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礼拝説教「命がけの脱出」創世記19章15〜17節(19章)
 

序.

アメリカの映画で、確か『ポセイドン・アドベンチャー』という題名だったと思いますが、豪華客船が転覆して、その船内から脱出する、という映画がありました。逃げ出せなかったら死んでしまう、ですから命がけです。普通だったら絶対出来ないような危ないことでも、命がかかっていますから、必死で火の中、水の中を通って行きます。ハラハラドキドキの映画でした。今朝のお話は、あまりスペクタクルではないかもしれませんが、命がけで逃げるのは同じです。なぜ命がけで逃げなければならないのか、それは逃げなければ滅び、すなわち死と裁きがあるからです。ロトがソドムの町から逃げ出す、創世記19章を通して「命がけの脱出」ということをお話しさせていただきます。いつものように、三つのポイントに分けて進めて参ります。第一に、「天からの火」、第二に「助けによる救い」、そして第三に「何よりも大切なこと」です。

1.天からの火

19章は18章の続きです。そりゃあ、18の次は19何ですが、実は18章は、「日の暑い頃」という言葉で始まっていますので、お昼頃でしょうか。それから昼食を食べて、19章の1節では「夕暮れ」と書かれています。同じ日の出来事です。そして19章の27節、「朝早く」。なんと24時間たっていないのです。大変、短い時間の、緊迫した場面であることが分かります。24時間の出来事を、私たちは3回の礼拝で学んでおります。

さて、18章の最初に三人の旅人が出てきて、それが天使であり、一人は神様ご自身であったことはお話ししました。彼らがアブラハムのところに立ち寄って、それからソドムの町に行きましたが、その目的は、ソドムの町の様子をしらべ、もし本当に悪い町であったら、それを滅ぼす、ということです。18章の21節に、彼らの行っている悪が本当かどうか、「見よう。わたしは知りたいのだ」、と神様がおっしゃってます。もちろん、全知全能の神様ですから、全てご存じのはずですが、自ら見ることで、確かに知ったんだと、人間に知らせるためです。神様は天から見下ろしているから、よく見えないで、間違った審きをした、と思わせないためです。旧約聖書で「知る」という動詞は、「体験を通して確かに知る」という意味合いを持っております。その神様の代理として使わされた天使が、19章の最初に出てきます。二人の旅人を発見したロトは、自分のうちに招きます。旅人をもてなすことは重要な礼儀です。これはアブラハムも18章で同じようにしています。ところが、その夜、ソドムの町中の男たちがロトの家に押し寄せてきて、二人の旅人を出せ、と迫るのです。そのとき、人々が言った言葉が5節。

そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」

この「知りたい」という言葉も、名前を知りたい、ということではありません。体で知る、ということです。男性が男性を辱める、ソドムの町はそのような罪で有名でした。うわさ通りの悪の町であることを、自分たちの言葉で証明しているのです。ですから、天使たちは、すぐに審きを行うことにしました。そして、ロトの家族に、逃げるようにと告げます。

どんな審きが下されるのか、それは、24節からですが、天から火が下って、ソドムとゴモラ、その仲間の町々の住民は、みな滅ぼされたのです。この審きで、小さな子供も一緒に滅ぼされています。大変、残酷な気がしますし、子供には罪が無いんじゃないか、と考えられるのではないか、と思います。確かに赤ちゃんまで滅ぼされるのは可哀想です。しかし、もしソドムの町がこのままなら、この子供たちは、そのような環境で育ったら、どうなるでしょうか。

町中の男たちが、ロトの家に入った二人の旅人を出せと騒いだとき、ロトは「そんな悪いことはしないで」と説得しようとしました。ところが、人々は、ロトが偉そうなことを言っている、と言って、ロトに乱暴を働こうとしました。正しい事を言うと暴力を受ける。悪いことをするともてはやされる。正義と悪が逆転している、それがソドムの町です。この町の中で育てられたら、その子が正しい人になる可能性はゼロです。必ずや、ひどい悪人になってしまう、そうなる前に神様は、罪の無い子供たちはご自分のところに召されたのだと、私は考えています。

火によって滅ぼす、その目的は、そうすることでしか、この町の悪は取り除けない。神様がロトを通して正しいことを示そうとしても、もう聞く耳を持たない。彼らの悪は滅ぼすことによってしか、消すことが出来なくなっていたのです。旧約聖書のヨシュア記などにも「聖絶」という言葉が出てきます。聖書の「聖」に、絶滅の「絶」。絶滅させることで聖くする、という特別な言葉です。本当は、神様は人間を救い、神様の聖いあり方を知って、聖なる生活をして欲しい、「神は聖であるから、あなたがたも聖であるべき」と書かれているとおりです。

天からの火、それは審きの意味で用いられることが多いのですが、もう一つの意味があります。使徒の働きの2章で、ペンテコステの出来事ですが、弟子たちの上に天から炎のようなものが下った、それは聖霊を象徴しています。この天からの火によって、弟子たちは聖なる者とされ、神の働きのために立ち上がります。なぜ、同じ天からの火なのに、全く違う結果になったのでしょうか。実は、違うのではなく、同じことの、裏と表なのです。弟子たちも、火によって、聖なる者とされ、神の働きのために、この世の罪の生き方から離され、神のものとされる別の生き方にされた、これを聖別、聖書の聖に別人の別、です。ソドムの町は聖絶され、弟子たちは聖別された。その違いを生んだのは、それぞれの姿勢でした。ソドムの町は、悪を悪と思わない、喜んで罪を犯す、そのような生き方をしていたため、天からの火は審きにしかならなかった。弟子たちは、イエス様の命令に従いたいと願い、十日の間、祈り続けていた。神様はその祈りに答え、彼らを聖なる者とされたのです。

私たちはどちらの生き方を願っているでしょうか。また神様は私たちにどのような生き方を願っておられるでしょうか。罪を離れ、聖い生き方を求める、そのような人生でありましょう。

2.助けによる救い

さて、有罪が確定し、あと数時間で滅ぼされるソドムの町に、二人の天使が来たのは、もう一つの目的があったからです。それは、アブラハムの祈りに答えて、ロトの家族を救うためです。15節、16節をもう一度、お読みします。

15 夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」

16 しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。──主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。

ぐずぐずしているロトたちを、天使は手を引いて助け出してくれた。「主のあわれみ」と書かれています。人間は自分の力で自分を救うことができる存在ではありません。聖い生き方を願っても、それが出来ない。悪いと分かっていても、してしまう。だから、神様の助けが必要なのです。神様もそれが分かっておられるので、様々な助けを与えてくださいました。イエス様が来てくださったことが最大の助けですが、具体的には、神様は教会を用い、さまざま人を用いて、私たちを救いへと導いてきてくださいました。そして、聖霊は信じたいと願っている人の心の中に来てくださり、信じる決心をさせてくださる、最高の助け主です。しかし、神様の助けは決して強制的ではありません。ロトたちも天使の手をふりほどく自由もありました。聖霊は私たちの意志を無くして言うことをきかせるお方ではありません。信じるか、信じないか、その二つの道を示し、正しい道を選ぶように、そっと背中を押してくださるのです。時には誰かの言葉を通して働いてくださいます。あの人の一言で信じる決心をしました、という証を聞くこともあります。神様は私たちが救われるように助けてくださいます。

しかし、その助けを拒んだらどうなるでしょうか。天使たちはロトに、家族を連れて逃げるように命じます。家族が良い人間かは分かりませんが、「あなたもあなたの家族も救われます」という原則は旧約も新約も同じです。当時の習慣で、一家の主人の言葉には従わなければならない、だから、妻や娘は渋々であっても一緒に連れていける。でも娘の婚約者、14節で「娘たちをめとった婿たち」と書かれているのは、これから結婚をする予定ということで、現代的な言い方では婚約者です。クリスマスで、マリヤのことをヨセフのいいなづけの妻、という言い方も同じです。その婚約者の婿たちは、ロトの話を聞いて、「冗談のように思われた」。口語訳では「戯れ」と訳されています。原文では、笑った、という言葉です。救いの言葉を聞いて、馬鹿にしてあざ笑った、ということなのです。先々週は、神のユーモアということをお話しました。冗談も時には良いものです。しかし、時と場合によります。滅びる直前、救われるかどうかの瀬戸際です。神様からの救いの言葉をあざ笑うのはユーモアではありません。

救いの御言葉には、戯れではなく、真剣にお応えするべきです。この婿たちの態度は、救いの手を振り払い、つばを吐くような行為です。神様は救うために助けを与えてくださる。しかし、その助けを拒むなら、滅びしか残されないのです。そんなことにならないために、自分自身も救いを求め、聖い生き方を願うことが大切です。自力で聖くなることが出来ない、からと言って簡単にあきらめてはいないでしょうか。聖い生き方を求めている人を、あの人は真面目だから、と笑っていないでしょうか。神様は私たち一人一人が救われて、聖なる者となることを願っておられる。ですから、私たちも救いを求め、聖さを求めて行きましょう。

3.何よりも大切なこと

神様はロトを救うために、助け手を送り、手を引いて救い出してくださいました。ただし、一つだけ条件を付けています。16節。

彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」

条件とは「振り返らない」ということです。なぜでしょうか。突然の脱出劇です。何かを持ち出す時間はありません。ですから、全てをおいてきたはずです。ロトは町の中でも有力者だったようです。財産もあったでしょう。思い出のものがあったかも知れません。でも、神様は振り返るな、後ろのモノに心を惹かれるな、とおっしゃるのです。救いは命がけだからです。では、私たちも財産も何もかも、捨てなければ救われないのでしょうか。確かに、イエス様の言葉の中には、「父、母、家族を捨てて」とか、「財産を売り払って」という言葉もあります。だからといって、洗礼を受けられたかたが全員、家族と絶縁したとか、一文無しになったということではありません。確かに、一昔前は親から勘当されたり、もっと前は命を失った時代もありましたが。でも、イエス様が言っておられるのは、救いの条件ではありません。問題は、あなたにとって、何が第一か、ということです。一番大切なもの以外は持ってはならない、のではありません。第二、第三、たくさんの大切なものがあります。しかし、どれほど大切でも、一番目のものを失って良いほど大切なのではない。もし救いを失わせ、永遠の命から離れさせるものがあるなら、そのときはそれを捨てなければならない、ということです。ロトたちが、そうでした。ソドムの町にあるものに少しでも心を惹かれて、立ち止まったり引き返したりしたら、命を失うのです。

私たちにとっても、永遠の命は何よりも大切です。救いを失うようなことがあってはなりません。しかし、どれくらい大切にしているでしょうか。第一となっているでしょうか。そのことを明確にする一つのテストがあります。それは、愛する人に伝えたいか、です。

私がまだ聖書学院の修養生だった頃、ある家庭に招かれたことがあります。その家庭、ご主人が教会員で、奥さんは求道者でした。お子さんがおられました。そのご主人が、自分の子供には信仰は強制しない、選ぶ自由があるから、そう言うのです。奥さんの手前もあったのだと思うのですが、そのときは私はうまく説得することが出来ませんでした。でも、良く考えて見てください。もし何もせずに放っておいたら、その子はクリスチャンになるでしょうか。確率的には、1パーセント未満です。クリスチャン人口は、日本では1パーセントに満たないからです。救われない可能性が圧倒的に高い、それなのに、何もしないで良いのでしょうか。もし、子供が致死率が99パーセントの病気になったとして、特効薬を飲めば、必ず助かるのなら、力ずくで飲ませないでしょうか。飲むかどうかは子供の自由、とは言わないはずです。肉体の命のためなら、熱心でも、心の救い、永遠の命には無頓着になりがちです。

救いは、出来たら良いけど、ダメでも仕方がない、ということでは無いのです。そんな姿勢でいたら、子供や周りの人は、信仰なんていい加減なものだと感じてしまい、信じようとはしません。必死で伝えてもなかなか信じてもらえない、でも大切なことだから、どうしても救いを手渡したい。難しいこともあります。だから祈るのです。自分一人の祈りでは心細い。だから教会全体で子供の救いのために祈るのではないでしょうか。それくらい、永遠の命を受け取って欲しいのです。

聖書に戻りましょう。ロトはどうだったでしょうか。天使の言うように、命がけで逃げようとしたでしょうか。どうもそうではなかった。町から出るときもためらっていました。また、「山に逃げなさい」と言われて、遠いので近くの町に行かせて、と願った。神様が逃げろと言っているのですから、真剣に逃げたら、逃げ通せるはずです。ロトは命がけで救いを求めなかった。その結果、どうなったでしょうか。妻は、救いが命がけであることを真剣に受け止めず、後ろを振り返ってしまい、滅ぼされました。ロトと二人の娘は助かったのですが、彼らの逃げ込んだ小さな町は、神様がソドムと共に滅ぼそうとしておられた町です。ソドムそっくりですから、また滅ぼされるのではないかと、安心しておられません。結局は町を出なければならなくなった。そして、神様の言った通り、山の中に住むようになった。そして、最期にはロトの娘たちが恐ろしい罪を犯します。その罪は、ソドムの町の罪の影響でした。ロトが断固とした姿勢でソドムの罪と決別しなかったため、場所はソドムから出ても、同じ罪の中に娘たちは生きていたのです。ロトは自己中心から住む場所を選び、ソドムに近づき、中に住むようになった。そして神様が救おうとされたときも、命がけで救いを受けようとしなかった。彼の結末は惨めなものでした。アブラハムが、神様と共に生き、聖なる人生を選び、救いのために神の言葉に従ったのと対照的です。

聖書は私たちに、どちらの生き方を願うのかを、語りかけています。

まとめ.

神様は、私たちを救うために、どんな姿勢だったでしょうか。天地を創造された全知全能の神様ですが、救いの働きに関しては、三位一体の神様が全力を尽くされました。決して片手間では無かったのです。そして御子なる神、イエス・キリストは、文字通り命をかけて贖い、すなわち罪の赦しのために十字架にかかってくださったのです。この救いをいただく私たちは、どのような姿勢でしょうか。救いを、永遠の命を何よりも大切なものとし、また神様の願っておられる聖い生き方を志し、真剣に求めましょう。また、家族に、愛する人々に、どれほど難しくてもあきらめずに、この救いを伝えてまいりましょう。

 

(c)千代崎備道

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