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礼拝説教「神との駆け引き」創世記18章23〜28節
 

駆け引きと言ってもいろいろとあります。買い物をするときに値引き交渉をするのも、その一つです。私はどうもそれが苦手でして、価格がついていたら、そのままの値段で買ってしまいます。値引きをしたら相手が困るんじゃないか、とか、いろいろと考えてしまいます。ところが、一概には言えませんが、大阪の方では値引きをしてもらうのが普通なんだと聞いたことがあります。文化の違いかもしれません。現代でも中近東の世界では、価格交渉がごく当然のことだそうで、値段は売り手の言い値で、買う方も自分の買いたい値段から初めて、お互いが納得した値段で売買するようです。私もイスラエルに言ったときは、相手の言った値段の半分か三分の一の値段で交渉したことがありまして、大変にドキドキしました。一緒に行った人の中には、十分の一の値段で買ったとか。十分の一って、一割引じゃないですね。九割引。売っている人が可哀想な気もしますが、そうやって楽しんでいるのかもしれません。

今朝の説教題は「神との駆け引き」です。神様と駆け引きなんてして良いんだろうか、それ以前に、神様と交渉するなんて、恐ろしいとも感じます。でも、そうせざるを得ない時があるかもしれません。先ほど読んでいただきました、創世記18章後半に出てくる、アブラハムがまさにそれでした。50人から初めて、だんだんと値引きしていく。とうとう、10人まで引き下げました。一体、どうしてそんなことをしたのでしょうか。ほとんどの方が、この箇所を祈りとして捉えています。神様に願い求めるのですから、祈りと考えるのが当然です。このアブラハムの祈りにおける神との駆け引き、ということを、皆様と一緒に考えてまいります。いつものように、三つのポイントに分けてお話しします。第一に「愛による祈り」、第二に「信頼による祈り」、そして最期に「神による祈り」です。

1.愛による祈り

20節で神様がソドムとゴモラの町を滅ぼされることを聞いたアブラハムは、ソドムに住んでいる甥のロトを思いました。このままではロトも一緒に滅ぼされてしまう。なんとかして、救わなければ。そこでアブラハムは神様に必死で交渉しました。アブラハムの祈りの動機は甥のロトに対する愛でした。

キリスト教の祈りの一つの特徴は、自分のためよりも他の人のために祈ることです。これをとりなしの祈りと言います。とりなしは、他の人への愛があるからこそ、祈ります。ですから、とりなしの祈りの動機は愛です。自分のための祈りには、時には自己中心が背後に潜んでいるかもしれません。自分のためだと、あまり神様に多くを求めるのは欲張りに思います。でも、愛する人のために祈るとき、自分の損得ではない、だから神様に対して大胆に迫ることが出来るのです。この18章でアブラハムを必死にさせていたのは、確かに愛によるものでした。しかし、ロトへの愛だけでしょうか。ロトの家族を救いたい、当然、そう思っていたはずです。では、ロトの友人は?さらにロトが住んでいる町の人々は?はたしてアブラハムの愛がどこまでのものだったか、それは分かりません。愛が動機であっても、その愛が自分の身内だけ、ならば、結局は自分のためになってしまいます。自分は無事でも、自分の周りの人、自分と関わりの深い人が滅んでしまうなら、あまり気分が良くない。だから、自分に近い人も一緒に助かったら安心だ。でも、自分と関わりの無い人なら、滅んでも気にしない。これは、自分中心の愛です。アブラハムはどんな思いだったのでしょうか。

アブラハムは最初、50人の正しい人が、一緒に滅ぼされてはならない、と神様に訴えます。なぜ、50人から始めたのでしょうか。100人のほうがキリが良いと思いますが。実は、神様が滅ぼそうとしておられたのは、ソドムとゴモラだけではありません。ソドムを含む五つの町がありました。ソドムはその中心、代表です。五つの町の名前は、ソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイム、ツォアルと言います。これは14章で戦争をした5人の王の町です。ただし、後で、一番小さな町ツォアルだけは滅ぼされずにすんだので、四つの町が滅ぼされたことが、申命記29章やホセア書に書かれています。五つの町が滅ぼされるから、50人という数字が出てきたのかもしれません。一つの町に10人ずつ。ソドム連合全体では50人。ですから、最期の32節では、ソドムの町だけで10人いたら、となっています。

ホーリネス信仰の源流とも言うべき、ジョン・ウェスレーというイギリスの宗教改革者は、「私に10人の聖い人を与えてくれたら、この国を変えることが出来る」と言ったそうです。本当に神様に仕え、命がけで従う人が10人いたら、社会が変わる、とウェスレーは考えました。一人では難しくても、10人が力を合わせるなら、大きな働きが出来ます。また、地の塩である信仰者がいることで社会の腐敗を押さえることができる。ある神学者が、日本の国も、もしクリスチャンが10パーセントになったら、社会が変わる、と言いました。10パーセントはまだ遠いですが、たとえ1パーセントでも、その1パーセントが社会の多くの人と関わりを持ち、影響を持っているなら、それだけでも違いが生まれるはずです。でもたとえ10パーセントいても、他者と一切関わりを持たず、自分たちだけ良ければ良い、ということなら、地の塩としても役割は果たせません。周りに影響を与えることが出来ないからです。自己中心のクリスチャンではなく、他の人との関わりの中で証を立てて生きることが大切です。それは、私たちの愛が、自己中心の愛ではなく、他の人のために取りなしの祈りをする愛になることです。そのような愛による祈りであるなら、神様は必ず聞いてくださると、確信することができるのです。

アブラハムは、ロトへの愛だけで祈ったのではありません。ロトが周囲の人を愛し、10人の人に正しい生き方を証するなら、そしてその10人が他者を愛する生き方をするなら、その町は滅びるはずがない、そう信じたのです。結果は、ご存じのように、正しい人は10人もいなかった。そこには、今度はロトの生き方が問われているのではないでしょうか。

2.信頼による祈り

さて、アブラハムの祈りは決して愛だけによるものではありません。彼の祈りを支えていた土台は、神の正義への信頼です。23節を見てみましょう。

23 アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。

24 もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。

25 正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。」

神様が正義の神であるなら、正しい者を滅ぼすはずがない。だから、アブラハムは大胆に願ったのです。義なる神が、間違ったことをするはずがない。そんなことをしたら、神様の名前に傷が付きます。アブラハムは決して自分のため、自分の身内のためだけに祈ったのではなく、神様ご自身のためにも、とりなしをしたのです。

神様をまだ良く知りませんと、どこまで祈って良いか分かりません。ですから、祈りに遠慮が生じます。こんなお願いをしたら、怒られるのではないか、と思ってしまうからです、しかし聖書を通して神様が分かってきますと、どんな祈りでも神様は受け止めてくださるお方だ、と分かるのです。これが神様への信頼です。しかし、その信頼が馴れ馴れしさになっては失敗します。また、傲慢になって、神様を自分の思い通りに動かそうとするのも問題です。アブラハムの祈り、彼の熱心さは謙遜と信頼によるものです。27節

アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。

私が正しいから聞いてもらえる、私が偉い存在だから祈る権利がある。そうではありません。自分は小さな存在です。でも、神様は小さな者にも目を向けてくださる。なぜなら、神様は天のお父様、だとイエス様が主の祈りで教えてくださったのです。

自分の力にではなく、神様にお頼りする謙遜さ、また、祈りを聞いてくださる神様への信頼、それが私たちの祈りの土台です。旧約聖書は「信仰」という言葉はあまり使いません。その代わり、神様への信頼ということを教えます。信頼による祈り、それがアブラハムのとりなしであり、またダビデや様々な信仰者たちの祈りを支えているのです。

3.神による祈り

そもそも、なぜアブラハムがロトのために祈ったのか、それは神様がそうさせてくださったのでもあります。ソドムの町に行く途中でわざわざアブラハムのところに立ち寄ったのは偶然ではなりません。アブラハムにあらかじめソドムとゴモラの滅亡を知らせたのは、ロトが滅ぼされないようにアブラハムにとりなしをさせるチャンスをくださったのです。また、22節。

その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。

ここで、アブラハムが主の前に立った、と書かれています。アブラハムを訪れた三人の人が御使いであったことは先週、お話ししましたが、そのうちの一人は「主」である、と書かれています。神様が人間の姿で現れた、ということです。この「主の前に立っていた」という文ですが、実は「主はアブラハムの前に立っていた」というのが正しい訳です。ところが、ユダヤ人たちは、神様がアブラハムの前に立つのはおかしい、なぜなら、人の前に立つというのは僕の姿だからだ、と考えました。そこで、ほとんどの聖書が、アブラハムが主の前に立っているとしています。二人とも立っているのですから、間違いではないのですが、神様がアブラハムの前に、僕のように立ち、何かご用は無いですか、と待っている、と考えると大変味わい深いです。神様はさっさと目的を果たすために立ち去っても良いのですが、アブラハムの祈りを待っていたのです。神様は私たちの祈りを待っておられるのです。ご自分ですぐに働くことも出来るのですが、私の祈りを立ち止まって待っておられるのです。さらに神様はアブラハムが50人、45人、と駆け引きをするのを受け入れてくださいました。アブラハムのとりなしは、神様がそうさせてくださったから、出来たのです。

新約聖書でも「絶えず祈れ」と命じられています。神様は私たちに祈りを命じ、また祈ることを求めておられるお方です。だから、アブラハムのところに立ち寄ったのです。私たちに対しても、神様は祈って欲しいと願っておられます。なぜでしょうか。神様は私たちと語り合いたいのです。それほどまでに私たちを愛してくださっているからです。御言葉を聞くことはもちろん素晴らしいことです。でも、聞いているばかりではなく、神様は私たちの声を聞きたいのではないでしょうか。

さて、最期に、アブラハムの祈りの結末に目を向けましょう。アブラハムは10人まで粘って、祈りを終えました。残念ながら、御使いの声に従ったのは、10人でも5人でもない、4人だけでした。それはロトと、ロトの妻と二人の娘でした。結果としては、ですから、ソドムの町は滅ぼされてしまいます。しかし、ロトの家族だけが救われた。これは祈っても無駄だったということでしょうか。神様は必ずご計画を成し遂げられるお方です。だったら、人間の祈りが入り込むすきがないことになります。しかし、祈りは決して無駄ではありません。

神様は、確かに正義の神であり、その義によってソドムに審きを下されました。ですから、神様の義は貫かれました。同時に、アブラハムが願っていたこと、すなわちロトとロトが関わる人々を、神様は救い出してくださった。アブラハムの愛、そして神の愛によって救われたのです。そして、アブラハムの祈りも、確かにその通りになりました。正しい人が10人いたら赦されるが、10人いなかったために滅ぼされた。すなわち、全てが正しくなされたということなのです。そして、一番大切なのは、この祈りによってアブラハムが何を知ったかです。神様が正義のお方であることを確かに知ったことでしょう。また、ロトへの憐れみ、神の愛を知りました。何より、アブラハムの祈りを神様は無視するのではなく、聞いてくださるお方だということを知ったのです。

祈りは、ただ自分の願いを神様に押しつけることではありません。祈りを通して、神様の御心を知る機会なのです。時には私の思い通りにならないこともあります。そのときは、神様の御心が私の思いと違っていたことを知ることができます。待たされることもあります。それは「神の時」があるからです。だから忍耐を持って祈ることが大切です。そして、神様は私たちの心も思いも分かってくださるのです。だから神様がなされることが最善だと知ることが出来るのです。結果は神様のものです。しかし、祈ることで、神様に自分の思いを全てお伝えすることで初めて、神様の思いを知らせていただくのです。

まとめ.

神様は私たちが心を開いて祈るのを待っておられます。ですから、大胆に祈って良いのです。時には言い過ぎに思えることでも、受け止めてくださる神様に祈り求めましょう。「御心でしたら、こうしてください、でも、御心でなかったら、結構です」と遠慮する必要はありません。ただし、結果は神様に委ねるのです。神様は必ず最善の御心をしてくださると信じて、正直に心の内にある祈りを申し上げることを、神様は願っておられるからです。

 

(c)千代崎備道

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