、長いので全部は読みません。前半は、ダビデの子孫として神様が救い主を生まれさせてくださる、それは旧約聖書の預言の約束が成就したのだ、ということを語っています。後半、67節からは、今、生まれた幼子、ヨハネに関してです。ヨハネは預言者となる。普通、祭司の子供は祭司となるものです。しかし、ヨハネは生まれたときから預言者となるように神様が定めた人です。この預言者ヨハネの重要な役目は、救い主の先に立って、人々の心を整えて、神からの救い主を迎える民となさせることでした。

余談ですが、私の名前は、76節の最期から父が名付けました。ずいぶんとビッグな名前を付けたもので、未だにプレッシャーを感じ続けております。

78節。

78 これはわれらの神の深いあわれみによる。

そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、

79 暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、

われらの足を平和の道に導く。」

これらのことは、神の憐れみによる、と語っています。罪の中、暗黒の中に苦しむ人々を憐れみ、救うために、神様は、救い主とその前触れであるヨハネを送られたのです。ヨハネとは「主は憐れみ深い」という意味です。またザカリヤは「主は憶えておられる」です。旧約からの約束を神様は憶えておられ、ついに約束を果たしてくださる。それが救い主の誕生です。

ザカリヤは預言、すなわち神の御言葉を語りました。また旧約の預言の解き明かしをし、救いの道が来たことを示したのです。彼は、神の栄光の働きを現す者として用いられたのです。不信仰だった者が、神の栄光の器とされたのです。私たちも、神様の言葉を信じるとき、不信仰な者から変えられて、栄光を現す民として用いていただけるのです。

今日も、教会では聖書の言葉が語られ、伝えられます。そのために多くの方が尊い奉仕をしておられます。みんなが神様の栄光のために用いていただけるのです。

3.クリスマスの備え

今日、読んだルカの一章、その中で、救い主の道を備えたのは誰でしょうか。幼子のヨハネはそのために生まれました。しかし、まだ何もできておりません。ここでは、父ザカリヤが用いられています。彼は、周囲の人々の心を、神様へと向けさせたのです。老人となっていた二人に子供が生まれたことで、旧約聖書の時代の出来事が今も現実のことであることを人々に示しました。神様が全能のお方であり、救い主を与えて下さることがおできになることを理解させたのです。そして、天使の言葉と預言の言葉。昔々のことではなく、今、神からの言葉が語られることに、目を向けさせる働きをしたのです。

ルカがザカリヤの事件から始めたのは、そこからクリスマスへの備えが始まっていたからです。クリスマスへの備え、それは、神様の言葉に耳を向けることです。それこそ、神の「ことば」と呼ばれているイエス・キリストをお迎えすることなのです。

ところで、どうしてザカリヤは素晴らしい働きが出来るようになったのでしょうか。亡くなられた松木祐三先生が、ザカリヤが話せなくなったことは神の恵みだった、と書かれています。それは、口もきけず、おそらく耳も聞こえなくなり、ザカリヤは深く神様を思い、祈ることが出来たからです。その間に心が整えられていったから、ヨハネが生まれて喋れるようになったとき、賛美の言葉、預言の言葉があふれ出てきたのです。御言葉に聞いた者が、御言葉を伝えることが出来るのです。

私たちにとって、クリスマスの備え、それは、何よりも御言葉に耳を向ける事です。ただ聞くのではなく、心から恵みを求め、深く味わい、祈り続けることです。ぜひ、そのように心を整えてクリスマスを迎えていただければ、どれほど幸いな事でしょうか。クリスマスは、苦しみマスだなんて言う人もいます。牧師にとっては、同じような箇所から毎年お話ししなければならない、苦労の時ですが、信徒の皆様も、何年も教会に通っていますと、何度も聞いたことのある話を聞かなければならない、苦行の時かもしれません。しかし、私が毎年、感じますのは、毎回、必ず、新しい恵みを教えていただける、ということです。決して聖書の恵みが尽きることはありません。ですから、今年も新しいクリスマスの恵みを、と求めて心を備え、ついでに、牧師のためにもお祈り下さい。

また、自分だけで終わってはいけません。ザカリヤのように、自分が受けた恵みをお伝えすることです。他の人がクリスマスの恵みを受けることが出来るように、他の人の心を神様に向けるお手伝いをさせていただきましょう。小さな奉仕でも良いのです。また祈りによる背後の助けは何よりも大きなことです。教会全体の働き、また一人一人の小さな証し、それが、全て神様に用いていただくなら、どれほど多くの人に救い主を知っていただき、栄光が現されることでしょうか。祈りつつ、クリスマスへと備えてまいりましょう。

まとめ.

クリスマスの記事には多くのモチーフや象徴が使われています。神への賛美、幼子の誕生、闇の中の光、神の御言葉、さまざまなことが、一章にも出てきましたし、他の箇所にも出てきます。どれもが救い主を指し示しているものです。池の上教会でも、外にも中にも、様々な光が飾られています。また来週は幼子の祝福があります。今日の午後は素晴らしい音楽による賛美があり、聖歌隊やハンドベルも本番に向けて備えています。これらの全てが、主に用いられるように、私たち一人一人も心を備えて、整えられた民とされるように祈り待ち望もうではありませんか。

 

(c)千代崎備道

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