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礼拝説教「最高のささげもの」創世記22章1〜8節(〜19節)
 

序.

今朝の説教題、「最高のささげもの」とつけました。何をお捧げすることが神様に喜ばれるのでしょうか。捧げものと言いますと献金を思い浮かべる方もおられるでしょう。私たちは様々なものを神様にお捧げします。礼拝を捧げます、感謝を捧げます、賛美、祈り、奉仕、時間を捧げます。何をどのようにお捧げしたら良いのか。実は、創世記の最初でカインとアベルが捧げものをしたときから、この問題は始まっています。そして、創世記前半のクライマックスとも言うべきこの22章で、アブラハムに求められた捧げもの、それは彼の息子のイサクでした。いったい、何故でしょうか。先ほど、子供祝福式をして、子供を大切に、と祈った後で、子供を殺す話しが出てくるのは、何故だろうと、私も不思議なのですが、神様がこのように導いてくださいましたので、今朝はこの箇所から三つのことをお話いたします。第一に「理解を超えた命令」、第二に「理解を超えた従順」、そして第三に「理解を超えた目的」、という順番でメッセージを取り次がせていただきます。

1.理解を超えた命令(1〜2節)

神様はアブラハムに息子イサクを捧げよと命じました。これは、私たちの理解を超えた命令です。もちろん、神様は人間の小さな頭で理解しつくせるほど簡単なお方ではありません。では、神様のお考えではなく、私たちが何故、この命令を問題だと考えるのでしょうか。

第一に、子供を殺すということ、人を殺すことは当然、十戒に反します。特に子供を殺すことは倫理的にも心情的にも決してしてはいけないはずです。さらに、神様が愛の神であるなら、なおさら、こんな酷いことを命じるはずがない、と私たちは思います。

第二に、アブラハムが生きていた時代もそうですし、その後の旧約聖書の歴史においてもそうですが、このカナンの民族の宗教は、大変罪深いものでした。ですから、後に神様はこの地域の民族を滅されるのですが、そのカナン宗教の風習の一つが、自分の子供を殺して神に捧げるよいう行為でした。神様は律法の中で、そのような偶像宗教のすることを、決してまねしてはいけない、と命じておられます。ですから、ここで神様がアブラハムに子供を捧げよと、言うはずがないのです。

第三に、そして、これまでのアブラハムの物語で一番問題となるのは、イサクは約束の子だということです。アブラハムに息子が与えられる、それも妻サラがその子を産む、そしてその子から生まれ出る子孫を神様は大きな民族にされる、と約束を積み重ねてまいりました。ですから、ここでイサクを殺したら、これまでの約束と、アブラハムたちが経験してきたこと、学んできたこと、その全てが無駄になってしまう。ですから、あまりにも矛盾した命令なのです。

いくら理屈をこねても、この命令の意味は分かりません。そこで、聖書が何を語っているかと見て見ましょう。1節、2節。

1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。

2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

「あなたの子、あなたの愛している一人子イサク」と神様は語っています。この言葉は、アブラハムがどれほどイサクを大切にしていたかを示しています。あなたの子、しかも、それは愛する子であり、たった一人の子だと。1節に「これらの出来事の後」とありますが、21章では、もう一人の息子イシュマエルを追い出す記事が出てきます。ですから、もう残る息子はイサクだけ、ということです。まさに「愛する一人子」です。子供は何人いても、親にとって何よりも大切なものです。さらに一人息子、それは当時の文化では跡継ぎです。最も大切なものです。そこに問題があるのではないか、と多くの解説者が述べております。

私たちには大切なものがいくつもあります。しかし、何が一番で、何が二番か。そこには順序があります。川柳に「ヘボ将棋、王より飛車を可愛がり」というのがあります。いくら飛車が大切でも、王様を失ったら負けてしまいます。ですから、一番守るべきは王様ですが、下手な人は飛車を守って負けてしまう。順番を間違えると混乱するのです。大きな失敗につながるのです。では、聖書は何が一番大切なのだと教えているでしょうか。「神の国と神の国を第一に」であり、「心を尽くして主を愛せよ」です。すなわち、神様が一番大切なのだと教えています。

このときのアブラハムは、神様よりもイサクが大切になっていたのではないか、と言われます。子供が一番で、神様が二番目か三番目、となったとき、そこに混乱が生じます。子供を溺愛するようになります。神様を第一にしないと、善悪の基準が神様ではなくなります。ですから、間違っていることでも子供のためなら、となってしまい、その結果、子供を正しく育てることが出来なくなる。また、子供が一番、ということは子供が神様になってしまい、子供の願うことは何でもかなえる、甘やかして、我が儘な人間になってしまいます。子供だけではなく、どんなものであれ、神様よりも大切になったとき、それは罪の温床となります。ですから、聖書は神を第一とすることを教えるのです。

アブラハムにとってイサクの方が大切になっていたのかもしれない。でも、殺せと命じることは無いのではないか、やはり疑問です。私たちの理解を超えた命令です。さらに不思議なことが、二番目のことです。

2.理解を超えた従順(3節)

この理不尽とも思える命令に対して、アブラハムはどうしたでしょうか。何日も悩んだとは書いていません。3節。「翌朝早く」と書かれています。神様がイサクに語ったのは夜中だったようです。次の朝起きると、彼はすぐに神の命令に従って行動しました。まるで迷いがないかのようです。一言も語っていません。黙々と行動しています。もちろん、表面的な行動だけでは心の中は分かりません。著者は、敢えてアブラハムの言葉を書かないことで、胸の奥の悩みを描いているのかもしれない。私だったら当然悩みます。皆さんも同じでしょう。でも、アブラハムが私たちと全く同じかは分からないのです。書いていないことは議論してもしょうがありません。では、創世記には何が書かれているでしょうか。朝早く出発したアブラハムは、三日目にモリヤの地に着きました。山に登っていくときに、僕達にアブラハムが語っている言葉が5節です。

5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。

「私と子供は、戻ってくる」と言っています。もちろん、子供を殺してくると言ったら、僕たちが反対するから、かもしれませんが、それにしても「一緒に戻ってくる」と何故、言えたのでしょうか。また、その後、イサクと共に山に登っていく途中で、イサクが、生け贄にする動物がいない、と尋ねるのですが、そのときアブラハムが答えたのが8節。

8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」

神が羊を与えて下さる、これも単なる方便とは思えない。この時のアブラハムの心の中には、神様がイサクを生かして帰らせてくださるという信仰があったのだ、と新約聖書は語っています。開かなくて結構ですが、このように書かれています。

信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。

お帰りになってから、ヘブル書11章をご覧下さい。ヘブル書の記者は、アブラハムが、神様は死んだ者をも生き返らせることが出来ると信じたのだと語っています。旧約時代にどこまで復活を信じることが出来たか、明確に理解できたかは分かりませんが、確かにアブラハムは信仰によって従ったのです。

5節と8節でアブラハムの言った言葉が思いつきや気休めではなく、信仰から出ていた、神様への信頼があったことは、その後、神様が彼の言葉の通りにしてくださったことからも確かめられます。アブラハムは神様を信頼して従ったのです。何という信仰でしょうか。これも私たちの頭では理解しがたいことです。信仰によってのみ受け止めることができる、そのような従順です。アブラハムもそうですが、父親に殺されるまで逆らわずに従ったイサクの従順もスゴイですが、今は、まだアブラハムが主役ですので、イサクのことは先に行ったときにお話します。

3.理解を超えた目的

先ほどは8節まで読んでいただきましたが、9節から読ませていただきます。

9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。

10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。

11 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」

12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」

13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。

14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある」と言い伝えられている。

アブラハムがイサクを殺そうと刀を振り上げた瞬間、神様は彼を留めました。そしてイサクは殺されずにすんだのです。神様は生け贄の羊も与えて下さいました。そこでアブラハムは「主の山に備えあり」と言った。最初はこの言葉を説教題にしようと思ったのは、蛇足です。

さて、神様は決して子供を殺させようとしたのではないことは、このことから明らかです。では、最初から留めるつもりだったのなら、なおさら、なぜ、あんな命令をしなければいけなかったのか、神様の目的は何でしょうか。1節ではっきりと言っていますのは、「神はアブラハムを試練に合わせられた」、すなわち、これは試練であったということです。試験と訳すこともできます。信仰のテストです。テストには目的があります。それは、生徒がそれに向かって努力して勉強し、力を伸ばすことですし、また間違ったら、何が弱点かが分かり、より良い勉強が出来るように、というのが本当の目的です。神様がアブラハムに信仰の試練を与えたのも、アブラハムの信仰を成長させ、不純物を取り除くためです。旧約聖書で「試練」とか「試す」という言葉の中には、金属を火で精錬して不純物を取り除く、という言葉があります。もしかしたら本当にアブラハムの中に神第一ではない心があったのかもしれません。

もう一つ、12節で神様は「今、わたしは、あなたが神をおそれることがよく分かった」とおっしゃっています。それまでは分からなかったというのでしょうか。神様は全知全能のお方ですから、アブラハムの信仰を理解していたはずです。しかし、頭ではなく、実際に体験を通して分かる、というのは違います。神様はこの出来事を通して、アブラハムの信仰、神を恐れ、神様を第一とする信仰が、良く分かりました。いえ、神様が分かっただけではありません。アブラハム自身に、彼の信仰がそれで良いのだということを知らせた。また、イサクにアブラハムの信仰を学ばせる機会でもあります。そして、この記事を読んだ、私たちにも、多くのことを教えています。そこに神様の目的があったのです。では、神様は私たちに何を語ろうとしておられるのでしょうか。

聖書、特にこの創世記は、まるで小説のようです。大変、良く書かれていて、読んでいても面白い。しかし、ただのお話ではなく、アブラハムたちの生涯を描くことを通して、神様とはどのようなお方かを教えています。難しい言葉で、「啓示」と言います。この22章で、神様はご自身の御心がどのようなものであるかを、啓示しておられるのです。それは一体、何でしょうか。

第一に、神様は全てのことを目的をもって行っておられ、また、急に思いついてしたのではなく、最初から準備をして進められるお方であることが分かります。アブラハムが薪を準備する以前から、神様は一匹の羊を成長させて、モリヤの山の藪に連れてこられたのです。私たちは神様ではありませんから、全ての事が分かっているのではありません。ですから、イサクのように、「羊はどこですか」と思います。神様に文句を言うかもしれません。でも祈り求める前から神様は私たちの必要をご存じであり、祈っていなかったことまで備えておられるお方です。「主の山に備えあり」です。

第二に、この事件も、神様の目的と備えの中にあります。旧約聖書の全体が、歴史における神様の救いの働きを教えており、その完成がイエス・キリストです。聖書の全てがイエス・キリストに向かって組み立てられているのです。この章は何を示しているでしょうか。ユダヤ教の伝説では、このイサクを捧げようとした場所、モリヤの山の一角ですが、ここに、後に神殿が建てられたとされています。もちろん、完全に同じ場所ではありませんが、同じ山地の中にあるのは確かです。そして、その神殿の丘のすぐそばで、イエス様は十字架にかかられたのです。場所が同じというだけではありません。このとき、神様はアブラハムに「あなたの愛する一人子を捧げよ」と命じました。やがて、千数百年後に、今度は神様ご自身が「愛する一人子を救い主として与えて下さった」のです。十字架でイエス様が苦しまれたとき、父なる神がどのような思いであったのか、それを一番理解できたのはこのときのアブラハムです。だから彼は「神の友」と呼ばれました。

第三に、ヘブル書の記者の言うように、死んだはずの一人子が生きて山を下りてきた、すなわち、復活の予告です。また、アブラハムの信仰、すなわち、神様はたとえイサクを捧げても、かならず、約束の子イサクをもう一度与えてくださる、という神様への信頼を示しています。神様はこの事件を通して、様々なことを語っておられるのです。

まとめ.

さて、説教題に戻りまして、「最高のささげもの」とは何でしょうか。子供を捧げることではありません。それが何であっても、自分にとって一番大切なものは何かです。命が一番大切、それが常識です。ある人は命よりも信念や使命が大切と考えます。家族、特に子供が大切、と考える人も少なくないでしょう。しかし、どれであっても、結局は自分の信念であり、自分の働きであり、自分の子供です。それを残すことで自分の願いが残る、その意味で、どれもが自分中心です。アブラハムに自分の命を捧げよ、と命じたのなら、アブラハムは従い易かったでしょう。だから、神様は「あなたの」愛する一人子イサクを捧げよ、と命じたのです。そこにアブラハムの、自分の心が込められていたからです。

何が最高の捧げものか、それに対する新約聖書の答えは、「自分の体を捧げなさい」というローマ書の言葉です。この自分の体とは、肉体だけのことではなく、自分の全存在、全ての願い、その中には大切に思っている全てを含んで、「自分の体」と言っているのです。私たちが自分を捧げるとき、神様は喜んで受け入れて下さり、その上で、それを私たちに帰して下さいます。いえ、祝福して、もう一度与えなおして下さるお方です。だから、喜んで捧げるとき、豊かに祝福されるのです。「与える者は与えられる」、来週の礼拝をぜひ期待して下さい。

なぜ、私たちは自分を、最も大切なものを捧げるのでしょうか。それは、まず神様のほうが、私たちに最高のものを下さったからです。神様は一人子をも惜しまないで賜ってくださった、それが神の愛です。ですから、私たちも、感謝をもって心から自分を捧げ、すべてのものをお捧げするという、祝福に満ちた信仰の道を進んでまいりましょう。

 

(c)千代崎備道

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