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礼拝説教「約束の先取り」創世記23章1〜6節(〜20節)
 

序.

先週は私たち一家の渡米のためにお祈り下さり、ありがとうございました。無事に帰ってくることが出来ました。シカゴでのことは、少しずつ、お話させていただこうと、思っています。また、牧師が留守中、教会の働きを皆様に担っていただいたことも、重ねて感謝申し上げます。特に、牧師に代わって講壇に立ってくださったM兄弟にお礼申し上げます。どうぞ兄弟の健康の回復のため、引き続きお祈り下さい。

先週は、様々な出来事がありましたが、その中でも、N長老が召されましたことは、池の上キリスト教会の歴史において、山根先生と共に教会を支えてこられた方を天に送った、大変に大きな意味のあることだったと考えさせられました。ご遺族の皆様の上に、天からの慰めが豊かにありますように、心より願っております。

クリスチャンが天に召されましたときに、しばしば「凱旋された」と表現する場合があります。信仰の戦いの生涯を全うされ、天国の門を天使の軍勢に大歓迎されつつ入っていく姿を思うときに、それはまさに信仰の勝利であり、凱旋であります。N長老の死は、天国への凱旋でありました。この言葉の表す意味は、信仰者の死は、一人の人間の死を越えた、大切なことがそこにあることを表しております。今朝は、創世記23章、アブラハムの妻であるサラの死の記事を通して、信仰者の死と、神様の下さる約束との関係についてお話させていただきます。

いつものように三つのポイントに分けてお話しいたします。第一に「神の民の葬り」、第二に「神の民の墓地」、そして第三に「神の民への約束」という順序でメッセージを進めてまいります。なお、今日で創世記からのメッセージをひとまず終わりにさせていただき、来週からは新約聖書、ルカの福音書から御言葉を取り次がせていただきます。その後、創世記の後半を再開いたします。

1.神の民の葬り(1〜4節)

アブラハムが妻サラの訃報を聞きましたのは、家畜の群を遊牧するために移動中のことでした。急いで本拠地であったキリヤテ・アルバ、もう一つの名前はヘブロンという、その町へと帰ってまいりました。すでに妻は亡くなっておりました。嘆き、また泣いた、と二つの動詞を重ねて使っておりますのは、アブラハムの悲しみがいかに大きかったかを示しております。でも、彼は嘆き続けただけではありません。一族の長として、なすべき事がありました。それは葬りの準備をする、ということでした。

サラの死は、個人の死であると同時に、アブラハム夫妻から始まった、神様の祝福の民、約束の民にとりましては、初めての死であります。ですから、正式な葬儀を主催することはアブラハムにとっては初めてであり、重要なことでありました。葬儀をするにあたって、どうしても必要なものがあります。当時の中近東の習慣で、遺体は棺に入れるなどしてから、洞穴のようなところに納めることになっておりました。ですから、そのための墓地となる洞穴が必要となります。洞穴のような場所は、旧約初期の時代の人々にとっては、死者の世界である「黄泉」、ヘブル語では「シェオル」と呼ばれる場所があると考えられておりましたが、それは地面の底にあり、洞穴は、そのシェオルへの入り口と考えられていたようです。そのへんのことは文化や時代によって違いがあることです。

葬りの仕方も様々です。教会の葬儀や記念会には特別な意味があります。仏教の葬儀において重要なことの一つに、「成仏」ということがあります。亡くなられた方の霊が地上をさまようのではなく、仏となって「あの世」へと行く、そのために様々な儀式を重ねてまいります。これは宗教学的な側面です。キリスト教においては、成仏のために祈る必要がない。それは、すでに神様が私たちに天国へ入ることを約束しておられるからです。ですから、教会での葬儀には、悲しみと共に希望があるということを感じます。「ご冥福を祈る」という言い回しがありますが、これもキリスト教においては使いません。それは、天国での祝福は神様がすでに与えて下さっているからです。ですから、亡くなられた方ご自身は、何も心配のない世界へと、神様の御手の中に入れられております。しかし、残されたご遺族、親しかった方にとっては、悲しみがあります。ですから、宗教的な側面ではなく、人間的な側面としては、教会の葬儀でも悲しみがあるのは当然です。しかし、それは、絶望にとどまる悲しみでななく、「泣く者と共に悲しむ」という、神の家族の交わりがそこにあり、また、人間の慰め以上の、神様からの慰めを祈ること、それが大切なことです。

サラの死、それは愛する妻であり、共に信仰の旅路を歩んできた仲間の死です。その悲しみの中で、しかし、神様に目を向けるとき、神様からの慰めと力、そして何よりも新しい約束が与えられる。アブラハムにとっては、大切な時でもあったのです。私たちにとりましても、神の家族の一人を天に送ることは、悲しみの中にあっても、神様からの大切な約束、御言葉の約束をいただく時であることを、心に留めていただきたいと願っております。

2.神の民の墓地(5〜18節)

さて、悲しみつつも立ち上がったアブラハムは、町の住民であったヘテ人、これはヒッタイトという民族と関連があったと考えられておりますが、人々のところに行って、墓地を手に入れるための交渉を始める、それが4節から始まる部分です。このやりとりは、中近東世界の商習慣といったものを知りませんと、理解しにくいかもしれません。8節で、アブラハムはエフロンという人が所有している、マクペラの洞穴という場所を買いたいと申し出ました。すると、11節。

「ご主人。どうか、私の言うことを聞き入れてください。畑地をあなたに差し上げます。そこにあるほら穴も、差し上げます。私の国の人々の前で、それをあなたに差し上げます。なくなられた方を、葬ってください。」

この「差し上げます」というのは、タダであげます、ということではなく、実際には交渉の一部です。それが言葉通りではないことが分かっておりますので、アブラハムは代金を払って買うことを申し出ます。それでようやく、相手は売値を告げますが、これも言い値でして、買う側は自分に都合の良い値段を示し、それからお互いが値段を言い合って、最終的に両者が納得できる数字に落ち着く、それが売り買いのやりかたです。

15節でエフロンが答えた言い値は400シェケルでした。現代の値段に置き換えても、土地の値段の相場を知らなければ、意味がありません。たとえば、エレミヤ書では、預言者エレミヤが17シェケルで親戚の土地を買う記事が出て参ります。土地の広さが書いてありませんので、直接に比較は出来ませんが、アブラハムの場合は洞穴を含んだ畑、つまり一部は農地として使えない土地であったことを考えるなら、法外に高い値段と考えられます。ですから、当然、アブラハムは適正と思う値段を言って、交渉する権利がありました。しかし、彼は、言われた値段をそのまま受け入れて、400シェケルを支払いました。何故でしょうか。それは、アブラハムにとって、その土地を持つことが、それほど重要だったからです。それは、この墓地が、神様からの祝福の約束と、重要な関わりがあったからです。その重要性の故に、アブラハムは、この土地の売買を正式なものとすべく、法的な手続きを踏みながら、この交渉を進めていることが分かります。

アブラハムが土地の人々と話を進めているのは、10節によりますと、町の門のところでした。町の門にある広場は、法的な話し合いをする場所で、裁判や重要な手続きをする場所です。そこに招かれて座るのは、町の長老たちです。アブラハムはその長老たちに証人となってもらい、この売買を正式なものとしたのです。後からイチャモンをつけられないように、確実な手続きを進めた。ですので、23章の書き方は、少し回りくどいように感じるのです。

法律的な手続きというのは、少々面倒くさいこともあります。何枚も書類を書かなければなりません。しかし、それをおろそかにすると、失敗します。聖書の中では、救いということが、法律的な表現で書かれていることが少なくありません。旧約聖書、新約聖書という言葉も、古い契約、新しい契約という意味です。なぜ、そんな法律用語を用いるかと言いますと、神様は私たちの救いを確実なものとするためです。ですから、時には少々難しいことや回りくどいことが聖書には書かれているわけです。

聖書の救い、それは何よりも重要なものです。イエス様のたとえ話の中に、いくつもの「天国の譬え」と呼ばれるものがありますが、その一つに畑を買う商人の話があります。彼は全財産を費やしてでも、その畑を買い取りました。それは、その畑の中に素晴らしい宝があることを知っていたからです。私たちの救いは400シェケルどころか、全財産を費やしても惜しくない、それほど重要なものです。そして、同時に、確実なものです。神様ご自身が法律的手続きを全てして下さったからです。サラの死の出来事の中にも、私たちの救い、天国の教えが込められているのです。教会の葬儀においては、先に召された方の信仰と、神様による救いに目を向ける、大切な機会でもあるのです。この救いの約束に関して、最期にお話をさせていただきます。

3.神の民への約束(19〜20節)

この創世記23章は、大部分が土地の売買に関する記述ですが、この出来事の意義に関しては、もう一度、4節に目を向けていただきます。

「私はあなたがたの中に居留している異国人ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。そうすれば私のところから移して、死んだ者を葬ることができるのです。」

この中で、アブラハムは自分のことを「寄留している異国人」と述べています。この寄留者というのは、定住者、すなわち、その土地の人々とは違うということです。定住者と同じ権利を持つことが出来ない、その一つが、土地の所有権です。アブラハムのような遊牧民は、あちこちの土地を移動する生活ですから、時には他人の土地を通過することもあります。でも、その土地を自分のものと主張しないので、大目に見られるのです。彼らは土地を所有する必要が無いのです。その寄留者であり遊牧民であったアブラハムが、なぜ、土地を取得しようとしたのでしょうか。それは、彼が約束の民でもあったからです。

神様がアブラハムに約束されたこと、それは、ヘブロンを含む、カナンの土地全部をアブラハムの子孫に与える、ということでした。この土地を手に入れたら、そこに彼らは定住して、自分の土地を持ち、そこに墓も持つようになります。今、妻サラの葬りに際して、アブラハムは墓地を買い求めた。それは、やがてこの土地に住むようになる子孫に対しても、ここがアブラハム一族の墓であることを示すことを意味しています。

神様の約束が成就するのは、まだまだ先です。400年以上たってからだとアブラハムは神様から言われています。しかし、この家族の死という大切な時に、アブラハムは遠い将来のことではなく、今、この土地が必要となったのです。ですから、彼が土地を買ったのは、神様がカナンの地を子孫に与えてくださることを信じ、それを確信しているから、そのように行ったのです。その意味で、アブラハムはまだ受け取ることになっていないはずのカナンの地を、その一部ですが、先に受け取ったのです。神様の約束の「前渡し」です。これが信仰による、約束の先取りです。

これまでは、神様の約束は、子孫に関してはイサクが生まれたことで成就が始まりました。もちろん、まだ一人の息子だけです。それに対して、土地に関する約束は、これまでは少しも実現していなかった。アブラハムはそれをただ信仰によって受け止めていただけです。ところが、サラの死を通して、土地に関しても約束が成就し始めたのです。妻の死は大きな悲しみではありましたが、アブラハムはこの墓地取得の重要性を重く受け止めておりました。サラは、一足早く、寄留者ではなく約束の地の定住者、その第一号となったのです。死を通して、神様の祝福が一歩、実現されたのです。

このサラの葬りの記事を思うときに、私たちも、先に召された方々の葬りが持つ大切な意味を知ることが出来ます。亡くなられた方々が、地上での旅路を終えられて、墓に葬られたというのは、移動生活から定住者となったことであり、それは、墓の先にある天国の住民となったことを示します。先に召された方においては、天国の約束が成就したのです。それは、残された私たちにとっては、やがて私たちにも同じ天国の祝福が確実に成就することの保証です。ですから、悲しみと共に、そこには希望があり、喜びが生まれるのです。

結論.

アブラハムにとって、長い間、人生の旅路を共にしてきたサラの死は悲しい。特に、神様の言葉に従って故郷を出て以来、サラだけが約束を共に受けた家族でした。どれほど寂しかったでしょう。しかし、彼は、神の約束を信じ、その信仰によって墓を買い求めました。その信仰により、約束の先取りとして土地を手に入れたのです。それは約束の民として大きな前進でした。私たちも、天国の約束を信じる信仰に生きるなら、確かな希望があるのです。どんな大きな問題でも、特に人間にはどうすることもできない、死の問題であっても、それでお終いではない。神様は、その先にある大きな祝福を約束しておられるのです。私たちがいただいた救いの恵みは、この世における気休めなどではありません。救いの恵みは死さえも乗り越える、永遠の世界へと続く約束なのです。私たちも信仰に父アブラハムにならい、また先に召された信仰の先輩方の証を憶え、天国の約束を信じてまいりましょう。

 

(c)千代崎備道

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