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礼拝説教「大失敗と大恥」創世記20章1〜7節(20章)
 

序.

先日、ある書類を書いておりましたら、途中で、何かイヤな予感がしまして、最初の方を見直したら、書き方を間違っていまして、仕方がないので、新しい紙をいただいて、書き直しました。あれが、最期まで書いてから気がついたら、ちょっとがっかりします。まあ、紙一枚のことでしたら、なんて事は無いのですが、長い時間と大変な努力をして積み重ねてきたのに、最期に失敗をしてしまったら、残念ではすまないのでは無いでしょうか。小さな事、大きな事、様々ですが、誰でも失敗の一つや二つはされたことがあることでしょう。今、学んでおります、創世記の中で、アブラハムという人の生涯が描かれておりますが、75歳の時に故郷を後にして、新しい人生を歩み始めた。様々な苦労をして、ようやくそれが一つのカタチとなる、それが次の21章です。そのクライマックスの直前で、彼は大失敗をしてしまいました。そのことが彼の人生にとってどんな意味があったのか、今朝は、「大失敗と大恥」ということをお話させていただきます。いつものように、三つのポイントに分けます。第一に「失敗の背後にあるもの」、つまり失敗の原因です。第二に「失敗のもたらすもの」、すなわち、失敗の結果です。そして最期に「失敗の生み出すもの」という順序で進めてまいります。

1.失敗の背後にあるもの(失敗の原因)

アブラハムはこれまで住んでいたところから、南西の方に移動し、ゲラルというペリシテ人の町の近くに移動しました。そこで、妻サラのことを妹だと偽ったために、ゲラルの王、アビメレクがサラを王宮に召し入れてしまったのです。このままでいれば、妻を失ってしまいますし、サラから約束の子供が生まれることも無くなってしまいます。これまでの神様との契約も、全てが水の泡になってしまう、大変な事態となってしまったのです。

なぜ、こんなことになってしまったのか、いや、そもそも、なぜゲラルに移住したのでしょうか。明確な理由は書かれていないのですが、良く読みますと、いくつかの理由が見えてきます。一つの原因は地理的な問題です。アブラハムは遊牧民族ですから、群れに牧草を食べさせるためにあちこち移動しながら生活をしていました。でも、普通は自分のテリトリーの中で動き回るのですが、ネゲブに行き、ゲラルに移ったのは、行き過ぎです。実はゲラルの町の近くは川があって、水を得やすいところです。おそらく飢饉のような事があって、やむなく移動したため、と考えられます。しかし、それでも神様が共にいてくださるのですから、祈ったら何か移動以外の解決があったのではないでしょうか。神様に頼らず、良い条件に頼っていった、そこにアブラハムの、神様に対する信頼の欠如が潜んでいます。

もう一つの理由として、直前の19章の出来事があります。それはソドムの町の滅亡です。それはアブラハムの神様によって滅ぼされたという噂が、周囲の人々に広まったら、アブラハムはこの地域に居づらくなります。ロトが恐れて山の洞穴に住んだように、アブラハムも荒野のネゲブに移り、さらにペリシテ人の国まで進んでいったと考えることができます。しかし、これもロト同様、神様への不信仰から来る恐れです。何も悪いことをしたのでは無かったのですから、どうどうとしていれば良かったのに、なんだか分からない不安から、神様の示された土地を離れてしまったのでした。

神様に相談せずにゲラルに来て、妻を失うという大失敗をしてしまった。でも、なぜ妹だと偽ったのでしょうか。それは11節でもアブラハム自身が述べていますが、妻だと知られたら、人々は自分を殺してサラを奪うかもしれない。妹だったら、サラをめとるためにアブラハムを殺す必要は無い。それが理由です。すなわち、アブラハムは自分の命を守るためにサラを犠牲にしている。ここには自己中心が潜んでいます。

正しいことを精一杯していて失敗したのなら、良いでしょう。しかし、アブラハムの心の中には、不信仰や自己中心の罪が活発になっていたのです。さらに、知らずにした失敗でもありません。覚えておられる方が多いと思いますが、以前に全く同じ失敗をしているのです。エジプトに移住して、サラを妹と偽ったために大騒ぎとなりました。ですから、嘘をついたらどうなるか、分かっていた。それなのにしてはいけないことをしてしまったのです。これまで、アブラハムはエジプトの失敗も含め、様々な経験を積んできました。神様も信仰の訓練をしてくださった。だんだんと信仰の父、祝福の基と言われるのに相応しい人物になってきた、と思っていた。その全てが無駄になるような失敗だったのです。

テレビのニュースを見ていますと、いい年をした人がどうしようもない犯罪を犯して捕まった、という話を良く見聞きします。それまで苦労して働いてきて、それなりの地位があり、生活があったはずでしょう。それが軽はずみな失敗から、全てを失ってしまう。でも、誰でも失敗はある。ですから、本当に祈っていく必要があるんだなあ、と思わされました。

さて、次にアブラハムの失敗がもたらした結果を見てみます。

2.失敗のもたらすもの(失敗の結果)

ゲラルの王であったアビメレク、同じ名前の人が聖書の中に何回か出てきます。ありふれた名前だったのかもしれません。アブラハムの妻であるとは知らないでサラを召し入れたその夜、神様が夢の中でアビメレクに語りかけ、サラを妻としないように警告しました。朝になってアビメレクはアブラハムを呼び寄せた。9節。

9 それから、アビメレクはアブラハムを呼び寄せて言った。「あなたは何ということを、してくれたのか。あなたが私と私の王国とに、こんな大きな罪をもたらすとは、いったい私がどんな罪をあなたに犯したのか。あなたはしてはならないことを、私にしたのだ。」

アビメレクに罪を叱責される。それは本来あるべきことではありません。アブラハムの神様は義なる神です。アブラハム自身もロトのためにとりなすときに、神様に対して、正義の神がしてはいけないようなことをするはずがありませんと、どうどうと言っています。神様もアブラハムと彼の子孫に正しい生き方を教えると言われました。ですから、アブラハムが異教の人々の間違いを指摘して正しい生き方を示す。それが神に選ばれた人としてあるべき姿です。それなにに、アブラハムがアビメレクに罪を指摘される。アブラハムの失敗の結果は、恥です。そして、彼は、さらに恥の上塗りとなることをしています。11節。

11 アブラハムは答えた。「この地方には、神を恐れることが全くないので、人々が私の妻のゆえに、私を殺すと思ったからです。
12 また、ほんとうに、あれは私の妹です。あの女は私の父の娘ですが、私の母の娘ではありません。それが私の妻になったのです。

これはまったくの言い訳です。「この地方の人々が神を恐れない者だから」、この神を恐れないとは悪いことを平気でする、ということです。自分は間違っていないと主張するあまり、相手に対して、お前たちは神をも恐れる悪いやつだと言っている。よく言えたと思います。いったい誰がそんな悪いことをしたのでしょうか。アブラハムのほうではないでしょうか。

またサラが異母兄弟であるから妹というのは嘘ではないと言っています。正確には姪なので、おそらく、アブラハムの父テラの最初の子供ハランが異母兄弟で、その娘がサラだったと思われます。私の父の娘、と言うときには、直接の娘だけでなく孫娘も意味しますので、アブラハムが言ったことも間違ってはいない。でも間違っていないからと言って、それが嘘をついて良い理由ではありません。アブラハムの言っていることはまったくの言い訳に過ぎません。自分の罪が明らかになっているのに、それを認めない。恥に恥を重ねる言い訳です。

このアブラハムの言葉に対して、アビメレクは痛烈な言葉をかけています。アビメレクは、自分が無実であることを示すために、彼らに銀千枚、かなりの額を渡しました。サラが身を汚されてはいないということを自分が請け負うという証拠です。16節。

16 彼はまたサラに言った。「ここに、銀千枚をあなたの兄に与える。きっと、これはあなたといっしょにいるすべての人の前で、あなたを守るものとなろう。これですべて、正しいとされよう。」

ここで、アビメレクはわざと「あなたの夫」と言わずに「あなたの兄」と呼んでいます。アブラハムが、自分は悪くない、本当に兄なのだから、とあくまで言い張ったからです。王の周りの人々は、アブラハムがサラの夫だと皆知っているのに、です。これは痛烈な皮肉です。

日本は恥の文化だと言われます。罪を犯すよりも恥を受けることを嫌がる、そんな風潮があります。アブラハムを含む、中近東の人々にとって、名誉は大変大切なものです。ですから、人々の前で恥をかかされるというのは、大変辛いことでした。一族の長として、多くの僕を治めていたアブラハムの面子がつぶれることです。でも、それがアブラハムの失敗のもたらした結果です。罪は結果を伴うのです。

3.失敗の生み出すもの(失敗の副産物)

アブラハムの失敗の一つの結果は恥でした。しかし、もう一つ、隠れた結果を生みだしています。それは副産物とも言うべきものです。

創世記という書物は、モーセが書いたと言われていますが、アブラハムの時代はモーセよりも数百年前ですから、実際に見て書いたわけではない。ですから、イスラエルの中で代々語り伝えられたことをまとめたわけです。ですからアブラハムの生涯についてはアブラハム自身がイサクに伝え、イサクがヤコブに、と語り継がれていったのです。でしたら、なぜアブラハムは20章の出来事を語り伝えたのでしょう。言わなければ、こんな失敗談が聖書に残ることも無かったはずです。しかし、アブラハムはアビメレクに言われた言葉も全部、伝えました。何故でしょうか。この記事を通して大切なことが示されているからです。それは、神の栄光です。

神様は、不信仰なアブラハムのために、そして嘘の犠牲となるサラを守るために、アビメレクの夢に現れました。エジプトのパロが夢で幻を見たことはヨセフの物語に出てきますが、異邦人の王が直接に神様の声を聞くというのは珍しいことです。旧約聖書ではありますが、イスラエルだけでなく異邦人にも神様が語られた例となっています。神様の救いが全世界に及ぶものであると示しています。また、神様はアブラハムとサラのために、アビメレクの王宮の全ての女性に、なんらかの病をもたらし、それがあとで癒される。アビメレクはアブラハムの神の力を知らされました。(余談ですが、よく考えてみますと、この時のサラは89歳でした。昔、どうして高齢のサラをアビメレクは召し入れたのか、不思議に思ったことがあります。サラが本当に美人で、歳をとってもよほど美しかったのかもしれません。しかし、どうも神様の力は、サラにも表されていたと考えられます。まもなくイサクを生むために、一時的にサラが若返っていたのではないか、という説があります。つまり、子を産むことができるように神様がされたのです。)神様の力を知らされたのは、アビメレクだけではありません。アブラハム自身も知らされました。この事件の結果、アビメレクはアブラハムに、自分の領地に住む権利を与え、また多くの財産、家畜や奴隷を与えました。不信仰の失敗を繰り返したアブラハムに対し、神様の祝福の約束は真実なのです。また、このアビメレクのしたことは、一族の長としてもアブラハムの立場を尊重するものでした。アビメレクの領地において、アブラハムの名誉を示すものとなったのです。それは、決してアブラハムが正しかったからではありません。アブラハムの神様への恐れと尊敬の故です。ここでも神様の栄光が示されているのです。

アブラハムがこの事件を語り伝えたのは、神様の御業を伝えるためですが、同時に、アブラハムの恥も残りました。それでも、その失敗を包み隠さなかったのは、彼自身が失敗から学んだからです。それは、自分の力ではなく、神様の憐れみによって祝福を受けたのだという、謙遜です。20章の後に21章が続きます、当たり前ですが。21章は、いよいよイサクの誕生です。長く待ち望んでいた子供です。神様の約束の成就でもあります。アブラハムはどれほど嬉しかったでしょうか。ところが、嬉しいはずのアブラハムが、イサクの誕生に関しては一言も語っていないのです。必要があるときは言葉を出しますが、21章からはアブラハムの台詞が少ないのです。アダムが神様から妻をいただいたときには、「これこそ私の肉の肉、私の骨の骨」と高らかに歌ったのと大違いです。それは、嬉しくなかったのではなく、イサクの誕生を、神様の特別な御業として受け止めたからです。自分の子が生まれた、となると傲慢になります。しかし、20章の失敗を通して、全ては神様の恵みであり、自分には何の功績もないんだ、アブラハムは謙遜を学んだのです。この出来事も、信仰の父となるために必要な経験だったのです。

私たちは、アブラハムの失敗を笑えるような者ではありません。人を恐れることがあります。また、不安にかられます。自分を守ろうとして失敗をします。失敗の大きさや種類は違うかもしれませんが、誰もがしてはならないことをして、恥を覚えることがあるのではないでしょうか。もちろん、失敗から学ぶことも少なくありません。でも、神様を知ったとき、失敗は決して無駄ではないことを知るのです。神様は万事を働かせて益としてくださる。有名なロマ書の御言葉ですが、この益とは、利益ということではありません。自分の得となることでもありません。私たちがキリストのように変えられていく、そのために全てを益としてくださる、という意味です。神様は全ての体験を用いて、私が救われ、清められ、神の栄光のために用いられるようにと、してくださるのです。ですから、神様にあるときに、失敗も無駄ではないのです。

自分の過去を振り返るなら、あれが無かったら、という失敗があるかも知れません。あのとき、コウしていたら今頃はもっと良くなっていた、そう思うときがあります。でも、その失敗が無かったら、今日の自分もないし、神様の恵みを深く知ることも無かったのです。だから、あの失敗、あの恥、その全てがやがて感謝に変えられて行くのです。

まとめ.

良く教会で言われる言葉で、「恥は我がもの、栄光は主のもの」という言葉があります。誰の言葉かを調べているのですが、おそらく宗教改革者のジョン・カルヴァンの言葉だと思うのですが、まだ確認できていません。いい加減なことを言って後で恥をかくかもしれませんが、それも「恥は我がもの、栄光は主のもの」です。私はこんな失敗をした、でも、神様は真実なお方で、私を助けてくださった。それが証です。自分は恥を受けても、神様の御名が崇められる、それが信仰の父アブラハムにならう生き方です。

過去のことだけでなく、これからも失敗があるでしょう。でも、それを恐れて何も出来なくなるのは、結局は自分が恥をかきたくない、自己保身です。主にあっては、失敗しても良いのです。その度に教えていただけるのです。ですから、失敗のときにも守り導いてくださる神に信頼して、一歩ずつ前進して行きましょう。

 

(c)千代崎備道

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